第八話

「――――!」


 全員が身構える。同じ方向を睨みつけていた。

 霊力にも妖力にも似た、大きな力が放たれた気配。

 水無瀬を覆う退魔結界が貫かれ、その余波を関知した術師の肌を粟立たせた。


「今のは……」

「北東の方角だ。あの辺りには蔵しかない」


 月臣と朔臣が訝しげに言い合って、面持ち険しく虚空を睨み据えている。

 その横で、陽雨はどうしようもなく苛立ちを募らせていた。


 意識を広げて結界が破壊された範囲を確認する。

 一層、二層、三層――どこまでぶち抜いてくれたのかと舌打ちが零れる。

 退魔結界は外側からの攻撃に備えて構築されたものだから、内側からの衝撃には弱いのだとあれほど言っておいたのに。


 手持ちの式札をその場に惜しみなくばら撒いて、破損部分を新たに結界で覆う応急処置を施していく。

 退魔結界は龍の宝珠の下で調整したほうが効率的だが、拝殿まで移動している時間も複雑な術式の網を繋ぎ直す手間も惜しい。

 とにかく貫通した結界の穴を塞いでしまわなければ、妖がどんどん寄ってきてしまう。


 既に結界内部に入り込んでいる妖の気配もある。

 退魔結界は妖が境界に触れたときに強い浄化の力で邪気を滅するという性質のもので、内側に入ってしまった邪のモノに対しては弱らせる程度の力しか持たない。

 内側まであまりに清浄にしすぎると、生物の呼吸がままならなくなってしまうからだ。


「――当主代理! こちらにおられますか、当主代理、至急お伝えしたいことが――」


 どんどんと扉を叩く音がする。

 退魔結界が破壊されて妖の侵入を許すなどという緊急事態に、家人が指示を求めてやって来たのだろう。


 陽雨がまだ当主代理だから。

 退魔結界の調整ができるのは、龍の宝珠に選ばれた陽雨しかいないから。


 ――陽雨が当主代理の降板を言い出したときには、皆で嘲笑って支持したくせに、こんなときばかり。


「……よ、」

「――うるさい!」


 おそるおそる声をかけてきた月臣を遮るように叫んだのは、何も八つ当たりをしたかったわけではなかった。

 いっそ泣き喚いて悪態でもついてやりたかったが、そういう甘えが許される立場ではないことはこれまで刷り込まれてきた。

 感情的に振る舞ってしまいたいのに、おまえにそうする資格はないのだと、他でもない陽雨が、心の中で抑圧された幼い子供の姿で指を差している。


 うるさい。うるさい。――うるさい。


 高ぶった感情に釣られて体内で霊力が弾ける。

 修練場の結界に組み込まれた術式が陽雨の霊力を攻性と判断し、迎撃術式を発動させた。

 炎で形作られた矢。数は十二。上から三本、右後方から五本、左前方から四本。

 ちらとも視線を向けることなく術を放って相殺する。


 どのタイミングでどういう迎撃が来るのか、もうすっかり覚えてしまったほどには、陽雨もこの修練場に通った。

 才がない、資格がないと言われ続けて、それでも少しでも周囲から認められるために、寸暇を惜しんでこの場所に通って術を磨いて努力してきた。


 それなのに。


 喉から迸った叫び声は、ぐちゃぐちゃな胸の中を表したように不格好だった。

 それでも叫んで吐き出すだけ吐き出して、眦に残る涙を力任せに拭って、思いきり両手を頬に叩きつける。

 じんとする痺れと小気味のよい音にようやくほんの少しだけ気が済んで、陽雨は静まり返った扉へと足早に近づいた。


 閉めきっていた扉の鍵を開く。

 開いた扉に勢い余って「うわあ!」と声を上げたのは、警備部に所属する術師だった。

 術師は泣き腫らした陽雨の顔を見て一瞬ぎょっとしたものの、機嫌の悪い陽雨が睨みつけるとその場で直立不動になって頭を下げた。


「お、お取り込み中に申し訳ございません、急ぎお伝えしたいことが」

「本家敷地内北東部の森、東五番の蔵付近で第一層から第四層までの結界の破壊、および外部から多数の妖の侵入を感知しています。うち一層に侵入した妖に対しては何名かの術師が交戦中。それ以上の報告がありますか」

