第四章 立場と心

第一話

 陽雨の熱が完全に下がるまで、結局丸々三日かかった。

 大事を取ってもう一日空けて、世の中ではゴールデンウィーク終盤の土曜日に当たるその日、先日中断された定例本会がとうとう再開されることになった。


 龍神や明陽にまつわる真実が水無瀬中を駆け巡ったあの日から、ほとんどの家人は気を揉み続けながらこの数日を過ごしていたが、月臣は陽雨が一日中ベッドから起きていられるようになるまではと定例本会の再開に頷かなかったのだ。


 昨晩にはその旨を知らされていた陽雨は、当主代理として家人の前に出ていくための身支度を済ませたあと、少しだけのつもりでひとり拝殿に赴いていた。


 龍の宝珠の下で退魔結界に意識を繋げ、数日間まったく触ることができなかった術式の網の隅々にまで、霊力を馴染ませていく。

 陽雨が臥せっている間は月臣が結界の維持を代わってくれていたが、破損した箇所の修復跡が馴染んでいるか、自分できちんと確認したかった。


 集中しているうちにひと通り調整し終えてしまって、ゆっくり板の間から腰を上げたところで、結界の端に人の気配が引っかかった。

 仕方なく結界内に招き、拝殿を後にすると、鳥居の陰に朔臣が立って待っている。

 ほとんど真っ黒なスーツ姿も相俟って、日陰にいるとそのまま闇に溶け込んでしまいそうな風情である。


「……朔臣。どうしてここに? もう定例本会が始まる時間?」


 定例本会、という単語を自分で口にした途端、先ほどまで遠ざかっていた重たい気分がずんと胸に落ちてきて、陽雨は誤魔化すようにへらりと頬を持ち上げた。

 朔臣がうっすら眉を寄せる。


「こんなところにひとりで来るな。倒れたらどうする。病み上がりの自覚を持て」

「ゆっくり上ってきたから大丈夫」

「俺に気づかれれば反対されるくらいには体調が戻っていない自覚があるから、結界の間をこそこそ移動してきたんじゃないのか」

「結局あんたが迎えに来たでしょ。初めから朔臣相手にかくれんぼができるとは思ってない」


 軽口を叩いていると、下から月臣まで上ってくるのが見えた。

 いつもの青藤色の着流し姿ではなく、霧生家の家紋入りの羽織袴に着替えている。


 立つな歩くなと口煩い朔臣を撒くために結界を閉じていたはずなのに、陽雨に感知すらさせずに抜けてこられてしまうのは、朝に一緒に結界の調整をしたあともずっと龍の宝珠との繋がりを維持したままだったからだろうか。

