第六話
ようやく熱の下がり始めた二日目、夕食のあとの薬を飲んで少しだけうとうとしていた陽雨は、喉の渇きで目が覚めてベッドを抜け出した。
自室を出てミニキッチンの備えつけられた小居間に向かおうとして、ふと廊下の突き当たりの部屋から灯りが漏れているのに気がつき、足を向ける。
光源は当主代理執務室だった。
「……朔臣?」
まだ仕事をしているのかと顔を覗かせると、そこには朔臣の他にひとりの老人がいた。
難しい顔をして机の上の書類を睨みつけていた後ろ姿が、陽雨の声に振り返る。
「当主代理……」
「……丹波老? こんな時間まで、まだ残っていらしたのですか?」
本家の警備もとっくに夜勤に交代している時間帯だ。
何か問題でも起きたのだろうかと歩み寄って、ふたりが取り囲んでいた書類をひょいと覗き込む。
どうやら警備体制の人員配置表を作り直しているらしい。
陽雨から後ずさるようにして、丹波老が身を縮こまらせた。
なぜか頑なに目を合わせようとしない。所在なさそうに部屋の隅に佇んでいる。
「陽雨。なぜ出歩いている」
どうしたのだろうかと思っていると、朔臣が渋面を作って陽雨を見下ろした。
陽雨は小首を傾げる。
「喉が渇いたから」
「……は?」
「お水を飲もうと思ったの」
「……水道も冷蔵庫もここにはない。水なら持っていってやるから、早く部屋に戻れ。そんな格好でうろつくな」
まるで陽雨がみっともない格好をしているような言い方だが、下着で出歩いているわけでもないのに大袈裟だと思う。
浴衣の上から羽織も着込んでいるのに。
「朔臣、今日は『当主代理』じゃなくていいの?」
特に家人の前で朔臣が陽雨を名前で呼ぶのは珍しい。いつも人前では『当主代理』で、ふたりきりなら『おまえ』だ。
「……そっちのほうがよければそう呼ぶ」
「ううん。陽雨がいい。朔臣に陽雨って呼ばれるの、好きなの」
首を振った陽雨に朔臣ははっきり顔を顰めた。はあ、とため息をついて、陽雨の額に手を当てる。
「まだ熱があるだろう」
「だいぶ下がったよ」
「何度だ」
「んーと、三十八度五分」
「寝ろ」
「一日中寝てたから眠くないもん」
陽雨は唇を尖らせて自分の執務机に腰を下ろした。
月臣が肩代わりしてくれたからか、机の上に積まれた書類は思ったほど多くない。
いつもは日中に学校に行っている間だけで、文箱が溢れかえっているというのに。
残されているのは陽雨でなければ判断できないものばかりのようだった。
三日も滞らせてしまったので期日の怪しいものがいくつかある。
急ぎのものだけ手早く分けてさっと目を通していると、朔臣が「陽雨」と咎めるように手を伸ばしてきた。
書類を取り上げられる前に、簡単に指示を書きつけた付箋を貼って手渡しながら、陽雨はふと口を開いた。
「一昨日、滝から部屋まで運んでくれたの、朔臣?」
「……覚えてないのか」
「滝まで迎えに来てくれたのはなんとなく覚えてる。朝起きたら見たことのない浴衣に着替えてたけど、着替えさせてくれたのも朔臣?」
「……おまえは、俺が病人の服を剥くような人間だと?」
「服を剥くっていうか介助でしょ。違うの?」
何も朔臣自身がどうこうしたとは思っていない。
朔臣ほどの術師なら式神に人格や知性を持たせることもできるだろうから、式神に任せたのだろうかと思っただけだ。
しかし、朔臣はそうは取らなかったようだった。
「どの浴衣のことを言っているのか知らないが、俺が見たときにはおまえは着替えを済ませていた。俺はその着替えを用意させただけだ。見慣れないものだったというなら、新しくどこからか用立てたんだろう」
「わざわざ? 私の部屋から取ってきてくれたらよかったのに」
「部屋に施錠結界をかけているだろう」
「部屋を荒らされたり変なものを投げ込まれたりすると困るもん。でも、呼んでくれたら結界くらい開けたのに」
「沐浴中に声をかけられるのは嫌なんじゃなかったのか」
中学生の陽雨が訴えたことをよく覚えているものだ。思春期の多感な年頃に口にした自意識の塊のような発言を蒸し返されるとなんとなく居心地が悪い。
「じゃあ肩のとこの手当ても朔臣?」
「……同意は得たつもりだった。おまえにその覚えがないなら謝る。見たものを忘れろと言うなら夢見の術を使う元妖の式神を月臣が飼っていたはずだ」
「手当てしてもらって文句言うつもりなんてないってば。そもそも下着だって私の物じゃない新品だったし、来月には裸を見せることになるかもしれなかったんだもん。朔臣になら見られてもいい」
朔臣が珍しく書類を取り落としそうになっていた。
喉の奥で短く唸ったかと思うと、眉を引き絞って陽雨を見下ろし、頭が痛いとばかりにこめかみに指を当てながら深いため息を吐き出す。
「…………頼むから、おまえはもう少し頭をはっきりさせてから口を開いてくれ」
まるで陽雨が呆けているような言い草だ。失礼な男である。
陽雨はむっとして朔臣を睨み上げた。
「『おまえ』じゃない。陽雨」
「…………陽雨」
根負けしたように名を呼ばれて頬が緩む。
朔臣がいつもより優しいのは、陽雨が体調を崩しているからだろうか。
だったら陽雨は毎日でも寝込んでみせるのに。
「水を飲むんだろう。ほら、部屋に戻るぞ。――陽雨」
「……はぁい」
こんなふうに名前を呼んでもらえるのも、手を引いて部屋まで送ってもらえるのも、きっと今日だけの胡蝶の夢だろう。
陽雨は束の間の幸せを享受するつもりで、遠慮なく朔臣に身を寄せた。
朔臣は足取りの覚束ないところのある陽雨の体を支えながら、すっと首だけで丹波老へと振り返った。
「――当主代理は障りを受けた直後のお体が本調子ではないため、今日はずっとお部屋にお休みでいらっしゃいます。私はこれからそのご様子の確認に行って参りますので、先ほどの続きは私が戻りましたら」
老人の視線から隠すようにさりげなく陽雨を引き寄せて、朔臣は執務室の扉をさっさと閉めた。
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