第二話

 一直線に屋敷の方角に駆けていく式神に集中しながら、陽雨はすぐにその場から離れた。

 あんな斬撃を何度も直接食らったら、歴代当主の編み上げた退魔結界といえども無傷では済まない。


 禍々しい気配が近づいてくる。

 陽雨も自ら近づいていった。


 陽雨の封印結界は、大した足止めにもならなかったらしい。弱るどころか土埃ひとつつけず、黒い人影は再び陽雨の前に現れた。

 薄暗い森の中で雨に打たれている姿はいっそう陰鬱で、濡れたせいだけではない悪寒が背筋を走る。


 瘴気の靄を全身にまとった人影は、目を凝らすと写真で見た姿とそっくりそのままだった。

 実直そうな凛とした顔立ち。刈り上げられた短い黒髪。

 鍛えてあるのだろうと分かる厚い体に、黒い上下の装束をまとっている。

 胸元には水無瀬の家紋である龍をかたどった丸紋。――陽雨には許されていない紋だ。


 月臣の話によれば、冬野は妖退治に出るときはいつもこの格好をしていたという。

 写真の中の冬野もこの姿のものが多かったから、陽雨にもすぐに分かった。


 冬野は刀を構えて佇んでいた。

 刀には深く濃い霊力が満ちているのが分かる。


 あまり体格のいいほうとは言えない陽雨と、近接戦闘との相性は悪い。

 そもそも距離があっても冬野の斬撃は鋭く重く、陽雨では軌道を逸らすので精一杯だ。


 このままでは話にならない。冬野と相対することのできる舞台に陽雨が上がらなくてはならない。


 陽雨は冬野の斬撃を間一髪のところで躱して、そのまま第四層方向に駆け出した。

 思った通り、冬野は逃げる陽雨を追いかけてくる。

 向こうのほうが足が速いので、ときおり足元を狙って術を放ちつつ、襲ってくる斬撃を完全に受けきることは無理ともう分かっているので、致命傷にだけはならないように冬野の黒い鞘で軌道を直撃から逸らす。