「――い、いえ」


 おっしゃる通りです、とやけに低姿勢でしゃちほこばる彼は、陽雨に封じられた龍神の存在をもう知っているのだろうか。

 そんなことを確認している場合ではないので疑問を頭から追い出し、陽雨はくるりと月臣と朔臣を振り返った。


「当主代行は私と一緒に現場へ。朔臣、私の部屋から弓と鈴と式札の予備を持ってあとから追いかけてきて」


 誰からの返事も待たずに術師の横をすり抜けて修練場を出て、飛行型の式神を作り出して飛び乗る。

 術師と月臣がすぐに追いついてきた。

 術師には式神も含めてじろじろ見られているようだったが、陽雨は無視してまっすぐ前を睨み据え、降りしきる雨の中を駆け抜けた。


 木々で作られた小径の奥、森の深いところに注連縄が囲う開けた空間が見えてくる。

 朝にも立ち寄った、冬野の打刀が封じられている土蔵が建つ場所だ。


 嫌な予感が的中していないことを願いながら空から接近した陽雨は、座り込んだ女性を妖が襲っている光景を目撃した。

 弓はないが、霊力を矢に見立ててつがえ、狙い澄まして放つ。

 その一瞬で陽雨の集中が途切れて式神が姿を霧散させたが、霊力の矢は正確に女性を襲う妖を射貫いた。


 陽雨は落下しながら自分に風の術をかけて近くに着地し、女性に駆け寄った。

 覚えのある顔だった。


「近江夫人、こんなところで何を――」

「た、助けて! 子供たちを助けてください! あ、妖が子供たちを攫って……!」


 必死の形相で縋りついてくる夫人にたじろぐ。

 子供というのは先ほどの双子のことだろうか。


 近くで交戦中だった術師たちに助力して妖を滅してから、月臣が陽雨に向かってくる。

 術師のひとりが「ご報告します」と直立した。


「我々が一帯の警備を命じられて現着したとき、ここより北に数十メートル離れた場所から小学生ほどの子供の悲鳴が聞こえました。確認に向かったところ、こちらの近江夫人のお子と思われる子供二名が座り込んでおり、付近には封印札の残骸らしきものが貼られた黒い鞘を発見、そこから北方向に木々や地面が抉られたような術跡を現認、急ぎ伝令を遣わしたところで破れた結界から妖が第一層結界内部に侵入し、うち一部は子供二名を拘束して第二層結界内部に後退、一部は更なる進攻の様相を見せたために我々で応戦しておりました」


 黒い鞘。

 ざわりと一気に冷や汗が噴き出して、陽雨は咄嗟に土蔵に封じの式札を叩きつけた。

「伯父様、外の警戒お願い!」と言い放って自分は扉に飛びつく。

 鍵がかかっているはずなのに、土蔵の扉は呆気なく開いた。

 階段を地下まで一気に駆け下りて、呆然とする。


 朝きちんと確認したはずのその社の中に、あるべき打刀が――ない。

 鞘に貼ってあったはずの封じの札が、何枚か踏みつけられて落ちている。


「陽雨」

「冬野様の刀が持ち出されてる。札が落ちてたから封じも解かれたと思っていいと思う。幸い他の呪具の封印は無事だったけど」


 蔵から出てそう報告すると、予測していただろう月臣の顔色も悪い。

 飛んできた式神から伝令を受け取っていたらしい術師が、強張った顔で陽雨と月臣に近づいてきた。


「警備室を確認させたところ、鍵がひとつなくなっている、と。申し訳ございません。鍵管理台帳との照合が慢性的に形骸化していたため、いつから鍵が紛失していたのか分からないようで……」


 奥歯を噛みしめる。

 術師は平身低頭で「早急に捜索いたします」と続けたが、今は失くした鍵の在り処なんてどうでもよかった。


 陽雨は術師の横を通り過ぎて、がくがく震えている夫人に歩み寄る。

 夫人は雨で泥濘む地面に構わず額づいた。


「こ、子供たちが黒い棒のような物を振り回していたのは私も見ておりましたが、まさか先代当主様のご夫君の遺物を持ち出していたなんて――……!」


 陽雨はその場に膝を折った。

 雨に打たれて冷えきった夫人の手に指を重ねて、「顔を上げてください、近江夫人」となるべく静かに言う。

 よろよろと視線を持ち上げた夫人の憔悴しきった顔に、陽雨のほうこそ丁寧に頭を下げた。


「申し訳ありません。ここの警備が手薄になることを知っていながら、人の出入りが少ないからと高を括っていました。すべて私の責任です。――ご子息とご息女は、必ず助けます」