 そうと見えないほど涼しい顔をしている月臣には、本当にまだまだ敵わない。


「こんなところにいたのかい、陽雨」


 病み上がりなのに、とここでも過保護に体調を心配されて、陽雨は自分を抱き寄せる月臣の腕にくすぐったい気持ちで身を預けた。

 月臣が陽雨を気遣わしげに見つめて顔を覗き込む。


「昼食は取ったのかい?」

「……食欲、なくて。定例本会が終わったら何か食べるから大丈夫。そろそろ大広間に向かう時間でしょう?」

「少しくらい遅らせても構わないよ」

「ううん。どうせあんまり食べられないと思うから。行こう、伯父様」


 月臣の腕から抜け出して石段を下りようとすると、足首を風が吹き抜けた。

 そのまま足を掬われて、体がふわりとした感触の毛並みに包まれる。


 そこにいたのは、白銀の毛並みの狼とも大犬とも見える姿の四足動物だった。

 陽雨の記憶が正しければ、朔臣が使役する式神だったはずだ。もとはどこかの土地を守る神霊級の霊魂だったという。


「部屋まで乗れ。歩くな」

「……動物霊の式神を私に近づけていいの?」

「便宜的に獣の姿を取っているだけで、それの中身は動物じゃない。おまえを振り落とすような低位の式神を俺がおまえに近づけさせると思うのか」

「そもそも石段を式神に乗って下りるなんて罰当たり」

「陽雨、おまえに罰を当てるものは本殿にはいないよ」


 月臣にまでそう言い返され、陽雨はおとなしく式神に身を預けた。

 確かに境内まで上がってきたときも息が上がってしまって、体力が回復しきっていないことは自覚していた。

 強情を張って朔臣の前で石段を転げ落ちたりすれば、どんな嫌味が飛んでくるか分からない。


 式神に横座りして母屋まで運ばれていると、通りかかる使用人や家人が陽雨の姿を見て慌てて道を開けようとする。

 そのまま遠巻きに窺われ、人の目をあちらこちらから感じて、陽雨は思わず自分の膝へと視線を落とした。


 落ち着いた青磁色の絹地に織り出された、花菱の地紋が目に入ってくる。定例本会でも何度も着たことのある色無地。帯もグレーで派手派手しくないものを選んだし、髪だってきちんとまとめたし、簪も鼈甲の玉飾りのいつものもの。

 誰からも文句のつけられない格好のはずだ。

 だから背筋を伸ばしていればいいと分かっていても、これまでの嫌悪や敵意や嘲笑とは種類の異なる視線たちに、居心地の悪さは禁じ得ない。


 母屋は自分の足で歩くことを許されたので、式神を降りようとすると、すかさず月臣が陽雨の手を掬い上げた。

 幼いころのように手を繋いで、気持ちゆったりとした足取りで廊下を歩いてくれる。

 屋敷中の視線から守ってもらっているようで、手のぬくもりの分だけ竦み上がった心を宥められながら、陽雨は大広間へと重い足を進めた。


 大広間の前まで来ると、警備の術師と使用人が揃って頭を下げてくる。――陽雨にまで、丁寧に。

 内心を顔に出さないように努めるあまり能面のように硬い無表情を貫く陽雨を引き寄せて、月臣は序列通りに中に通そうとする使用人を片手で制し、「今日は陽雨と一緒に入室する。開けなさい」と宣言した。