 陽雨が駆け回って全身血だらけ泥だらけになったころ、双子を抱えた式神がようやく第一層に到着した。

 式神越しの視界で、結界の半透明な壁の向こうに月臣たちの姿が見える。


 岩の影に隠れて自分の周りに目晦ましの術を張って、第一層に小さな入り口を開けた。

 くぐった双子が大人たちに保護されるのを確認してから、式神を解いて結界を完全に閉じる。


 ――これで、もう余所事に気を取られる心配はなくなった。


 体を起こして地面を蹴った次のときには粉々に砕かれていた岩を尻目に、陽雨は第三層と第四層の境界線を飛び越えた。

 ちらほらと仕留め損ねていた妖の合間を縫うようにして移動する陽雨の後ろから、冬野も第四層の結界範囲内に侵入してくる。


 ――ここだ。


 斬撃と斬撃の間を見極めて、陽雨は地面に霊力を流し込んだ。

 より正確には、地面に埋め込んだ式札に。


 先ほどと同じ、落とし穴を作るだけ。

 それほど足止めとしての効果はない。

 だから、一瞬だけでも冬野の攻撃を封じられれば、陽雨はそれでよかった。


 第三層と第四層の境界に強力な敷居を巡らせる。

 自らは素早く第三層結界に身を滑り込ませ、息を吸う。

 呼吸を落ち着かせて――

 第四層結界の浄化密度を、一気に最大まで引き上げた。


 龍の宝珠を介さずに退魔結界をあれこれ弄るのは、術師本人の力量が試される。

 人間も正常な呼吸を保てないほどあらゆる邪気を消滅させる浄化密度ともなれば、なおのこと負担は重い。

 術の反動に全身が軋む。


 それでも、無理を押して強行した甲斐はあった。

 妖がことごとく消し去っていくのが見える。


 息をつく間もなく浄化密度を下げ、第四層に舞い戻り、弓に矢をつがえて慎重に落とし穴を警戒する。


 突如として地中から密度の濃い邪気が膨れ上がった。


 奥歯を噛みしめて放った破邪の矢は、冬野の周囲を守る妖に阻まれた。

 冬野が刀を持ち上げると、斬撃と妖が一緒になって陽雨を襲う。

 陽雨は舌打ちをこぼして再び走り出した。


 妖を従えるほどの力をまだ持っているのか。

 どれほどの霊力が怨念に染まれば、生身の人間にすら危害を及ぼす浄化密度を耐え抜いて、自在に妖を操るほどの邪気を維持する悪霊になるのだろう。

 術師も妖だったモノを式神として従えることはあるが、それは穢れを祓って調伏した霊魂であり、妖とは一線を画していなければならないものだ。


 冬野の亡骸は明陽とともに丁寧に埋葬されたと聞いた。

 仲睦まじい夫婦だったというが、最愛の妻と同じ墓に入ってもなお妖の親玉に堕ちなければならないほど、龍神の暴走によって命を落としたことは冬野にとって無念だったのだろうか。


 斬撃を躱しながら術を次々に放ち、なんとか妖の最後の一体まで打ち倒す。

 これで冬野の攻撃に集中できるといえば聞こえはいいものの、霊力も体力も消耗しすぎた。

 ぐらりと意識が揺れ、泥濘に足が取られ、水溜まりに突っ込む。


 態勢を起こす前に、冬野の刀が肉薄していた。

 咄嗟に鞘で受けたが、すぐに腕力で押し負けそうになる。


 父親の亡霊に呪い殺される出来損ないの娘だなんて、長く続く水無瀬の歴史の中でも一番の恥晒しだ。

 それとも、自分で自分の不信任決議を提起するような、特大級のひとり芝居を演じた当主代理のままでいるよりは、まだましだろうか。


 もうほとんど諦めかけて自棄気味に考えていた陽雨は、雨音の合間に聞こえてきた声に、ふと目を見開いた。


 初めは悪霊によくある呪詛だと思って聞き流していた。

 けれど、ごく微かな声が、恨みだけではない言葉を発している。


 聞き覚えのある名前だった。


「……あき……明陽……」


 死してなお妻が恋しいのだろう。

 結論づけかけた陽雨の耳に、さらに声が届いた。


「明陽と……おれたちの子を……守らなければ……。あの男に……渡してたまるものか…………」


 ――まだ、戦っているつもりなのだろうか。

 陽雨は目の前にいる自分の父親の成れの果てを眺めた。


 龍神と妻を取り合う男。

 妻と子を守ることだけを未練に彷徨い、愛しい妻がとっくに自分の後を追ったことも、成長した子を今自らの手で殺そうとしていることも知らない、哀れな父親。


 死霊と会話をしてはならない、というのは術師の家系に生まれた霊力を持つ子供が一番に教えられることだ。

 特に幼い子供は目の前の死霊が無害な霊魂なのか生者を彼岸に引きずり込む邪の存在なのか区別ができない。

 陽雨は霊力の扱いの拙い子供よりは悪霊に耐性があるが、これほど霊力の強い術師が悪霊に堕ちたとなれば、言霊を浴びるだけでもどんな影響が及ぶか分からないので、冬野が自分の父親であろうともこの悪霊と口を利くつもりはなかった。


