第二話

 朔臣はすっと眼鏡を外した。何かを探るような目で陽雨をじっと見て、小さく頷く。


「封じの結界の形を基本形から自由自在に変えることはできるな?」

「うん……?」

「自分の体の表面を隙間なく覆うように薄膜状に張り巡らせることは?」

「できると思うけど……それって自分の霊力を封じるってこと? なら封印術を直接かけたほうが早くない?」

「違う。今陽雨の霊力を封じたら退魔結界が不安定になる。目的は陽雨の霊力を陽雨の体の外に出さないようにすることだ。……自信がないか?」

「できるもん。余裕」


 むっとして陽雨は手のひらに小さな結界を作り出した。

 肌に滑らせるように少しずつ薄く大きく伸ばしていって、全身を包み込んでいく。

 朔臣は眼鏡を外したまま陽雨を観察していたが、陽雨がちょっと気を緩めたところですかさず「陽雨」と口を開いた。


「右肩のところ、まだ隙間がある。全体的に後ろ側が不安定だ」

「分かってるってば。ちょっと黙ってて」


 なんだか朔臣に術の稽古をつけてもらっていたころのようだ。

 朔臣はかなり容赦のない指南役だった。できていないところは少しも目溢ししてくれない。

 反応が遅いとか術式の構成が杜撰だとか霊力の無駄が多いだとか散々に言われてきたことが思い出されてきて、今日やけに優しくされて絆されかけていた心がささくれる。


「ほら! できたでしょ」


 術式の網の綻びをひたすら結んで繋いで、一ミリのずれもなく調節してどうだとばかりに胸を張ると、朔臣は真剣な視線でじっくり陽雨を眺め、それから満足そうに目を細めた。


「ああ、よくできている。苦しくないか? そのまま動けるか?」

「普通にしている分には大丈夫。立ったり走ったりくらいならできると思う。霊力を使おうとするとたぶん解けるけど」

「立つな、走るな、座っていろ」


 標語のようなことを言いながら朔臣はおもむろに式札を取り出した。

 召喚した式神を、あろうことかそのまま放り投げて寄越す。


「ほら、受け取れ」

「受け……って、ばっ、朔、危っ」


 吹っ飛んできた毛玉の塊をなんとかキャッチして、腕の中を恐々と覗き込む。

 温かくて柔らかい、――陽雨の知らない感触だ。

 陽雨が触れようとした動物はだいたい陽雨に怯えて威嚇して、差し出した手から逃げるか噛みつこうとするかのどちらかだった。


 毛玉の塊――もといふわふわの毛並みの子犬は主人にぶん投げられた哀愁を漂わせて、くうんと鼻を鳴らして陽雨の腕にすり寄ってきた。

 唸られない。吠えられない。怯えられてもいない。

 すんすんと陽雨の匂いを嗅いだかと思えば、そのままぺたりと陽雨の膝の上で身を伏せてしまう。

 きゅんと胸が疼いて、力いっぱい抱きしめたいのを堪えながら、陽雨はきらきらした目で朔臣を見上げた。


「朔臣、凄い」

「やったのはおまえだ」

「こんな方法、どこで知ったの?」

「……陽雨に結界と結界の間に忍ばれると、陽雨の気配は俺でも探知できない。龍神が絶えず陽雨を侵食しようとするせいで滲み出ている気配を、同じ手法で陽雨から発露させないようにすれば、外部からは感知されないのではないか――という仮説を試しただけだ」


 あまりに何でもないことのように言うので聞き逃すところだった。

 陽雨は子犬の背を撫でる手を止めて自分の体を見下ろした。


「……私って龍神様に侵食されそうなの?」


 結局自分ではまったく分からなくて首を捻っていると、朔臣が陽雨を見つめる視線に力をこめた。

 気配探知の巧みな術師は、霊力や妖気そのものを視覚として捉えることができるという。

 朔臣の目にはいったい何が見えているのだろうか。


「陽雨に封じられた龍神は言い換えれば常に陽雨を自身の依代としている状態で、龍神と陽雨は相互に影響を与え合っている。厳密には異なるが、契約を交わした当主と龍神の関係とほぼ同じ状態だと言っていい。特に陽雨の感情の起伏が大きいときは龍神の力も増長するため、封印の継ぎ目が緩む瞬間を狙って龍神が陽雨に絡みつこうとしたがる。たいていすぐに封印の網にかかっておとなしくなるが」


 ああ、だからか。朔臣の案じる眼差しが胸に落ちた気分だった。


 眼鏡をかけ直した朔臣は、子犬の式神を手元に呼んで式札に戻すと、そっと陽雨の肩に触れて自分のほうに引き寄せた。陽雨をもたれさせるようにして腕に包み込む。


「そろそろ切り上げろ」

「う、うん」


 うつむいて従順に結界を解く陽雨がしょげているとでも思ったのか、陽雨の隣に腰かけて、幼いころのように膝の間に陽雨を抱き上げる。

 陽雨はあっさり朔臣の胸に閉じ込められていた。

 どきん、と体温が数度上がった気がして、ひたすら身を小さくする。


「……これで、少しは自信がついたか?」


 自信? と首を傾げた陽雨に、朔臣はほんのわずかに苦笑を滲ませた。


「当主継承の儀。不安だったんだろう。おまえが忙しなく動き回りたがるのは、気を紛らわせる何かを欲しているときだ」


 不安定な情緒の根本的な原因のひとつを言い当てられて、陽雨は言葉に詰まった。

 朔臣には何でも見通されてしまう。そういえば定例本会の前もそうだった。


「明陽様の封印をすり抜けるほどの龍神の力を、今おまえ自身が抑え込んでみせただろう。おまえが既に龍神を制御できている証拠だ。当主継承の儀も今と同じことをすればいいだけだ」


