第四話

「お待ちください。冬野様のご遺品からお選びになるのでしたら、明陽様のご遺品からお選びになってもいいはずです」


 慌てたように声を上げたのは、先ほど明陽の振袖を強く推していた幹部衆のひとりだ。

 陽雨は思わず顔を顰めそうになった。


「当主代理、我々は十八年もの間不当に貶められてきた貴女に、この先は明陽様と同じように華々しく栄光ある本家当主として過ごしていただきたいと願っております。能う限りのご衣装を当主継承の儀にご用意することもその一環。明陽様のご遺品には、ご本人は一度もお袖を通されなかったものの、当主となる明陽様のために仕立てられたものが多く残っておりますれば、同じく龍神様に見初められた当主となられる貴女により相応しいお召し物であると――」


 陽雨は努めて冷静にそれを聞き流そうとした。

 指が白くなるくらいにこぶしを握り込む。唇を硬く引き結ぶ。

 そうしていないと、手当たり次第に物を投げつけて、けっして言ってはいけない暴言をぶつけたくなる。


 明陽と同じように。

 結局皆、明陽がいいのだ。陽雨ではなく、明陽を望むのだ。

 明陽と同じ立場を得た陽雨に、明陽の代わりになってほしいのだ。


 明陽が水無瀬中から望まれているのは昔からだ。今に始まったことではない。

 陽雨は短くため息をついた。

 ずっとそうだった。別に今さら不満を持つことでもない。

 何かが変わるかもしれないなんて、そんな期待は陽雨だって持ち合わせていなかったはずだ。


 衣装の目録を衣装係に突き返す。何かを熱く訴えている分家当主を冷めた気持ちで眺める。

 もう何でもいいから好きに選んでくださいと、投げやりに言いかけたときだった。


「――当主代理。よろしいでしょうか」

「丹波老、どうぞ」


 片手を上げていたのは丹波老だった。

 促すと、丹波老はじとりと幹部席を見回した。先ほどの幹部衆を鋭く捉える。


「控えよ。それ以上自覚なく当主代理への侮辱を口にするならば、其方の席次の再選出を繰り返さねばならぬことになる」

「なっ……丹波老、何をおっしゃるか。私は当主代理の名誉のために――」

「その口を閉じよと言った。三度はない」


 一瞬膨れ上がった威圧の霊力に、幹部衆が怯む。

 長老としての威厳を存分に見せつけて反論を封じた丹波老は、再び元々の静かな居住まいに戻って、陽雨にひたと視線を向けた。


「聡明な当主代理におかれては、先の執行部再選出、およびこれまで続いた過去の議題の再審議騒ぎが、当主代理に当主継承の儀を受けていただくための水無瀬の体裁づくりの一貫であることは、とうにお気づきのことと存じます」


 誰もが言明せずにいたことをあっさり口にして、慌てる他の面々からの視線も物ともせず、丹波老は陽雨だけを見つめていた。

 視線だけで続きを促す陽雨に、厳かに言葉を続ける。


「しかし、この老いぼれも含めて、前執行部が多大に信用を損ねたことは揺るがない事実です。執行部がこの先の水無瀬の未来を左右する重大な局面で機能するためには、どうしても一度、何かしらの試しを受けて一定の承認を得る必要がありました。前執行部による当主代理に対する悪意ある裁可を覆し、新たに承認を得た新体制で前執行部の禍根を断つことで、我々は当主代理を次期当主として支持するという明確な意思表示を行う必要があるのです。誰も彼もが黙認し看過してきたこれまでの議事を、あたかも今初めて目にして心の底から驚き憤る振りをしてでも」

「……理解している、つもりです」

「ええ、だからこそ、貴女はここまで我々のこの下らない茶番劇に付き合ってくださったのでしょう。我々は貴女の寛大さに甘えていた。貴女に対してあまりに礼を欠いた振る舞いでした。貴女は初めから我々に最大限の譲歩を与えてくださったというのに」