 ――だが。


「……皆瀬、冬野様と、お見受けします。私の声が聞こえますか」


 自棄と憐憫に半分ずつ釣られて、陽雨は口を開いていた。


 暗く落ち窪んだ冬野の目がぼんやりと陽雨を映すのが分かる。

 まだ聞く耳を持つだけの理性は残っているだろうか。


「冬野様。……貴方の奥方は、もう亡くなりました。十八年前に」


 陽雨を見つめる目は空虚なままで、やはり通じないかと体の力を抜きかけたところで、冬野の唇が震えたのが目に入った。


「…………明陽、が……死んだ……」


 冬野が目を見開いた。


「――嘘だ!」


 鞘にかかる力が一気に増した。

 容赦のない腕力に勢いよく押し倒される。


 無理やり身を捩って逃れた隙間に、刀が鋭く突き刺さった。

 体を起こす暇もなく肩を踏みつけられる。ちょうど斬撃を掠めたほうの肩だ。


 痛みと苦しさに胸が詰まる。

 天から降ってくる激しい雨が目に入って痛む。


 陽雨は自分の体を拘束する足に手をかけて、地面から抜いた刀をもう一度振りかざす冬野を、薄く開いた瞼の奥からきっと仰いだ。


「嘘じゃありません。皆瀬明陽は十八年前、龍神を娘の体に封じるために自分の命を引き換えにしたそうです。私は――私の名前は、皆瀬陽雨。皆瀬明陽の娘です」


 貴方の娘です、とは言わなかった。

 理性があるなら理解できるだろう。理解できないほど知性を失って髄まで堕ちてしまったのなら、これ以上の対話を試みる価値はない。

 目の前の悪霊が既に妖と性質を同じくした魔のモノであることの証明だからだ。


 冬野はぴたりと動きを止めた。

 相変わらず反応は少し鈍いが、徐々に目が見開かれていく。


 一拍あと、刀を持つ腕が落ちて、陽雨を踏みつけていた足がどけられた。


「よ、う…………陽雨、……そうか……あの……ときの…………」


 冬野が頽れるようにその場に膝をついた。

 まとっていた黒い瘴気が霧散していく。


 目を凝らさなくてもその顔が見えるようになったとき、冬野は片手で目元を覆ってしまった。


「……おれ……は……自分の娘を……襲ったのか……」


 そのまま深い悲しみに暮れられると、また新たな未練が重なって、鎮魂からさらに遠のいてしまう。あまり大袈裟に嘆かないでほしい。

 ただでさえこの人の悪霊はたちが悪いのだ。


 陽雨は満身創痍の体をゆっくり起こして、再び襲いかかってくる気配に警戒しつつ冬野ににじり寄った。


「あの、……冬野様、でいらっしゃいますよね」


 ゆるりと冬野が視線をもたげる。

 陽雨に気がついたかと思えば、傷ついたように目元を歪め、なぜかその場に正座する。


「……その……その怪我は、……すべて、おれが……」

「そうかそうでないかで言えばそうですけど、もう正気に戻られたようですから、そのことは今はどうでもいいです」


 口調があまりどうでもよくなさそうなものになってしまったので、冬野はまた少し落ち込んだようだった。

 陽雨の気が立っているのはこの人のせいではないのであまりいちいち気にしないでほしい。

 陽雨は濡れそぼった前髪をぐしゃりと掻き上げてため息をついた。


「冬野様はご自分の状況をどこまで認識されていらっしゃいますか?」


 冬野は面を伏せて言った。


「……十八年、と言ったか。おれは悪霊に成り果てたのだろう。今も……邪気に染まっていた霊力がだいぶ浄化されたからこそ、このようにおまえと会話できているが、力が回復すればまたいつ怨念に意識を引きずられるか……」

「分かっていらっしゃるのなら結構です。今の冬野様は見かけこそほとんど無害な霊魂と変わりませんが、冬野様の怨念の源となっているその刀の穢れはいまだ祓われておらず、今も瘴気を発して周囲を汚染し続けている状態です。退魔結界の浄化密度を上げているのでまだ妖が活動できるほどではありませんが、これ以上瘴気が強まればこの場所を放棄せざるを得なくなるでしょう。また、今の水無瀬には、悪霊としての力を回復された冬野様の御魂を浄め慰めることのできる術師がおりません」


 淡々と当主代理としての言葉を述べる陽雨を、冬野は真剣な顔で見据えていた。厳かに顎を引く。


「おれは未練を溜め込みすぎた。すべての霊力が回復して、再び悪霊の本能が暴れ出す前に、おれを封じてしまうべきだろう」


 頼む、と冬野は迷いのない声色で告げて、陽雨の前に刀を置いた。

 このまま刀を鞘に収めてしまうことは簡単だったけれど、陽雨は潔いほどの自らの父に対して、指をついて頭を下げた。


「……申し訳ありません。私の力不足のせいで、冬野様にこのような忍苦を」

「何を言う、陽雨。顔を上げてくれ」


 冬野が慌てたように言った。

 がっしりした体格の冬野が泰然と座していると、静かで凛とした雰囲気が取っつきにくそうな印象すら与えるが、雄々しい眉を下げた冬野はその分だけ優しげに見えた。

 全身濡れ鼠で、どこか頼りなさそうに見えるせいかもしれない。

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