第七話
「……明陽が産まれたばかりの赤子の中に龍神を封じると決めたのは、苦肉の策だった」
他所に封じればまたいつ封印を解いて襲ってくるか分からない。
赤子の中で赤子自身の力で包まれているうちは、少なくとも明陽にしたように人間の世界から攫うことはない。
成人とともに封印が解かれるようにしておけば、成人して当主となるときには赤子自身が龍神を制御し、歴代当主たちと同様に当主継承の儀で龍神と契りを交わせるようになるはずだった。
そう考えた明陽によって、明陽自身の命と引き換えに、龍神は陽雨の中へと封じられた。
「龍神が陽雨の中に封じられたことで差し当たって水無瀬が龍神に襲われる脅威はなくなったが、神を丸ごとその身に宿す赤子など、術師の家にとっては垂涎ものだ。このことが知られれば陽雨は他家から狙われ、下手をすれば四家の勢力均衡に波紋をもたらす争乱の種として中央預かりにされる危険性すらあった。一連の真実は当主一族に限りなく近しい人間と長老三席の間で伏せることに決まった」
明陽と龍神との顛末をその目で見ていたのが月臣と当時の長老衆だけだったこと、明陽に対する龍神の執着やそれに伴う荒魂化をそれまで本家首脳陣の間で秘匿してきたこともあって、月臣と長老衆さえ口を噤めば、幹部以下分家に一連の件をひた隠しにするのもそれほど無理がある話ではなかった。
陽雨が成人するとき、龍神の封印が解かれる前に、すべてを公表する手筈で口裏を合わせていた。
当主継承の儀を経て実際に陽雨が龍神を御するところを見せれば、真実を知ったあとも分家を納得させられるはずだった。
訥々と語る月臣の言葉を、陽雨は簡単に呑み込むわけにはいかなかった。
当主代理としての立場で言えば、月臣が語った一連の経緯はすんなり受け入れられる類のものではない。
陽雨がその場に立ち会っていたら、いつ荒神をこの世に放つか分からない災厄の子など水無瀬から出すべきだと主張しただろう。
中央に管理してもらって、邪神に堕ちた龍神を鎮めるなり退治するなり、判断を委ねるべきだと冷淡に言ってのけただろう。
それが、多数の分家と術師を抱える惣領本家の跡取りの、あるべき在り方だと知っているからだ。
「……私が龍神様を制御できるようになる保証はどこにもないのに、私に龍神様を封じたことを中央に報告なさらなかったの?」
「龍神の巫女たる明陽が、確信していたからね。明陽が龍神を語る言葉に間違いはない」
盲信的だ。
陽雨はそう思うけれど、水無瀬ではこれが当たり前で、明陽は月臣にさえそう思わせるほどの実績を確かに残してきて、陽雨が反発を覚えてしまうのは単に明陽への個人的な感情がそうさせているに過ぎないことも陽雨は自覚していた。
だからといってはいそうですかと頷きたくない気持ちが湧き上がってくることは陽雨にはどうしようもない。
陽雨の懐疑的な眼差しに苦笑を浮かべ、月臣は肩をすくめるようにして「それに、」と言葉を継いだ。
「私たちもそんな懸念はとっくの昔に忘れたよ。陽雨が龍神を制御できる力を持っていることは長老衆も既に認めている事実だ。おまえが動物霊を使役できるようになったのはもう何年も前のことだろう?」
「式神のこと? 下位の動物霊でぎりぎり、なのに?」
「なら、おまえは高位の神霊級の使役を試みたことはあるかい?」
「下位の動物霊すら霊力で縛って無理やり言うことを聞いてもらわないといけないくらいなのに、私と契りを交わしてくれる神霊級なんて……」
「動物霊が陽雨に怯えて契りどころではなくなってしまうのは、高い知性を持たずに理性ではなく本能で動くものは、陽雨より先に陽雨の中の龍神の存在を捉えて畏怖するせいだ。自分以外の存在が陽雨の霊力と繋がることを龍神が疎んで、陽雨の意に反して相手を追い払ってしまうんだろう。にもかかわらず意のままに使役することができる時点で、おまえが龍神を制御できることは証明されている」
普通術師の卵は七歳くらいで下位の動物霊の使役から式神の術を習得していくことになる。