 新執行部はこれまでの決定を端から否定してすべてをひっくり返すことで、陽雨を担ぎ上げるための“見せかけ”を整えた。

 水無瀬本家の次期当主たる陽雨には、それを鷹揚に受け取る以外の選択肢は許されていない。

 寛大や譲歩などではなかった。

 それは陽雨にとって、当然に為すべき義務だ。尽くすべき努力だ。


 否定すべきか迷う陽雨に、丹波老は皺の寄った瞼をゆるりと下ろした。


「……本来ならばこの場は、こんな茶番よりも何よりも先に、当主代理に当主継承の儀を受けていただけるよう、分家一同伏してお願い申し上げる場であるべきだというのに。貴女の御心を見誤るばかりか、貴女が示された御心の先を蔑ろにするような無礼を、貴女は金輪際お許しになるべきではない。払うべき敬意の示し方も心得ぬこのような家、愛想を尽かして出てゆかれても、我々には貴女をお引き止めする権利はないのです」


 目を見開いた。

 大広間の空気がざわりと波打つ。

 陽雨は水無瀬の家を興した始祖の血を継ぐ唯一の生き残りだ。

 月臣が霧生家に婿入りした以上、陽雨以外に本家直系の血筋の人間はいない。

 龍神の脅威という特殊な事情がなかったとしても、陽雨がこの家を出ていけば、水無瀬は皆瀬の一族を永遠に失うことになる。


 けれど、それは陽雨にとっても同じだ。

 陽雨にはこの屋敷以外に寄る辺がない。

 祓い屋の名門として名高い水無瀬に何もせずとも持ち込まれる霊障を捌く立場であった陽雨は、自分ひとりで術師として身を立てる方法も知らない。


「……私に、水無瀬の他に行く当てなど」

「冬野様のご実家は四家の一柱の筆頭分家です。龍神を御する力を持つ貴女が庇護を求めれば、賓客として特別の待遇で迎えられましょう。当主代行はかの家の当主とも親交の深いお方。貴女がひと言望めばその仲介に立つのはやぶさかでないと、既に我々に明確に示されています」


 陽雨の困惑を丹波老は首を横に振って否定した。

 陽雨は驚いて月臣を見る。

 月臣は陽雨が他家に出る選択肢など口にしたこともなかった。

 微かに目元を緩めて応じる月臣に、胸が締めつけられた。


 陽雨は首を横に振った。

 丹波老は目を細めてその様子を見て、小さく息を吐いた。


「責任感の強い方だ。……昔から、貴女はそういう方でした。当主代行も、貴女は水無瀬を見捨てられるような方ではないから、けっして頷いてはくださらないだろうと」


 責任。

 そんな立派な理由ではなかった。

 陽雨はもう一度、駄々を捏ねるようにかぶりを振った。


 水無瀬を見捨てる?

 自問してから、すぐに自答した。

 できない。できるわけがない。そんなの、決まっている。分かりきっていることだ。

 とっくに自覚していたはずなのに、それでも往生際悪く気づいていない振りをしようとした自分を、陽雨は笑いたくなった。


 だって、陽雨は――


 陽雨のほうこそ、ずっと、水無瀬から見捨てられたくなかったのだ。


 生まれたときから、陽雨の立ち位置は定められていた。

 不出来でも落ちこぼれでも、水無瀬の当主業は不足なくこなさなければならなかった。

 目の前にあるできないことをひとつずつ潰していけば、できることを増やしていけば、龍神を狂わせて水無瀬の光を死なせた陽雨にもこの本家での居場所が見つかるのではないかと、一縷の希望に縋っていた。