 さっと見た限り夫人に大きな怪我はなさそうだが、妖に触れられたのだろう手首に障りが見えた。

 障りは霊力の濃いほうに伝染する性質があるので、陽雨が触れると案の定陽雨の手のほうに移ってくる。


 夫人が動揺するのも構わず障りを受けきって、護符をその上から貼りつけ、じゅう、と浄化されていく痛みを受け流しながら、夫人の傍らに落ちている巾着袋を指差した。


「その折り紙、少しいただいても?」


 巾着袋から折り紙の破片が覗いていた。切り刻まれてしまった折り鶴たちだ。

 夫人が巾着袋ごとくれたので、中から紙片をいくつか取り出して術をこめる。

 一羽だけでも折り鶴が無事だったのは僥倖だった。これで双子の足取りを追える可能性がぐんと高くなる。

 紙片が浮き上がり、無事だった鶴を先頭に、ひらひらと森の奥に飛んでいった。


 降り立った朔臣から弓と神楽鈴を受け取り、式札の束を懐に捻じ込む。

 雨の滴る前髪を掻き上げながら術師に向き直った。


「第三層以降の結界内に入っている術師はいませんね?」

「はい。結界が四層部まで破壊されたあと、すぐに別の結界で破損部分が覆われたのを確認しましたので、我々は第一層に侵入した妖の対処を優先しておりました」

「その被覆結界は応急措置に過ぎないので、群れになった妖に叩かれれば長くは持ちません。本家周辺の安全を最優先とし、これから第一層、第二層結界の破損部分を修復した上で順次内側から閉じます。ここから先は私が指示を出すまで術師を外に出さないでください。外から敷地内に入れなくなりますので」

「承知いたしました」

「現場指揮は貴方に預けても構わないのでしょうか。警備部第一室が特別警備対象に関する指揮系統に不安要素があるのなら、朔臣を私の代理に立たせますが」


 術師は顔を引き締めてすっと頭を下げた。


「我々第一室の不手際を挽回する機会をいただきたく存じます」


 やけに陽雨に対して腰が低いのは、あれだけ怒り狂ってみせた月臣の前だからだろうか。

 確かに座卓が素手で叩き割られていきなり自分に向かって飛んできたら恐ろしいだろう。

 陽雨は固唾を呑んでいる術師にすんなり頷いた。


「では任せます。朔臣はサポートに。私の決裁権限の一部を当主代理補佐に預けます」


 物言いたげな朔臣の視線は無視した。

 ついて来られても今は朔臣に八つ当たりをしない自信がないし、今から人の出入りを封じる結界に朔臣だけ通行可能にする処理を施すのは骨が折れる。


「それから、近江夫人に禊をお願いします。障りを受けられたようですので」

「いっ、いえ――私の障りはすべて当主代理が……」

「近江夫人。一度は妖が入り込んだ敷地内です。どこに何が潜んでいるか分かりません。内側に障りが広がれば結界自体が無意味になります。禊を受けてください」


 顔面を蒼白にして固辞する夫人に有無を言わせず頷かせて、手に貼りつけた護符をぺらりと剥がしながら月臣に向かう。

 思うところも言いたいこともたくさんあるが、それらをすべて呑み込んで、端的に術をこめた式札を一枚手渡す。


「これから二層までの結界の破損部を修繕、内側の浄化密度を上げます。完全に滅せなかった妖の位置はその式神が先導します。当主代行には警備部第一室と連携し、二層内に入り込んだ妖の殲滅とその陣頭指揮を。完了次第撤収してください。一層の結界も閉じます」

「……陽雨は」

「子供たちが三層以降にいるのは間違いないのでそちらの救出に向かいます」

「ひとりでは危険だ。せめて朔臣か私が同行――」

「――来ないで!」


 叫ぶ。

 雷で撃たれたように硬直する月臣の横を通り過ぎて、陽雨は振り返ることなく森に分け入った。

 雨でどんより暗い森はいつもよりさらに鬱蒼として見えた。


「……誰もついて来ないでください。結界であらかじめ浄化密度を上げてから進むので問題ありません。これから入り口を閉じます。各自指示した通りの持ち場についてください。――戦闘中に、味方の隠し事を疑いたくはありません」


 今は余計なことを考えたくなくてわざと告げたのに、自分の言葉に自分で傷ついて、陽雨は髪から滴る雫と一緒に乱暴に目元を拭った。


 月臣は陽雨を追ってこなかった。


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