第六話

「……陽雨が望むことに、従う。陽雨が婚約を解消したいのならその通りにする」


 握りしめた指の爪が、手のひらに突き刺さる。

 陽雨の望みで婚約解消が決まったらもっと駄目なのに。朔臣から言い出してもらわないといけないのに。

 嫌いで嫌いで仕方がない陽雨のお守りから解放されるせっかくのチャンスなのに、どうして。


 顔を上げて、そこで陽雨は息を詰めた。

 朔臣は眉を寄せていた。

 どこか苦しそうな、悲しそうな目で陽雨を見ていた。

 何かを詰るような、訴えるような目。――いつかも見たことがある気がした。


「……おまえが決めることだと、言っただろう。誰と結婚するもしないも、誰の子供を産むも産まないも、すべておまえが自分で決めることだ。他人の言葉に自分を任せるな」


 ――鳥居の前で、聞いた言葉だ。

 月臣が水無瀬に帰ってきた日の翌日。献饌のあとに言われた言葉。

 あのとき陽雨は朔臣に反感すら覚えていた。

 そんなことができるわけがないと思い込んでいた。


 陽雨の立場がひっくり返った今、同じ言葉でも、その意味は陽雨が思い込んでいたそれとはまったく違うものに聞こえた。

 否、朔臣は陽雨の中に龍神が封印されていることを知っていた。

 いずれ陽雨がそうできる立場を得るだろうことも知っていた。

 朔臣は、初めから、こういう意味で言っていたのだ。


 そんなの。

 そんなの、あんなところでそれだけ言われたって、先月の陽雨に分かるわけがない。伝わるわけがない。

 馬鹿だ。もっと分かりやすく言え。説明不足にもほどがある。


「……っああそう」


 陽雨は吐き捨てた。その勢いで近くに控える使用人をぎろりと睨みつける。


「そこの貴方、今すぐここに筒泉老を呼びなさい。まだ離れにいらっしゃるから、夫人も一緒に。『貴方が先日の本会で私に書かせるはずだった書類を持って参じなさい』と言えば分かるから」


 使用人は呆けたように目を丸くしている。

 早くしなさい、聞こえなかったの、と急かすと、「はっ、はい、ただいま!」と転がるように出ていった。


 皆が困惑の眼差しで陽雨を見ている。

「当主代理、何を……」と言いかけた幹部衆のひとりを、陽雨は「全員黙って待っていなさい」と一蹴した。それきり一切の無駄口を許さなかった。


 筒泉老夫妻はややもせずにやって来た。

 相当に急き立てられてきたのか、不服そうな面持ちを隠さず「いったい何用で」と言いかけるが、陽雨はそれには答えずにつかつかと歩み寄ると、その手から目当ての書類をひったくった。

