第三章 雨の森

第一話

 水無瀬神社の本殿に祀る龍の宝珠を中心として展開される退魔結界は、社殿と龍神の住みかである霊山の湖、水無瀬の主要拠点が集まった本家屋敷周辺までを第一層とし、何層にも同心円状に広がっていく構造を取る。

 退魔結界の術式本体が妖に攻撃されれば、結界そのものが崩れてしまうため、言うまでもなく第一層は絶対に守らなければならない。


 言い逃げのような形だったが、月臣は果たして陽雨の望む通りの働きをしてくれたようだった。

 早々に第二層内の妖の殲滅と浄化が終わって、全員が第一層に退避したのを確認してから、陽雨は修復した結界を閉じた。

 これで一番内側、水無瀬本家の屋敷周辺の敷地は絶対に安全だ。


 月臣には第三層以降と誤魔化したが、折り鶴たちは第四層結界内まで陽雨を導いていた。

 第三層、第四層結界の破損を修復してから内部の浄化密度を上げ、妖を弱らせてから先を急ぐ。


 雨はどんどん強まっていて、ぐっしょりと水分を含んだ着物が重かった。

 陽雨はずぶ濡れになりながら懸命に足を動かした。


 あの双子は妖の初祓いを済ませたばかりだったという。

 初祓いとは一人前の術師を補助につけて低位の妖を滅するというもので、子供だけで妖に対処するようなことができる年齢ではない。

 早く保護しなければ取り返しのつかないことになるかもしれない。


 行き当たる妖を滅しながら第四層結界に差しかかると、浄化密度に耐えた妖の数が増えているのが分かる。

 一瞬舌打ちしそうになったものの、それほど奥に入り込む前に、先行させた折り鶴の式神から気配を感じた。


 駆けつければ、揃いの稽古着の双子が青い折り鶴をふたりで寄り添って抱えている。

 見つけた、と息をつきながら、ふたりの周辺にいる妖に破邪の矢を片っ端から射る。

 陽雨の射程で双子を巻き添えにしないようにするには弓矢が最も精度が高い。

 雨で視界は悪かったが、鏃は的確に妖を貫いた。


 双子は次々に消滅していく妖に呆然としていたが、折り鶴から展開されていた結界が消えると、陽雨の姿を見つけるなりぺたりと座り込んだ。

 陽雨は駆け寄って手を差し伸べる。


「ふたりとも、大丈夫?」


 少女のほうはその瞬間にぶわっと泣き出した。しゃくり上げながら陽雨の脚に抱きついてくる。

 少年は少女に釣られかけたが、ぐっと堪えて口をへの字に曲げ、「何だよ、おまえかよっ」と言った。こんなときでも強がれるというのはなかなかの胆力だ。


 もう立ち上がる気力もなさそうな少女を抱き上げてよしよしと宥め、少し落ち着くのを待ってから、のっぺらぼうのような人型の式神を作って抱えてもらう。

 式神の体の一部を傘のように作り替えて雨が当たらないようにしてやっていると、少年がぽかんとして驚いたように陽雨を見上げた。


「……お祖父様が、おまえは、子犬の式神も使えなかった、デキソコナイだって……」

「動物の式神は苦手だから、間違ってないよ」

「だって、そんなおっきい式神――うわあっ! う、後ろ!」

「うん、大丈夫」


 怯えた声を上げる少年の視界を遮ってやりながら、背後から迫ってくる二体の妖に後ろ手に術を放つ。

 無事に仕留めたことを気配で確認しながら、少年に手を差し伸べた。


「さて。君は自分で歩ける? 早くお母さんのとこに帰ろ」


 顔を覗き込むと、目を見開いていた少年の顔が歪んだ。今まで必死に涙を堪えていたのだろう。

 陽雨はなんだか自分が初めて一人前として務めに出されたときのことが思い出されて、少年の頭をぽんぽんと撫でた。


 少年は涙を拭って立ち上がった。

 自力で歩くという意思を尊重しつつ、手だけは繋がせてもらう。

 少年は嫌がるそぶりは見せたが、やはり妖はまだ恐ろしいようで、小さい両手で一生懸命に陽雨の手を強く握りしめてきた。


 双子の恐怖心が少しでも軽減されるよう、結界の浄化密度によって弱体化しているのをいいことに、妖の気配を感知し次第術をぶつけて滅していく。

 第三層結界に入ればもう来るときに陽雨がほとんど潰したようなものなので、式神に抱っこされている状態の少女は泣き疲れたのかうとうとし始めていた。


「この辺りの妖、おまえが倒したの?」

「結界で弱らせてから、だけどね」

「ケッカイってそんなこともできるの? そういえば、オレたちを掴んでた妖も、途中でいきなりオレたちを落としてったんだ。突然よろよろし始めたの、あれもケッカイ?」

「そうだよ」

「……おまえが、やったの?」


 少年の目がそうっと陽雨を見上げる。

 そんなとこかな、と頷くと、そっか、とうつむかれる。

 何か悪いことを言っただろうか。陽雨には兄代わりはいたけれど年下の子供と関わる機会などはなかったので、幼い少年にどう声をかけていいか分からない。


「……それ」


 帯に差すようにして持ち歩いていた黒い鞘を少年が指差す。

 冬野の刀の鞘だ。

 来るときに見つけて陽雨が回収していた。


「おまえの大事なもの?」

