第五話

「衣装についての審議はここまでとします。衣装室、まだ意見を言い足りない方々の言い分を取りまとめて、のちほど最終候補を挙げてください。議事次第に戻ります」


 次の議題は、と議事次第に視線を落として、少しだけ胸が騒いだ。

 動揺を表情に出さないように気をつけながら、なんでもない口調で陽雨は続けた。


「……議題二十一。当主代理、皆瀬陽雨の結婚について。先月の本会で合意に至らなかった議題の再審議に移ります」


 先月は陽雨が結婚できる年齢になったらさっさと入籍させて跡継ぎを産ませるべきだという多数派の意見を、霧生家の当主代理として出席していた朔臣が頑なに「霧生家は了承しない」と言い続けて、膠着状態で話が進まなくなったために次月の再審議に回すことにされたのだった。

 今日は月臣が同席しているので、なおのこと霧生家側の同意は得られないだろう。


「霧生は年若い当主代理に結婚を強いる真似は慎むべきだと主張する。――これは陽雨の親代わりとして申し上げることだが、まだ十代の高校生である私の姪に対して、懐妊を急くような発言があったと耳に挟んだ。品格と女性に対する敬意の持ち合わせのない振る舞いに断固として抗議させていただく。よもやこの場に選ばれた諸君に、そのような愚昧な戯言を口にする不心得者はおられまい」


 月臣は一番に挙手して陽雨が指名するや否や、そう言いきって牽制の眼差しをたっぷり奥の間に巡らせた。

 陽雨が何を言われていたのか知らないはずのない面々は誰も彼もが口を噤む。互いに顔を見合わせて周囲の出方を窺っている。


 先月はあれだけ、婚姻届を先に書いておけ、数ヶ月など誤差の範囲だから早く跡継ぎを孕めとせっつかれたというのに。

 次代の“正当な”当主を産むための胎として扱われていたこれまではいったい何だったのだろう。

 無遠慮な視線と発言とを必死に堪えてきたあの屈辱の時間は何だったのだろうか。


 ふつふつと湧き上がってくる鬱屈に、陽雨が無意識にため息をついたときだった。


「――当主代理に結婚を強いることはあってはならないことですが、お若い当主代理にひと回り年の離れた男を宛がうことについても、今一度議論をすべきでは」


 声は奥の間ではなく、次の間から上がった。

 沈黙に一石が投じられれば、それは波紋のようにざわめきを広げていった。

 奥の間から次の間から、続々と声が上がっていく。


「術師として優秀な朔臣どのを、最も龍神の怒りの矛先の向きやすい位置に置いておくというのは、水無瀬にとっては大きな損失だろう」

「いやしかし、冬野様は他家より入られた方であったが、朔臣どのは水無瀬の生まれ……龍神が冬野様に対するものと同様に反応するとも限らないのでは」

「そもそも、当主となられる方の配偶者の選定に、ご本人のご意思が含められないままというのはいかがなものかという話だ」

「当主代理がお生まれになった当時から、水無瀬の情勢は大きく変わっている。当主代理をお支えできる者は霧生家の他からも探せるはずだ」

「仮に当主代理にも明陽様のときと同じことが起こるのであれば、おふたりが結婚された場合、本家の血筋を持つ方々が揃って子を成せない事態を招きかねない」


 心臓がどくどくと嫌な音を立てている。

 冷汗が背を流れる。

 陽雨は自分がどういう表情をしているのか、あまり自信がなかった。


「――ふむ。なるほど、貴殿らの意見はもっともだ」


 月臣が慌てたそぶりもなくゆったりと顎を撫でて、次々に上がる意見に耳を傾けている。

 その様子に勢いづいたのか、次の間の分家当主が高らかに声を上げた。


「新当主にお仕えするに相応しい忠義を持つ者はこれからさらに多くなりましょう。当主代行が大切な姪御を手元で守りたいお気持ちはお察しいたしますが、新当主の側近を育てるためにも、霧生家は当主代理の側近い高座の独占を控えるべきでは――」


