第四話

 結局陽雨の体を蝕む障りが完全に浄められたのは夜も深まったころだった。


 一時は子供の癇癪のようだった豪雨は、今は悲しみを反芻させるような糸雨に変わっていた。

 しとしとと夜の静寂を包み込む静かな雨音が、木々の葉を時おり弾く。


 陽雨は冷えきった体を引きずるようにして滝壺から上がった。

 脱衣スペースに足を踏み入れると、バスタオルと着替えが用意されていた。濡れないように丁寧にも番傘の陰に置かれている。


 誰が用意してくれたのだろうと思いながらあちこちぼろぼろの着物を脱ぎ落とし、浴衣を身にまとう。

 濡れそぼった着物の水気を絞ってバスタオルに包んで抱え、覚束ない足取りで外に出た。


 バスタオルと傘をこのまま自室まで持っていっていいか、岩壁の外で待機する巫女に尋ねようとして、足がふらついた。

 まずい――とどこか冷静な頭が考えたとき、横から差し入れられた腕が陽雨を抱き留めた。


「……朔、臣?」


 なぜこんなところにいるのだろうかと思わず凝視してしまう。

 朔臣は当主代理補佐という役職持ちなので一応離れに自分の部屋を持っているはずだが、いつも彼はそこには泊まらずに霧生の家に帰っている。

 普段ならとっくに本家を出ている時間帯だ。


「もしかして、ずっとここで待ってたの?」

「ずっとじゃないが、一時間ほど前からいた。……おまえが一度も出てこないと、滝に配置された巫女が心配して月臣に報告を上げて、気配探知の得意な俺がここで待機することになった。沐浴中に俺が側に控えているのは嫌だと言っていたのは覚えていたが、緊急事態だった。許可も得ずに悪かった」


 許可を得ればいいという問題ではない。陽雨が水に浸かっている間中ずっと朔臣に気配を探られていたということではないか。

 ただ待機されているよりなお酷い。


 言葉にならずに口を開いたり閉じたりしている陽雨の顔を覗き込んで、朔臣は眉をひそめた。


「顔が赤い。熱が出てきたんじゃないのか」


 手のひらが額に押し当てられる。その間も陽雨はずっと体を朔臣の腕に抱き寄せられたままだ。

 陽雨の体温が上がっているなら、それは間違いなく朔臣のせいだった。


「は、離して。大丈夫だから」


 朔臣の手から逃れようとしたが、逆に背と脚を掬い上げられてしまう。

 器用に傘を肩に引っかけて雨に濡れないようにして、陽雨を抱えたまま朔臣が歩き出そうとするので、陽雨は足をばたつかせた。


「下ろして、朔臣、ねえっ」

「部屋まで運ぶだけだ。濡れる。暴れるな」

「自分で歩くってば!」

「歩けなかっただろう。暴れると熱が上がる。頼むから動かないでくれ」


 朔臣がどこか途方に暮れたような顔で陽雨を見下ろした。

 普段の無表情の隙のなさが少しだけ緩んでいる。

 朔臣に下手に出られると、それでなくても調子が狂う。


 朔臣があまりにも陽雨を病人扱いするから、本当に体が重たくなってきた。

 覿面におとなしくなった陽雨を朔臣は当然のように寝室のベッドまで運んだ。


 そっとシーツの上に下ろされたときには、陽雨は腕を持ち上げるのも億劫なほどぐったりとしていた。 

 重たい熱っぽさが額の辺りを占拠していて、視界が潤み始める。

 冷えきっていたはずの体は内側から火照っているようで、それなのにぞくぞくと悪寒が止まらなくて、全身の関節が悲鳴を上げていた。

 雨に濡れた上に冷水に浸かったせいか、それとも、障りの影響だろうか。


「陽雨。一番深い肩の傷だけでも手当てをさせてほしい。起き上がれなければそのままでもいい。肩のところを開けられるか」

「ん……」


 遠のき始めていた意識に朔臣の声が降ってきて、陽雨は言われた通りにのろのろと襟元を解いた。

 下着を隠すという頭も回らなかった。

 朔臣が息を呑んだことにも気づかず、ひやりとする脱脂綿が肩の傷口に押し当てられたときにびりびりと痺れるような痛みが走ったような気もしたが、陽雨は始終されるがままに四肢を投げ出していた。