「大事というか……この鞘、いっぱいお札が貼ってあったでしょ? とっても危ないものだから、あそこに封印してあったの」

「危ないもの?」

「そう。だから、今回は君と妹さんに何もなくてよかったけど、本当に危ない物だから、これからは絶対に勝手に持ち出さないこと。約束してくれる?」

「……うん。ごめん……なさい」

「鞘の中身がどこに行ったか、分かる?」

「分かんない。黒いのがいきなりぶわっと出てきて、ケッカイ? 壊して木とか地面とかめちゃくちゃにして、オレびっくりして落としちゃって……そしたら、刀が勝手に抜けて、黒いのが人みたいになって、刀持って山の中に歩いてっちゃった。追いかけようとしたけど、ケッカイの奥から妖が出てきて……」


 一生懸命に説明する少年の話を聞きながら、黒いのが人に……の辺りで陽雨は警戒心を跳ね上げた。


 鞘から出てきた黒い人影。

 打刀に封じられていた冬野の悪霊。

 月臣が苦戦した相手だ。双子を守りながら陽雨が太刀打ちできるとは思えない。


 そう考えているときほど、最悪の事態は向こうからやって来るものだ。


 あっ、と少年が遠くを指差す。

 刀の人だ! という声に、陽雨はざわりと総毛立った。


「走って!」


 少年の小さな体を庇いながらその場を飛び退くと、一瞬あとにそれまでいた辺りの地面が抉られた。

 斬撃が陽雨の肩を掠める。

 少し擦っただけなのに、傷口から濃い障りがじわじわと広がっていくのが分かった。


「おっ、おまえ、怪我っ、血が!」

「大丈夫。ちょっと静かにしてて」


 少年を宥めつつ、黒い人影が刀を振りかぶる姿を視界に収める。

 咄嗟に結界を張ってさらに術でなんとか斬撃の軌道をわずかにずらして、それでも呆気なく砕け散る術式の網に唇を噛む。


 霊力の量、質、出力速度、規模。何もかも向こうのほうが上手だ。

 たった二発攻撃を受けただけで分かってしまう。

 陽雨は、この相手に、小指の爪先ほども敵わない。

 生前はどれほど優秀な術師だったのだろうと口惜しさすら感じる。


 とはいえ、相手がどれほど強かろうが、高名な術師の成れの果てだろうが、当主代理として水無瀬を預かる陽雨には、水無瀬の家人を守る責務がある。

 この双子だけでも無事に帰さなければならない。

 泣き言は言っていられない。


 次々に繰り出される斬撃を素早く放った術で相殺しながら、距離を取りつつ式札を人影に飛ばしていく。

 いくつか切り伏せられつつも狙い通りの場所に落ちたことを確認し、人影が斬撃を放つタイミングに合わせて、陽雨は結界を作り出す。――今度は自分たちの周りにではなく、人影を囲い込むように。


 地鳴りのような音がして、人影の足元が崩れた。

 人影の意識が僅かに逸れた一瞬を逃さず、ありったけの霊力をこめて封じの結界を閉じる。

 すかさず少年の手を引っ張って少女を抱える式神とともに森を駆け抜けた。

 悔しいが、あれでは足止め程度にしかならないことは分かっていた。


 ばしゃばしゃと泥を蹴り上げながら森を進むと、第二層はすぐに見えてきた。


 閉じた結界を人ひとり分ほど開けて、双子と式神を通らせる。

 式神に霊力をこめてさらに体格のいいのっぺらぼうにして、双子をそれぞれの腕に抱えさせる。

 いつの間にか少女も不安そうに目をきょろきょろとさせていた。


「ふたりとも、ここからは絶対に安全だから、この式神と一緒に先に戻って」


 少年がかっと目を見開いた。


「おまえはどうするんだよ! そんなに怪我っ、してるのにっ」

「大丈夫。私はあの刀の人をどうにかしてから、すぐ追いかけるから」


 斬撃を掠めた肩口は生地が切り裂かれて血の染みができていた。

 裂傷と障りの二重の痛みに耐えながら努めて明るく笑って、陽雨は双子の気を逸らすようにふたりの手に神楽鈴を持たせた。

 鈴の音は魔除けになるから、きっとふたりを屋敷まで安全に守ってくれるだろう。

 結界の術式を仕込んだ折り鶴は、先ほどの混乱の中でどこかに落としてきてしまったので、その代わりだ。


「ふたりとも、しりとりはできる? 森を抜けるまで終わらせないように、ふたりで言葉を続けるの」

「……できる。いつもふたりでやるとずーっと終わんなくて、そのうち母さんがいい加減におしまいにしてって言うんだ」


 少年が怒ったような泣き出しそうな声で言う。

 陽雨は目線を合わせて頷いた。


「いいね、頼もしい。じゃあ、森を抜けて、大人のところに着くまでだよ。――行って!」


 式神に命じて結界を閉じる。

 去っていく式神とは意識を共有しているので、双子がたどたどしくも懸命にしりとりを始めるのが分かった。


 言葉の初めと終わりを繋いで作り上げた言霊の輪は、一種の結界と同一の意味合いを持つ。

 月臣の仕事に間違いはないだろうが、もし仕留め損ねた妖が潜伏していても襲われずに済むはずだ。

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