 陽雨はずっと、当主代理という席にしがみついていた。

 十八年弱しがみついてきた手は自分では簡単にはほどけなくて、だから、周囲に強引にほどかせてしまえと策を巡らせた。

 水無瀬の次期当主に相応しい跡継ぎになりたいと思う身勝手な心は、水無瀬の次期当主に相応しくないと皆に押される烙印でしか納得させられなかった。


「……私が、それ以外の生き方を、知らないんです」


 水無瀬の跡継ぎとして認められたかった。

 栄えある本家当主として、水無瀬を守る責務に胸を張りたかった。

 跡取り娘として水無瀬に龍神の守護による繁栄をもたらせないのなら、せめて跡継ぎを産むという役目は果たさなければならないと思っていた。

 それが、本家の娘が為すべきことである以上、陽雨はその務めから逃げるわけにはいかないから。


 今、陽雨の前には、跡継ぎを産むよりもさらに大きな務めが舞い込んでいる。

 陽雨がいなければ水無瀬が丸ごと滅びる。

 陽雨がいれば水無瀬は再び龍神の守護を取り戻せるかもしれない。

 それは陽雨にとってはもはや二択ではない。

 水無瀬の存続は、本家当主一族の娘として、陽雨が当然にこなすべき務めだからだ。


 陽雨は丹波老を見つめ返した。

 この老人は数日前の陽雨と同じだ。

 立っている位置が分不相応だと知って自ら退こうとした。

 首の皮一枚繋がったのだと思えばいいものを、陽雨の承認の前に異を唱えて撤回させようとした。


 その決意の強さが、一年かけて固めたはずの意志をたった数日の間に揺らしてしまった陽雨には、どうしようもなく眩しく思えた。


 あれだけ念入りに準備を重ねて、潔く当主代理の座から降りるつもりだったのに、立場が一変して持ち上げられた途端にその立場への執着を捨てきれなくなってしまった自分が、この老人の前ではひどく矮小な人間に思えた。


「あれだけのひとり芝居をしでかして、まだこの席に居座り続ける厚顔を、笑っていただいて構いません」


 引き裂かれるような笑みを唇の端に浮かべた陽雨を、丹波老はしばし見つめていたが。


「……笑う者など、おりません。当主代理、貴女は強い方です」


 ぽろりと、雫が頬を転がり落ちた。


 はたと目を瞬いて、慌てて袖で拭う。

 吐息が震えた。

 こみ上げた熱いものが喉の辺りを焦がした。


 泣けば何でも許されると思っているのかと定例本会で糾弾された十三歳のあの日から、家人の前では絶対に泣かないと決めてポーカーフェイスを貫いてきたのに、長老衆としてずっと陽雨を見てきたはずの丹波老の言葉に、胸の奥が緩みそうになる。


 陽雨、と心配そうに洋輔が見上げてくる。

 呼吸を整えて、大丈夫だよ、と微笑んで、陽雨は顎を持ち上げた。

 背筋を伸ばす。


「――衣装の変更は受け入れます。他家から婿入りされた立場である冬野様の遺品が相応しくないと思われるなら、新たに呉服商を当たるなり、先々代からの相続分の中から見繕うなり、気の済むまで次期当主候補の体裁を整えていただいて結構です。ただし、明陽様の遺品から選ばれたものは、どれほど高尚な理由があろうとも、簪一本さえ私が当主継承の儀で身につけることはありません」


 断言した陽雨に分家の目が集まっている。

 声が震えそうだった。

 それでも、熱を持つ喉に力をこめて、わだかまっていた本音を、陽雨はようやく吐き出した。

 たったこれだけのことを口にするのに一日分の気力を使いきったみたいだった。

 どっと疲労感が湧いてくる。


 丹波老がゆっくり頷いた。畳に手をついて座礼を取る。


「当主代理の御心のままに。十三参りの振袖は当主代理にとって、当主代行が贈られた大切なお着物であったこととご推察いたします。貴女にご家族から贈られた大切な振袖を着るなと言っておきながら、貴女の苦難の原因であるところの明陽様のお下がりで我慢しろなどという無礼は、もう誰も申しません。貴女は貴女だけのためのお着物をお召しになるべきです」


 最後に他の面々を的確に黙らせる魔法の言葉を言い放って、丹波老は発言を切り上げて陽雨に進行を返した。

 陽雨の当主就任をもって退任することが決まっている立場だと、後先のことを考えずに過激なことを発言できてしまうのかと、分家中からぎょっとした視線を集めてなおも平然としている丹波老に、陽雨はつい感心してしまった。

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