 襖が音もなく開かれる。

 ざわめきが漏れていた大広間は、月臣に肩を抱かれた陽雨が入室するなり、水を打ったように静まり返った。


 衣擦れすら憚られるほどの粛然とした空気の中、無数の視線が陽雨を突き刺す。

 陪席の次の間が身動きの取れなさそうなほどの人で埋め尽くされていた。


 ゴールデンウィークの最中だというのに、今日はほとんどの分家が揃っているのだという。

 本家の役職を持たない分家の陪席は任意なので、こんなに分家が集まるのは当主の代替わりのときくらいだ。

 見放されていたお飾り後継ぎが、実は龍神を封じていた本人だと知れ渡ったせいだろうか。


「陽雨。私がついているから、堂々としておいで」


 月臣に付き添われて奥の間の上座に行き着くと、労わるような囁きが降ってきた。

 繋いだままの手を温かく握り込まれる。


 陽雨はほんの少し口元を綻ばせて頷いて、座卓に腰を下ろした。

 いつもは座布団が一枚置かれているだけなのに、いつの間にか肘掛け付きの上等な座椅子に替えられていた。

 これは当主用のものではなかっただろうかと思うと、なんとなく背をもたれるのを躊躇ってしまう。


「……皆様、お揃いのようですので――」


 伏せがちの視線をさっと巡らせて、奥の間の全席が埋まっているのを見て取って口を開く。

 定例本会の開始を宣言しかけた陽雨は、視界に引っかかった珍しい顔に目を丸くした。


 長老席の一角、座卓に身を乗り出してぶんぶんと手を振る、あの少年は――


「陽雨っ!」

「近江の……双子くん?」


 先日妖に攫われかけた、近江の双子の片割れだった。

 その横で羽織袴姿の不惑ほどの男性が慌てている。彼は近江老の息子ではなかっただろうか。

 そこに本来いるべき近江老の姿は、ない。


 少年は子供特有の機敏さであっという間に駆け寄ってきた。

 勢いのまま抱きつかれて、ひっくり返りそうになりながらなんとか受け止める。

 少年は満面の笑みで顔を上げた。


「双子くんじゃない、洋輔! 皆ヨウって呼ぶ。陽雨とおんなじ!」


 呼び方が『おまえ』から『陽雨』に変わっている。誰か陽雨の名前を教えたのだろうか。


「君……ええと、洋輔くん? どうしてここに?」

「ヨウでいい! えっとね、今日のホンカイ、お祖父様の代わりに父さんが出るから、オレもついてきたんだ。母さんが、ごめんなさいとありがとう、陽雨に言ってきなさいって」


 少年――改め洋輔は、言うなりくしゃりと顔を歪めて、みるみるうちに目を潤ませた。


「オレ、陽雨に酷いこと言ったのに、オレとヒナを助けてくれてありがとう。オレのせいであんなに怪我させて、ごめんなさい……」


 洋輔が『母さん』というワードを出した途端に泣き出すのは、あのあと近江夫人にたくさん叱られたからだろうか。

 陽雨はハンカチで洋輔の涙を拭ってやりながら頭を撫でた。


「どういたしまして。ヨウくんと妹さんは怪我もなかったって聞いてるよ。ふたりが無事でよかった」

「でも、陽雨は無事じゃなかった。怪我、いっぱいしてた。血もいっぱい出て……まだ痛い?」

「大丈夫。もう元気だよ」

「ほんと?」

「本当」


 答えながら近江の席へと視線を向けると、洋輔の父親が顔面を蒼白にしていた。

 自分の息子に必死に席に戻れと目で訴えている。


「近江の当主どの。近江老はどうされました?」

「はっ――も、申し訳ございません。父は持病が悪化し、預かった役目を果たせる状態にないとのことで――従いまして、本日は父に代わり、当主代理の沙汰を拝命するようにと……」