 限界だった。


 どの分家よりも確かな功績を持つ霧生家に対して無礼ではないかという反発。

 上座の反応を窺ってからどちらの流れに乗るべきか見定めようとする静観。

 あわよくば自分の家もおこぼれに与かれるかもしれないという同調。

 そのすべてが遠い世界の出来事のように感じた。


 この人たちは、いったい、何を言っているのだろう。


 いつの間にか皆の視線が陽雨に集まっている。陽雨が意見を求められているらしい。

 陽雨は冷ややかに大広間中を睥睨した。


「――伯父様」

「何だい、陽雨」

「伯父様は、私が当主継承の儀を成功させると、本当に思っていらっしゃる?」

「当然だ」


 月臣がはっきりと首肯した。疑問を挟む余地も与えないほど、確信のこもった答え。

 陽雨は小さく頷いた。


「――私が当主となった暁には、霧生月臣およびその後を継ぐ霧生家の当主には、私に能う限り最高の待遇を用意します。たとえ貴方がたが私の婚約者を誰に挿げ替えようとも、私が霧生を置いて他の分家に目をかけることは一切ありません」


 陽雨の牽制に一部の分家当主たちがぎくりと顔色を悪くする。

 凍りついた目で一瞥して、陽雨は言葉を続けた。


「霧生は私が生涯をかけてその忠義に報いるべき家人です。私が当主に就任する代の水無瀬においては、筆頭分家は霧生以外認めません。当主代行も当主補佐役も、霧生以外から選ぶくらいなら、置くつもりは毛頭ありません」


 鋭く息を呑む音がそこかしこから上がった。

 当主が女性の場合、その婿には当主代行や当主補佐役の席が与えられることが多いからだ。


 女性当主が妊娠している間はその夫が当主の代わりを務められるよう、女性当主の婿には往々にして当主に次ぐ地位が用意される。

 水無瀬ではその慣習を目当てにした分家子息たちがこぞって我こそはと結婚相手に手を挙げるため、女性当主の婿の選定には毎度のごとくかなりの紆余曲折が生じるものだった。

 分家の揉め事に巻き込まれずに順当に結婚相手が決まった例など、当主就任直前まで他家に出ていて、水無瀬に戻るや電撃的に婚約者を発表してそのまま入籍を済ませた明陽と、誰も引き取り手がいないゆえに月臣の肝入りで朔臣に押しつけられた陽雨くらいのものである。


 先々代のころからずっと本家に尽くしてきた月臣の前で、よりにもよって席次の独占呼ばわりするような恥知らずに、陽雨は当主周りの重役を与えるような人間だと思われているのだろうか。

 今まで陽雨にまつわる面倒事をすべて霧生に押しつけてきておきながら、これまでの功績を讃えるどころか、恩を仇で返すような真似、陽雨の誇りに懸けてもけっして許してはおけない。


 怒りで膨らむ霊力を感知したのか、隣で洋輔がびくりと怯えた。

 はっとして霊力を抑え込む。

 ごめんね、怖がらせたね、と洋輔を宥めているうちに勢いは多少萎んでしまったが、それでも陽雨の胸の内では憤りが燻り続けていた。


「当主代理の御心は理解しました。ですが、だからこそ、ご結婚と当主代行の寵遇は分けてお考えになるべきです」


 まだ口を開ける者がいるのかと思っていたが、声を上げた幹部当主は殊の外堅固な姿勢を貫いた。

 月臣がぴくりと片眉を上げて、唇を引き結ぶ陽雨の代わりに「どういう意味だろうか」と問う。

 幹部当主は意気揚々と身を乗り出した。


「当主代理が当主代行を特別に遇することに、この水無瀬で異を唱える者はおりません。今後も当主代行のご子息をお側近くに置かれるというのなら、それもまた反対できる者などいないでしょう。朔臣どのが水無瀬の中枢を担うべき優秀な方であることは我々も存じております。ですが、朔臣どのが当主代理を妻に得て本家に入ることが重要だと思われてきたこれまでと違って、当主代理の婚約者が朔臣どのでなければならない必要性は、いまや既になくなっているはずではありませんか?」


 ぐ、と腕を握り込んだ。強く掴みすぎて、袖に皺が寄った。肌は赤くなっていることだろう。

 ……本当に、余計なところにばかり気がつく幹部衆だ。

 陽雨はだんだん彼らが憎たらしくなってくる。


「まだ十代の当主代理にひと回りも年齢の離れた男を宛がうことも、朔臣どのに赤子のころから知っているような高校生の女の子との結婚を強いることも、必要性が失われた以上はおふたりにとって不幸なことではありませんか。当主代行、当主代理が成人されるこれを機に、一度当主代理の縁談は白紙に戻してはいかがでしょう。幸い水無瀬では明陽様のご懐妊を前後してたくさんの子が産まれました。当主代理に年齢の合う相手の候補も多いかと」