小動物の霊は『ペットと友達になる』程度の感覚から始められるので教えやすいからだ。
そこから徐々に位格の高い霊魂と霊力を交わすことを覚え、自分の頭の中での構築が必要になる形代式や思業式へと移行する。
陽雨が初めて子犬の霊魂にどうにかこうにか言うことを聞かせることができたのは、中学に上がる直前のことだった。
一般的な術師の家系の子供と比べれば明らかに遅い上達だ。
まだ陽雨の術の習熟度が定例本会で逐一報告されていた時期で、十二歳にもなってまだ子犬霊の使役かと近江老に嘲笑されたことを思い出していると、芋蔓式に思い至ることがあった。
「今の長老衆も、皆、私の中に龍神様が封じられていることを知っているの」
長老第一席はずっと近江から変わっていないが、十八年前にその席にいたのは近江老の父親に当たる老師だったはずだ。
さらに言うなら、第二席の筒泉もやはり当時からは代替わりしているし、第三席に至っては丹波ではなく別の分家の隠居が持つ席次だった。
質問の形を取ってはいるものの、固い声色で言う陽雨が返答を確信していることを、月臣も分かっているようだった。
面を伏せて吐息混じりに「もちろん、知っている。代替わりの際に伝えられている」と言う。
「丹波老も?」
「第三席が丹波に交代する際に、秘密を共有してもらった」
知っていなければあんなタイミングで声を上げるわけがない。
あげつらうことこそないものの、近江老と筒泉老の影に隠れてひたすら陽雨と関わらないようにしていた丹波老の姿を思い出す。
丹波老が陽雨を悪し様に言うことがなかったのは、龍神の封印の要とされた陽雨が龍神に見捨てられた巫女だと蔑まれている現状を憐れみでもしたからだろうか。
そう、と呟いた陽雨に、二対の視線が向いていた。
陽雨、と月臣が口を開きかけたのを遮るように、陽雨は抑揚のない声で続けた。
「それで、龍神様と明陽様に関することを隠していたら、いつの間にか私が龍神様を荒ぶらせたことになってた、ってこと。――ああ、私を孤立させて懐柔しやすくするために、近江老が分家を煽動して変な噂を流したんだっけ。……そんなこと、今さらどうでもいいけど」
何が原因でも、陽雨が生まれてからずっと水無瀬で悪意に晒されてきたことには変わりはない。
誰のせいでもいい。そんなことはどうでもいい。
それよりも、陽雨にはどうしても、喉に痞える魚の小骨のように引っかかっていることがあった。
「――――……どうして、教えてくださらなかったの。伯父様」
ぽつり。
陽雨の静かな詰問は、沈黙の中に落ちて空気を揺らしただけで、誰にも受け止められることはなかった。
外から聞こえてくるざあざあという雨音に、すぐに搔き消された。
「私、ちゃんと秘密にできたよ。誰に何を言われたって、黙ってたよ。……それが、次期当主の務めだって言われたら、ちゃんと黙ってられたよ……」
ぽたり。
次に落ちたのは、雫だった。
雫はあとからあとから陽雨の目から溢れ、頬を滑り落ちて淡い藤紫色の着物に丸い染みをいくつも作った。
「ふたりとも、知ってたんでしょ。私が本当とは違うことで、いろんな人から当主になる資格がないって言われてることも、全部知ってたでしょ。……私、そんなに信用ない? 本当はおまえには、ちゃんとその資格があるんだって、こっそり教えてももらえないほど、私って信用なかった?」
「陽雨、それは違――」
「――触らないで!」
伸びてきた月臣の手を、今度こそ払いのけた。
陽雨のために怒ってくれたせいで怪我をした手なのに、遠慮なく撥ねつけてしまったことが、さらに陽雨の胸を締めつけた。
悲しみと怒りとやるせなさと失望で、どうにかなってしまいそうだった。
「――――嫌い。皆――みんな、だいきらい」
陽雨が吐き出した言葉は、その場のことごとくを凍りつかせるに足るほどの威力を持っていた。
びりびりと突き刺すような衝撃が肌を撫ぜて駆け抜けていったのは、その刹那のことだった。
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