第三話
「すまん、呼ぶ前に先に断りを入れておくべきだった。陽雨、と呼んでも、いいだろうか」
自分の娘なのだから名前くらい好きに呼べばいいのに、律儀にそんなことを尋ねてくる。
陽雨はこくりと頷いた。
「……どうぞ、ご随意に」
「では、陽雨」
冬野は改まったように咳払いをし、両膝にこぶしを置いて、腰から折るように頭を下げた。
「すべてはおれの不始末だ。死者が生者の理を侵してはならない。既に死んだ身のおれの扱いは、おまえたちの最も都合のいいようにしてもらって構わない。……本当は、おれ自身がこの未練を、どうにかできればいいのだが」
自嘲の笑みが冬野の薄い唇に浮かぶ。
陽雨はちらりと自分と冬野の間に置かれた刀に視線を落とした。
一瞬、邪気が増した。
落ち着いているように見える今の冬野が、思い出すだけでも怨念に引きずられかける程度には、深く重い未練なのだろうか。
「……余計なことを話していると、また娘の前で醜態を晒すことになりそうだ。陽雨、頼む。おれをこのまま封じてくれ」
冬野が首を振った。
陽雨は首肯して、申し訳程度に「失礼いたします」と断り、躊躇いなく刀を鞘に収めた。
その上から封印の術をこめた式札をいくつも貼りつけ、封印の術式を構築していく。
あまりに迷いのなさすぎる手つきに冬野が苦笑した。
その姿が淡い光に透けていく。
「おれはすっかり娘に失望されてしまったようだが、……陽雨、大きくなった娘に会えて、父はとても嬉しい。おまえは明陽の若いころによく似ているな」
慈愛に満ち溢れた眼差しから、陽雨は目を背けた。
今一番聞きたくない名前だった。
「……貴方が私の父を名乗るなら、二度と私の前で明陽様の名前を出さないでください。明陽様は貴方にとっては大切な奥方でも、私にとっては家族でも何でもありません」
冬野は悲しげな顔をして陽雨を見つめた。
傷つけるだろうと分かっていて、こんなことを口にする自分が、陽雨は一番嫌いだった。
「……そうか。おれたちがおまえを残して先に逝ったことで、おまえに要らぬ苦労をかけたのかもしれない。すまなかった」
「――――っ」
謝られたって、陽雨が明陽と比べられ続けてきた過去も、ふたりを死なせたのだと陰口を叩かれてきた過去も消えない。
真実だったのならまだよかった。
けれど陽雨は、十八年耐えていたそれがまったくの事実無根で、謂れのない中傷だったことをもう知ってしまっている。
必死に義務感で抑え込んできた感情が、実父の労わる言葉で噴き出した。
洪水のような雨に負けない勢いでぼろぼろと泣き出した娘に、輪郭のほとんどを光にかたどられた冬野が慌てて手を伸ばしてくる。
きっと慰めようとしてくれたのだろうその手を、陽雨は「触らないで!」と一蹴した。
「陽雨……」
「……あんな思いをするくらいなら、私は産まれてきたくなかった。貴方たちのせいで私は代わりにおまえが死ねばよかったのにって言われ続けて、龍神のことも全部ぜんぶ私が産まれたせいにされて! 貴方たちが諦めて養子でも取ってくれたら、私はこんな思いしないで済んだのに! いてほしいときにいなかったくせに今さら父親ぶらないで! 私の家族は伯父様だけ! 貴方なんて父親でも何でもない!」
八つ当たりだった。
封印が完成しかけてもうほとんど実体を失っている実の父にぶつける最後の台詞としては最悪だった。
分かっていても、詰る言葉を吐き出す陽雨の喉は止まらなかった。
冬野は愕然と目を瞠っていた。
その口がぱくぱくと何かを叫んでいるようだったが、その声は既に遠くなっていて、ほとんど意味を伝える役割を為していなかった。
刀からぶわりと邪気が広がって、空気を穢した端から、封印式が伸びて無理やり浄化していく。
「陽雨……気……け……! ……つ……は……だ……!」
鞘が邪気を吸い尽くす。
冷たい雨が肌を打ちつける。雨に紛れて涙も流れていく。
冬野の悲痛な声の残響だけが、陽雨の耳にこびりついていた。
涙はすぐに止まった。
呼応するように雨も勢いを削ぎ始めた。
今日はたくさん泣いたから、枯れてしまったのかもしれない。
そんな益体もないことを考えながら静まり返った刀を拾い上げて、陽雨は屋敷の方向にのろのろと歩き出した。
無心になって重たい足を動かしていくうちに、第一層との境界が見えてきた。
そのころには雨はだいぶ弱まっていて、小雨と霧雨の中間のような細い雨粒が、辺りを煙らせていた。
「――陽雨!」
刀を抱えて戻った陽雨を出迎えたのは、やけにたくさんの人々だった。
警備に当たる術師たちは分かるが、幹部衆や長老衆、定例本会に陪席していた分家当主たちもちらほら、野次馬の使用人まで見える。
彼らは陽雨の姿を見るなり一斉に頭を下げた。
これまでそんなことをされたことは一度もなかったので、陽雨はぎょっとして蹈鞴を踏んだ。
視界の端で近江老がひっそりと踵を返すのが見えた。
朔臣がこちらに歩き出そうとする。
誰よりも先に一番駆け寄ってきたのは月臣で、あんなに酷いことを言ったのに、月臣は陽雨に手を伸ばすなり躊躇いなく自分の胸に抱きしめた。