 ほとんど埋められた書類のうち、空欄のひとつにがりがりと自分の名前を書きつけて、そのまま朔臣の前にペンとともに突きつける。


「書いて。今」


 朔臣は怪訝な顔をしていた。


「何だ、これは」

「見て分かるでしょ。婚姻届」

「なぜこんなものを……」


 言いかけた朔臣の目が一点で細められる。

 証人欄には既に夫妻の名前が記されている。

 朔臣が執務室を不在にした隙を狙ってやって来て陽雨に書かせていったのだと知ったら舌打ちでもしそうなほど険しい顔つきをする朔臣に、陽雨は頑なに言った。


「私が決めていいんでしょう。今すぐ書いて」

「……陽雨。とりあえず座れ。あまり立ったままでいると倒れる」

「嫌。今書いて。今すぐ署名してくれなきゃ倒れるまで動かない」

「陽雨」


 梃子でも動かない陽雨を途方に暮れたように見上げて、朔臣は陽雨の手からペンを引き抜いた。

 陽雨が書き殴った署名の横に、さらさらと自分の名前を記す。

 すらりと長くて少し節榑立った指。右上がり気味だが整った綺麗な筆致。

 陽雨は朔臣が書類仕事をするときの姿を横目で盗み見るのが好きだった。


「六月一日、役所が開いたら一番に提出してきなさい。貴方の長老衆としての最後の仕事です。貴方のご子息の代以降の筒泉家を水無瀬で爪弾きにされたくはないでしょう」


 空欄のすべて埋められた書類を筒泉老に押しつける。有無を言わさず退室を命じ、襖が閉じられるのと同時に、大広間中を睨みつけた。


「まだ不満のある方は?」


 手は上がらない。饒舌だった先の幹部当主でさえも押し黙っている。

 陽雨が強権を振りかざして押し通した決定に、真正面から歯向かうことができる者はもういないのだ。

 その事実がどんどん陽雨をやるせない気持ちにさせる。


「――陽雨」


 立ち尽くす陽雨の肩を背後から掴んで、振り向かせた朔臣が眉を寄せる。

 煩わしいことになったとでも思っているのかもしれない。

 朔臣の視線から逃れるように肩を掴む手を払った。


「絶対、結婚するから。私が望んだことに従ってくれるんでしょう」

「分かったから、頼むから話を聞いてくれ」

「嫌。聞かない」


 嫌がられているのに一方的に無理やり婚姻を成立させようとしている自分が酷く惨めで、ぶわりと視界が熱く滲んだ。喉が震える。


「絶対結婚する。婚約は解消しないし、朔臣以外とは結婚しないし、朔臣以外の子供も絶対に産まない――」


 朔臣が「陽雨、落ち着け、そんなに興奮すると――」と宥めようとするが、ひと息に捲し立てすぎた陽雨が酸欠でふらつくほうが早かった。


 朔臣が慌てて陽雨を抱き留める。

 朔臣の焦った顔なんて珍しいものが見えたかと思うと、頭上からため息とも吐息ともつかない息が降ってきた。

 人目から隠すように腕に抱えられる。


「……だから陽雨を分家の前に出すのはまだ早いと言っただろう」

「私もそう止めたんだがな……」


 朔臣は月臣へと視線を向けていた。

 月臣は含んだ目で分家を一瞥してから、幹部第一席の座卓から立ち上がる。朔臣の腕の中にいる陽雨の額に手を当てて心配そうに覗き込んだ。


「あとの収拾はつけておく。退室して陽雨を休ませてやりなさい」


 床の間の席にゆったり移動する月臣と入れ替わるようにして、朔臣が陽雨を抱き上げてさっさと大広間を出ようとしたところで、「当主代理の同情を買って慈悲に縋るのですか!」という鋭い声が飛んだ。

 やけに霧生を敵視する先の幹部当主のものだろうか。

 声が頭に響いてぐわんと眩暈が襲ってくる。


 顔を顰めた陽雨を見て足を止め、朔臣が首だけで声の主を振り返った。

 陽雨の位置からは朔臣の表情は見えなかったが、答える朔臣は声色は低く、ひたすら冷徹だった。


「どうぞ声の量を落とされますよう。当主代理のお体に障ります。――霧生は未成年の高校生に結婚相手の決定を強いるつもりはありません。結婚相手は当主代理が当主となられたあと、ご自身に相応しい相手を熟慮のうえで選ばれるべきもので、当主継承の儀を経た当主が私との婚約を不要と判断したのなら、私も霧生当主もそれに否を唱えるつもりはありません。正当な本家当主に後ろ盾のための婚約者が必要ないことは当然に弁えています」


 陽雨は息を詰めた。

 朔臣にとって陽雨との婚約はそれだけの意味しか持たないのだと突きつけられているようだった。

 朔臣に、陽雨との婚約は必要ないのだ、と。


「今日は当主代理が本調子ではいらっしゃいませんので、あの書類一枚をもって私と当主代理の結婚を成立させることには、私も賛同しかねます。筒泉老の手に渡った婚姻届は当主代理を説得したうえで差し止めましょう。ですが」


 陽雨が身を硬くしていることに気づいているのかいないのか、朔臣は大広間に視線を巡らせた。


「――陽雨の結婚は陽雨が決めることだ。我々が退室したあと、彼女の意思を彼女以外の他人が語ることのなきよう、皆様がたにはくれぐれも配慮をお願い申し上げます」


 言い捨てた朔臣に抱えられたまま、陽雨は大広間を連れ出された。

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