 成り行きを見守っていた月臣が「随分と姑息な真似を」と独り言ちる。

 近江当主はびくりと肩を震わせ、長老席にありながら畳に這いつくばった。

 彼の立場を考えれば仕方のないことだが、あまり彼の息子の前でそういう姿を見せたくない。


「分かりました。近江当主の代理出席を認めます。近江どの、顔を上げてください。……ヨウくん、お父さんのとこに戻ろうか」

「やだ!」


 洋輔はぎゅっと陽雨の腰に縋りついた。


「オレ、陽雨の味方になってくるって、母さんとヒナと約束したんだ。オンガエシとツグナイをしてくるのよって」


 近江家は一家揃って結構な言葉を洋輔に吹き込むものだ。

 少年はぐしぐしと目元を擦って使命感に満ちた顔で陽雨を見上げている。

 幼い少年に大人が寄ってたかって刷り込むような真似はどうかと思うが、裏表のない純粋な気持ちを無下にできるほど、陽雨はこの場で強い心を保てているわけではなかった。


 慌てる近江当主を片手で制し、近くに控えていた使用人に座布団を一枚準備させる。

 座り慣れない座椅子から腰を上げて洋輔を座らせ、自分は座布団に腰を下ろして、微かにどよめいた空気に構わず洋輔に微笑みかけた。


「ヨウくんを当主代理の助手に任命します。私のお手伝い、してくれる?」


 洋輔はぱっと顔を明るくした。

「うん! する!」と大きく頷く少年に陽雨まで明るい気持ちになれそうだった。

 陽雨は表情を引き締めながら、再びぐるりと大広間を見回した。


「――これより、当月の定例本会を再開します。議題一、当主継承の儀に関する議題。当主代理不信任決議。発議者、当主代理、皆瀬陽雨」


 座卓に置かれたそれぞれの家紋入りの書状に視線を落とす。

 計十二通。今日の開催を前に、幹部十二席すべてから、陽雨の提議に対する反対意見申立書が届いていた。


「……採決を再開します。皆様既に投票はお済みのようですので、書記、開票結果を」

「賛成ゼロ票、反対十二票です」

「ただいまの結果をもちまして、当議案は否決されました。では次――」


 淡々と進める陽雨の耳に「陽雨⁉」と叫ぶ声が聞こえた。見れば洋輔が横で立ち上がっている。


「なんで……今の、陽雨の意見じゃないの? なんで皆反対するんだよ」


 陽雨は困ってしまって、洋輔の手を引いて座らせた。

 洋輔が逆に陽雨の手を引っ張って「なんで」と悔しそうに繰り返す。納得するまで引き下がりそうにない。


「……私が当主代理を辞めると、水無瀬が困ったことになるかもしれないから、かな」


 陽雨がなんとかそう説明すると、洋輔の顔がぽかんとした。

 目が零れ落ちそうなほど陽雨を凝視したかと思えば、表情に悲愴を漂わせて、陽雨の裾をぎゅうっと掴む。


「なんで? 陽雨、当主様、やめようとしてたの? オレとか、お、お祖父様が、陽雨に酷いこと、言ったから?」


 なんと答えたものか窮してしまった陽雨に、洋輔がひくりと喉を震わせた。


「ごめん、なさい、謝るから……お祖父様も、母さんも、連れてきて、ごめんなさいするから……当主様、やめないで。陽雨、強くて、綺麗で、かっこよくて、妖もすぐにやっつけちゃって、後ろのやつまで見ないで倒しちゃって……オレ、当主様は陽雨がいい。陽雨、やめないで」


 しゃくり上げる洋輔を前に途方に暮れる。

 やめないでも何も、陽雨はたった今当主代理を降りる提案を満場一致で反対されたのだ。

 一年間あんなに必死に集めた賛成意見を、このたった数日であっさり無に帰されて。


「……辞めないよ。大丈夫。ヨウくんのせいじゃない。ヨウくんのお母さんも、お祖父様も、誰も悪くないよ。だから泣かないで」


 洋輔を膝に抱き上げて、よしよしと背を撫でてやる。

 小さな腕がきゅっと首に巻きついた。

 まるで陽雨を離すまいとするかのような仕草に、なんだか喉の奥が熱くなった。


「ほんとに? ほんとの、ほんとに、やめない? だって、陽雨は、当主様をやめたかったんじゃ、ないの?」

「辞めたいを考えられる立場に、初めからいないよ。辞めたいなんて思ったこともない」

「じゃあ、なんで? なんでやめようと、してたの?」

「……なんで、かな」


 陽雨は目を伏せた。


 当主代理としての務めが始まったのは、陽雨が洋輔くらいの年齢のころだった。

 小学校に上がるか上がらないかの時分から常にともにあった立場。

 陽雨にとっては当主代理であることは自分の生き方そのものだった。

 それ以外を自ら選ぶことなんて、できそうにないほどに。


「……棚ぼたで降ってきた立場にしがみつくのをもうやめろって、誰かに言われたかったの。皆から言われて、自分に、諦めをつけたかったの」


 洋輔は陽雨の返事を理解できなかったのか、頭に疑問符が浮かんでいるのが目に見えそうなほど難しい顔をしている。

 目尻に残った涙を拭ってやりながら、陽雨は微笑んだ。


「ちょっと難しかったね。心配してくれてありがとう」


 洋輔を落ち着かせ、座椅子に戻らせて、議事を再開する。


 もう陽雨にとってはこの先の議事など消化試合も同然だ。

 当主代理不信任決議を持ち出したときの陽雨には当然、自分が当主継承の儀を受ける気なんてさらさらなかった。


 余計に気が重たくなるのを、隣にいる洋輔の存在だけが相殺してくれるようだった。

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