月臣の上等な着物はぐっしょり濡れてしまっていて、絹越しに触れる肌はすっかり冷えていた。
「近江の双子から、おまえが冬野と戦っていると聞いて……帰ってきてくれてよかった。こんなに傷だらけになって……」
「……伯父、様」
涙は止まったはずだけれど、目の奥が熱くなって、陽雨は月臣に身を寄せた。
冬野に言い放った台詞のせいだろうか。龍神の件では裏切りにも似た気持ちを抱いていたはずなのに、陽雨はやっぱり月臣が自分の帰りを待っていてくれたことが嬉しくて堪らなかった。
「ずっと……待っていてくださったの?」
もう日が傾き始めている。近江の双子がここに辿り着いてからもだいぶ経ったはずだ。
月臣の腕の中で顔を上げると、月臣は陽雨の体を腕に包み込んだまま微苦笑した。
「待ちきれずに探しにいくところだったよ」
「……龍の宝珠の儀式をなさったの?」
龍の宝珠に受け入れられていない者が退魔結界を管理しなければならなくなったとき、一時的に龍の宝珠に許可を願い出るために行う儀式がある。
陽雨は行ったことがないので分からないが、とてもたくさんの霊力と引き換えに龍の宝珠と繋がる許可を得る神事らしいので、当主も当主代理も不在の間のようなよほどのときしか行われない。
にもかかわらず、陽雨が閉じたはずの結界の境界を軽々越えて、月臣は第二層に足を踏み入れている。
いったいいつの間に儀式を済ませたのだろう。そんなに大きな霊力の気配にまったく気がつかなかったなんて、自分の余裕のなさが信じられない。
月臣は大掛かりな神事を終えたあとには見えないほど落ち着いた佇まいを保っているというのに。
それが陽雨のためだと、今ばかりは自惚れたかった。
「……来ないでって、言ったのに」
陽雨は憎まれ口を叩きながら、名残惜しくも月臣の腕から抜け出した。
ふらついた足を踏ん張って、慌てて刀を杖代わりにする。
「陽雨、怪我の手当てを――」
「ううん。先に刀を収めてこないと」
衆人をぐるりと見渡して目当ての相手を見つける。目が合うと術師はすぐに近づいてきた。
「蔵の鍵を。マスターキーは残っていたのでしょう?」
「お、お待ちください、当主代理。そのままでは――」
そういえば陽雨は障りを受けている状態だった。
全身大小の怪我だらけなので痛みに麻痺していたが、刀を受けたときの障りは肩口から上腕と胸部にまで及んでいる。
他にも冬野の攻撃を受けてあちこち穢れ、障りに黒ずんでいる。
封印呪具ばかりの蔵にこのまま入るわけにはいかないだろう。
「……そうですね。忠告に感謝します」
戻ってきて気が抜けたせいかどうも頭が回っていない。反省しつつ式札から矢を取り出す。
そのままでも破邪の性質を持つ矢にさらに浄化の護符を巻き、陽雨は大きく袖を捲り上げると、そのまま鏃を障りの中心に突き立てた。
破邪の矢は勢いよく穢れを浄化していったが、冬野の斬撃を深く受けた部分には残ってしまったので、応急処置としてその上から護符で塞ぎ、他の軽度の障りにも護符を貼りつけていく。
じゅうじゅうと熱さが全身を走り抜けた。
これだけ全身護符だらけにすれば、もはや浄化の結界を身にまとっているようなものである。
万が一にも他の呪具たちに影響を与えることはないだろう。
陽雨は再び術師に視線を向けた。
「これで問題ありません。鍵を」
術師は唖然としていた。
首を傾げて再度促しても固まったまま立ち尽くしている。
仕方がないのでその手に持っている鍵束を勝手に引き抜いて土蔵に入り、社に刀を収めてしっかりと鍵をかける。
ようやくほっと息を吐くと、全身から力が抜けた。
残り少ない霊力でのっぺらぼうの式神を作り出して、自分の体を支えさせる。
とても疲れた。
このままベッドに倒れ込んでしまいたいが、護符で抑えているとはいえ、障りの回った体を放置するわけにはいかない。
状況の後始末も残っている。陽雨は術師を目線だけで呼び寄せた。
「第一層結界から第四層結界までに妖の気配がないことを確認したので、結界間の通行禁止を解除します。浄化密度を上げたあとなので可能性は低いとは思いますが、妖力のほとんど持たないレベルの妖は龍の宝珠の下でなければ感知できないので、これから明日の日の出にかけては念のため警戒をお願いします。それから、少し深い障りを受けたため、これから浄めの滝に浸かっても完全に穢れを祓いきるには日付が変わるぎりぎりまでかかると思います。手間をかけますが、浄めの滝に配置する巫女の増員をお願いします」
術師は困惑の表情を浮かべていたが、いい加減限界だった陽雨は「あとのことは当主代行に一任します。当主代行の指示に従ってください」とだけ言い置いて、式神に自分の体を浄めの滝に運ばせた。
着ているものを脱ぐ気力も残っていなかったので、着物のまま滝壺に入り、思いきって肩まで沈む。
障りを浄化する烈しい熱さと痛みが、全身を貫く。
噛みしめた歯の間から呻き声が漏れ、口元を両手で押さえながら、陽雨は月が夜空の真上に昇る時間まで清水に浸かり続けた。
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