 朔臣はそのために陽雨の幼いころからの憧れのひとつを実現してみせてくれたのだろうか。

 ……こういうところだ、と陽雨は思う。

 いつも言葉と態度は冷たいくせに、ときどき人が変わったのかと思うほど優しくしてくれる。

 こんなことをされたらもっと好きになってしまう。突き放すならもっと徹底してほしいのに。


 陽雨は感極まって朔臣の胸に縋りついた。今なら振りほどかれないと分かっていた。

 狙い通り、朔臣は陽雨を抱きしめてくれた。


「さっきの結界は陽雨の霊力を丸ごと覆うことになるから、俺か月臣のいるところでしか許可できないが、今日が最初で最後というわけじゃない。どうせ来月には龍神は陽雨の中からいなくなる。犬でも猫でも好きなだけ撫でればいい」

「……私、うさぎと、ふくろうと、イルカと、アザラシも撫でたい」

「動物園でも水族館でもどこでも行けるようになる」


 これから当主となるのに果たしてそんな時間が取れるのかと捻くれたことを思ったが、陽雨はもうそんな憎まれ口を叩く気にはならなかった。

 仮にも好きな人に抱きしめられている格好で、低く響く甘やかな囁き声を耳元から吹き込まれて、浮かれていると言われても仕方がないほどふわふわと舞い上がっていた。


「……知ってるんだから」


 陽雨は夢見心地で呟いた。


「朔臣が私に優しいのは、私の体調が悪いときか、私がすっごく落ち込んでるときだけだもん。明日からはまた、いつもの冷たい朔臣に戻っちゃうんでしょう」


 今日は病み上がりで体がついて来なくてふらついてばかりだったし、何よりちょっとしたことで怒ったり落ち込んだり泣いたりと酷い情緒不安定だったから、相互に影響を与え合っているという龍神の力を少しでも鎮めるために、普段の分かりにくいほどのさりげない気遣いが昔に戻ったのかと錯覚するほどの甘やかしに変わっただけだ。

 陽雨は朔臣が実は、“朔臣を『朔兄』と呼んでいたころの陽雨”に弱いことを知っているのだ。

 怒って泣いて癇癪を起こして子供のような我儘を喚けば、最終的には態度を緩めて、陽雨を慰めようとしてくれることを、知っているのだ。


「…………知ってるんだから」


 知っていて、その優しさにつけ込んで結婚の承諾まで貰ったのだから、これ以上は望むべきではないのだ。また昔のように、なんて思うのは高望みだ。


 陽雨は朔臣の肩口に顔を埋めたまま押し黙った。

 これ以上口を開けば言ってしまいそうになる。昔の朔兄に戻って、と言いそうになる。

 今日の陽雨がねだればきっと朔臣は甘やかしてくれるだろう。

 明日以降の朔臣との落差にどれだけ傷つくことになるか、陽雨は嫌というほど知っているはずだ。


「……当主継承の儀までだ。それまで我慢しろ」


 朔臣の手が髪を梳くように後頭部を撫でる。

 陽雨の強がりごと慰撫する手つきだった。

 幼いころ事あるごとに泣きついていた陽雨を慰めてくれた、優しくて温かい手。


「……じゃあ、我慢するから、私が十八になったら結婚して」

「それは、そのときの陽雨が決めることだ」

「分からず屋。……私、朔臣じゃない人と結婚するくらいなら、当主になんかならないから」

「おまえはそういう、他人を巻き込んで破滅させると分かっていることを、感情的にできるたちじゃないだろう」

「…………」


 陽雨の思考回路をよく知っている男の言葉に悔しくなる。

 陽雨がそれ以外の生き方を知らないことを、この男はよく知っている。


「陽雨がどれだけ当主の役目に責任を持って水無瀬に尽くしてきたか、俺はよく知ってる」

「……馬鹿なことを言うなって、はっきり言えばいいでしょ」

「分家の目と耳のない場所でならどれだけ馬鹿なことを言っても構わないが、普段の陽雨ならあんな馬鹿なことは言わないし、おまえが馬鹿なことを言い出すのはたいてい心身が弱っていて正常な判断ができていないときだ。ろくでもないことを考え始める前に寝ろ」

「ろ……ろくでもないって何」

「そういうときのおまえは予想がつかないほど突拍子もないことをしでかすからろくでもないと言うんだ」


 弱っていると分かっている相手にかけるにはかなりずけずけとした物言いだが、言葉尻は普段より柔らかい響きを帯びていて、包み込む手はとんとんと穏やかな振動を背に与え続けている。

 そのうちにほんのり熱を持った瞼が落ちてきて、小さいころは朔臣に膝の上で寝かしつけられるとすぐに眠ってしまっていたことを思い出しながら、陽雨はうつらうつらと首を揺らしていた。


「ほら、陽雨、そろそろ体力の限界だろう。もう眠れ」

「……だって、あと……ひと月もないのに……当主継承の儀までに……やらなきゃ……いけないこと……」


 反論している間にも意識の大半を眠気に支配され始める。

 口先で虚勢を張っていたはずだったが、その辺りから次に目覚めるまでの記憶はとんと曖昧だった。

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