 まるで陽雨と朔臣の政略結婚じみた年齢の不釣り合いさを憂う物言いだが、彼らが狙う実際の意図は明白だ。

 彼らは陽雨が当主となって権力を持つ前に、きっと一番に目をかけられるだろう霧生家を蹴落としたいのだ。

 次期当主の婚約者となれば、たとえ陽雨が夫となる相手に当主代行や当主補佐役の地位を与えなかったとしても、周囲のその出身家を見る目は変わる。

 夫として最も当主の近くにいる男が、妻である当主に対して影響力を持たないはずがないからだ。


「朔臣どのは、どうお考えか? 貴殿も我々からすればまだお若い身、自由を擲って長らく当主代理を支えられてきたのだから、そろそろその肩の重荷を解いてもよろしいのでは」


 ――重荷。

 ずしりとした衝撃を与える言葉だった。


 務めに出るようになった陽雨に朔臣が補佐役として本格的に同行し始めたのは、朔臣が大学を卒業したばかり、二十歳を数年過ぎたばかりのころだった。

 絶対に死なせてはならない、傷つけてもならない幼い龍神の依代を、そうと知らせず補佐して回るのはどれほどの重圧だっただろう。

 朔臣はこれまでたったひとりで龍神の封印を守ってきたも同然だったのだ。


 もう辞めたいと言われるかもしれない。

 陽雨のお守りなど二度と御免だ、もう解放してほしいと言われるかもしれない。

 恐怖にも似た気持ちで陽雨は肩を竦めた。


 恐ろしかったけれど、それと同じくらいに、そう言ってほしいと強く願った。

 だって、これは分家による霧生下ろしの一環だ。

 朔臣から破談を言い出しやすい空気を作って、言外に婚約解消を迫る彼らが、朔臣がそれでも首を縦に振らなかったときにどういう手に転じるか、月臣へのおためごかしの言葉の数々を聞いていれば誰にだって分かりそうなものだ。


「……朔臣。おまえはどう考える」


 月臣が苦くため息をついて促した。

 陽雨は心の中で固く手を組み合わせた。


「……私から申し上げるべきことはありません。私の処遇は霧生家当主がお決めになること、当主代理の結婚は当主代理がお決めになることです。私はその決定に従うまで」


 朔臣の素っ気ないほどの端的ないらえに、どうして、と歯噛みする。

 ここで幹部衆の言に乗っかっておかなければ、彼らの機嫌を損ねた朔臣への彼らの当たりは強くなるだろう。

 下手をすれば朔臣が権力争いに負けて当主就任間近に婚約者を降板させられたように見えてしまう。不要な汚名を着せられることになる。


 幹部衆の言はもっともなものだ。

 陽雨の結婚相手は月臣の息子でなくていい。

 その一点をもって、今の水無瀬では、陽雨の婚約者を挿げ替えることが是認される。


 案の定、幹部衆の目元が忌々しげに歪んだ。

 彼が次に何かを言う前に、陽雨は咄嗟に振り返って口を開いた。


「朔臣、もういい」


 前を見据えていた朔臣の視線が、ゆっくりと陽雨に移る。

 陽雨は逸る気持ちのまま言い募った。


「あんたが私のことを嫌いなのは知ってる。好きな人や付き合っていた人がいたことも、私が中学に上がるころには別れてずっと身綺麗にしてくれてたことも知ってる。それでも今まで役目を全うしてくれたことに感謝してる。だから、もうやめていいの。本当のことを言って。私の婚約者じゃなくなって、自由に生きてくれて、いいから」


 だから、どうか、婚約を解消したいと言ってほしい。

 他でもない朔臣にそう言われたら、きっと陽雨は今後一切恋愛なんてしたくなくなるくらいに傷つくだろうけれど、朔臣に消えない汚名を着せるくらいなら、陽雨はいくらでも傷つく覚悟を決められる。


 朔臣は陽雨を見ていた。

 傷つく覚悟は決めたはずだけれど、その表情が嫌悪に歪むのを見るのはやっぱり怖くて、陽雨のほうが視線を逸らした。

 さっさと引導を渡してほしい。ひと思いに切り捨ててほしい。

 陽雨が、もしかしたら、なんて余計な期待を抱いてしまう前に。

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