「何か食べられるか? 解熱剤は飲めるか」


 今日はやけに朔臣の声が柔らかく聞こえる。

 首を振ると頭痛が酷くなりそうな気がして、唇だけで「いらない」と呟く。

「水は?」と訊かれたときだけなんだか魅力的に思えて「いる」と答えると、ストローを挿したグラスを持ってきた朔臣が至れり尽くせりに上半身を起こしてくれた。

 冷えた水は熱っぽさを少しだけ遠くに押しやってくれるようだった。


「……ねえ、朔……」


 再び陽雨が横たわるのに手を貸して、朔臣が毛布を引き上げた。

 薄く瞼を持ち上げると、眉間に皺を寄せて陽雨を見つめている朔臣と目が合う。


「幹部衆とか……他の分家とか、もう……私の中の龍神様のこと、知ってるの?」

「……それはあとでいいだろう。今日はもう寝ろ」

「今……おしえて。おねがい……」


 むずがるように言って陽雨は朔臣に手を伸ばした。

 指先だけでスーツの袖を掴むと、朔臣はそれを見下ろしてから、ゆっくり陽雨の指を解いた。

 毛布の中に収めながら静かに口を開く。


「……もう、皆知ってる。俺たちが大広間を出たあと、収拾を着けるために丹波老がすべて話したそうだ」

「そう……。……私の、不信任決議について、は……?」

「……採決の直前で中断、ということになっているが。おまえが賛成意見として名を挙げた幹部当主のうち、五席からは既に今の時点で、意見撤回の申し入れが届いている。おまえの提議案は……否決される可能性が、高いだろう」


 そう、と陽雨はもう一度呟いた。

 意図せずため息がシーツに落ちる。

 朔臣が口を開きかけたことに気づかず、陽雨はくつりと笑った。


「陽雨、」

「……ごめん、朔臣。私、失敗、しちゃった」

「……何がだ」


 朔臣が不可解そうにしている。

 陽雨は自分が情けなくて、もう笑うことしかできなかった。


「――私ね。あんたを……解放してあげたかったの。伯父様に私の婚約者を下ろされるんじゃなくて、朔臣が、私と結婚するのは嫌だって、言えるように……してあげたかったの」


 涙がひと筋頬を伝った。今日は泣いてばかりだ。

 こんな子供のお守りは朔臣だって嫌だろう。

 分かっているのに止まらなかった。


「ごめんなさい……もう、朔臣、ほんとに、私と結婚するしか、なくなっちゃった。ごめんなさい、上手く、できるつもりだったの。これしかないって、ほんとに、思ってたの」


 駄目だった。

 陽雨の目論見は根本から覆された。

 陽雨が当主代理に相応しくないのではなかった。

 陽雨しか当主になれないのだ。


 立場が完全に逆転してしまった以上、陽雨は絶対に朔臣を自分の婚約者から降ろしたいなんて言えない。

 上位にある陽雨から婿入りを拒まれたなんて汚名を、朔臣に着せるわけにはいかない。


 それは、朔臣からはさらに輪をかけて言えなくなってしまったことをも意味していた。


 陽雨はひっそりと瞼を閉じた。

 長い睫毛から雫が零れて、シーツに染み込まれていく。


 自分が何を言っているのか、熱に浮かされた頭では、もう陽雨はあまりきちんと理解していなかった。


「ごめんなさい……」

「陽雨」

「……わたし、嫌われても、幻滅されても……朔兄に、他にすきなひとがいても……朔兄のおよめさん、やめるって、言いたくなかったの。だから、いっそ朔兄から……言ってもらおう、って……ずるいこと……」


 ごめんなさい、ごめんなさい……とうなされるように何度も繰り返す陽雨を、朔臣はしばし言葉を失って見つめていたが。


「……分かった。分かったから。もういい」


 涙を指先で拭ってから、汗で額に張りつく前髪を掻き分ける。それから幼子を寝かしつけるように頭を撫でた。


「俺は陽雨のことを嫌っていない。……俺から、陽雨との婚約を破談にすることは、絶対にない。陽雨が嫌だと言わない限り、陽雨はいずれ俺と結婚することになる」


 意識が朦朧としている陽雨には聞こえているかも怪しいほどだったが、陽雨はうっすらと瞼を持ち上げた。

 涙の膜の張った目が、朔臣を探して彷徨う。


「…………ほんと、に……?」

「……本当だ」

「陽雨を、朔兄のおよめさんに、してくれる……?」


 厳密に言うなら、陽雨が『お嫁さん』になるのではなく朔臣が婿入りすることになるのだが、朔臣は余計なことは言わなかった。


「……ああ。昔、そう約束しただろう」

「そ……っかぁ……」


 陽雨は安堵の熱い吐息をこぼし、へにゃりと崩れるように破顔した。

 頬が真っ赤に染まるほどの高熱で苦しいはずなのに、まるで天国にでもいるかのような満面の笑みを浮かべ、深くシーツに身を沈める。


「うれし……もう、これが夢でも……いいや……」


 欲のないことだ、と朔臣はほとんど寝言に近い陽雨のひとり言に苦笑を滲ませた。


「……夢じゃないが。とりあえず、今日は、もう何も考えなくていい。――ゆっくり、眠れ」


 陽雨は手のひらが髪を撫でていく温もりに導かれるように、ようやく眠りの淵に落ちていった。

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