第六話

 定例本会が行われている最中の大広間での騒動に、周辺は野次馬の使用人や術師たちがわらわらと集まり始めていた。


 月臣は陽雨の手を離してくれる様子もなく、仕方なく陽雨は行き先としてとある場所を提案した。

 人目を避けられ、かつ霊力が漏れ出すほど感情を昂らせている月臣の暴挙にも耐えられる、それなりの強度を持つ結界のあるところ。

 月臣が本気を出せば陽雨が維持する結界など簡単に破られてしまう気もしたけれど、全力で術の鍛錬をしたいという術師たちの希望に応えるために歴代当主たちが結界の強度をうんと高めてきた修練場は、お誂え向きと言えなくもない。


 外はいつの間にか雨が降り出していた。

 分厚い雲に覆われた空は暗く、雨脚はどんどんと強くなって、遠くで雷が鳴っている。

 心なしか荒天に曝されている霊山もざわめいているような気がした。


 雨音と雷鳴に包まれた渡り廊下を進んで修練場に行き着くと、中には誰もいなかった。

 先ほどの近江の双子の姿もない。

 これ幸いと入り口に鍵をかけて人の立ち入りを封じ、陽雨は救急箱を持ったまま月臣に向き直った。


「伯父様。……さっきのは、どういうことなの。龍神様が封じられてるとか、……私と一緒にいる、とか」


 そう口火を切るのに、陽雨は勇気を振り絞らなければならなかった。

 言葉尻を震わせる陽雨に、月臣が表情を翳らせる。


「陽雨……怖い思いをさせてすまなかった。おまえのいる方向に威圧を向けたつもりはなかったが、どこか怪我を――」

「怪我なんてない。はぐらかさないで」


 ぴしゃりと遮って月臣の手を掴んで、陽雨は月臣を見据える。

 この期に及んで言い逃れなど許さないとばかりの陽雨の反応を傷ついたような微笑で受け止めて、月臣は瞼を伏せ、座ろうか、と呟いた。


 三人が座る板の間に、沈黙が流れる。

 黙々と救急箱を開いて手当てを進める陽雨の忍耐が限界を迎える前に、月臣が口を開いた。


「どこから話したものかな。……陽雨、おまえが産まれたとき、龍神が荒魂に堕ちて水無瀬を襲ったことは知っているだろう」


 小さく頷く。

 両親が命を落としたのもそのせいだと、ずっと後ろ指を差されてきた。おまえが産まれてきたせいで、と。


「これまでその原因を伏せてきたことで、陽雨が龍神を荒ぶらせたなどという憶測がまるで真実のように扱われてきたが――龍神が荒魂になったのは、陽雨のせいなどではない。あれは元々――明陽が陽雨を身籠る前、さらに言えば、明陽が冬野と結ばれたころから、ずっと水無瀬の上層部が抱えてきた脅威だった」


 月臣の語り口はゆっくりだが淀みなく、しかし何かを迷っているようにも聞こえた。

 陽雨は息を詰めた。


「明陽は三歳のとき、初めて龍神から本殿に招かれた。それは知っているね?」


 首肯する。龍神が明陽を寵愛する逸話として水無瀬でもよく語られている話だ。

 陽雨が耳にするものは、『それに比べてその娘は、』と続くことが多かったが。


「寵愛――おまえもそう評するか、陽雨」


 月臣が微かに唇を引いた。

 月臣にしては昏い笑みだった。まるで――何かを呪うような。


「――あれは、一種の執着だった。龍神は明陽を母屋から拐っては本殿に留めたがり、母屋にあっても明陽に異性が近づくことすら許さなかった。あるとき明陽が五日間姿を晦ませてね。方々探し回っても見つからず、当時の当主である先々代がひと晩かけて本殿で祝詞を奏上して明陽を返すよう頼み込んで、ようやく七日目に龍神の下から帰されてきたことがあった」


 陽雨が聞いたことのない逸話だった。

 跡取り候補が龍神に拐かされたなんて、大事件になってもよさそうなものなのに。

 陽雨の疑問を受け止めるように、月臣が口の端を歪ませた。


「母屋の傍に倒れているところを発見された明陽は、両の腕と脚の骨を折られていたよ。明陽本人は痛がる素振りもなく楽しそうに、明陽をどこにも行かせないように龍神がそうしたと言った。明陽はそのとき、およそ人間としての感情や五感といったものをすべて失っていた」


 言葉を失う陽雨の頭に、神隠し、という言葉が浮かんだ。

 水無瀬に伝わる昔話の中に、霊山で神隠しに遭った娘は龍神の巫女として選ばれたのだとするものがある。

 戻ってくれば神と人との間を繋ぐ器となり、戻ってこなければ龍神の眷属に嫁入りしたのだと。


 陽雨が何を連想しているか見透かしたように「そのとき明陽は五歳だった」と追い撃ちが来て、ぞっと肌が粟立った。

 五歳の幼女の手足を折って監禁するほどの寵愛――月臣が“執着”と言い表すのももっともだ。


「幸い神隠しに遭っている間の明陽の記憶を先々代が封じたあとは、明陽は徐々に人間らしい情緒を取り戻していったが、いずれ自分の力を持ってしても龍神を抑えられなくなる未来を危ぶんだ先々代は、早々に明陽を水無瀬から出すことに決めた」


 水無瀬と並ぶ惣領四家の一角。水無瀬の龍神と神格の匹敵する土地神を祀る家。

 古くから親交のあったその家に明陽を預けて、神霊を鎮める修行を積ませれば、明陽が自力で龍神を抑え込めるようになるまでに龍神に攫われることはなくなる。

 いかに千年以上もの間君臨し続けてきた龍神といえ、同格の神が守る土地の中枢で、その神が直に力を与える当主に守られている明陽に、手を出すことは容易ではない。


 先月に務めに駆り出された明陽の母校が、水無瀬の管轄から外れたやけに遠い土地だったことを思い出す。

 あの地方を管轄しているのも明陽が預けられていた惣領家だ。

 陽雨の父である冬野の実家はその分家筋に当たる。他家出身の冬野が水無瀬に婿入りしたのは、そのときの縁なのかもしれない。


「幸いにも術の才能に恵まれていた明陽は中学を卒業する年には龍神を御することに成功したため、誰もがこれで安泰だと思っていた。明陽の帰還までひとりで龍神を抑え込んでいた先々代でさえも」

「……明陽様が龍神様をコントロールできなくなる何かがあった、ってこと?」


 陽雨の問いに月臣は苦く唇を引いて応じた。習慣のように陽雨の頭に手を伸ばして、すまない、とはっとして手を戻していく。

 撫でられそうになったことにむっとしたのか、撫でられなかったことにむっとしたのか、陽雨は自分の素直な気持ちが分からなかった。


「好いた女が他の男のものになることに、明陽と直に霊力を繋げている龍神の本能は耐えきれなかったらしい。龍神は冬野の霊力が明陽の中に混ざり合うたびに荒ぶるようになった。冬野に嫉妬する龍神の力はその理性に関係なく明陽に不妊の呪いを及ぼし、稀に運よく明陽が妊娠まで辿り着けても、常に冬野の力を腹に抱える明陽と繋がっていることで、日に日に暴走性を増して手がつけられなくなっていった」


 土地神の荒魂はその土地に災厄を振り撒く。

 霊山は異常気象が絶えず、大雨と旱魃を年ごとに繰り返し、山からの雪解け水を川から引き込んでいる周辺の水田の収穫量に大きな影響を及ぼす。

 龍神の住まう湖は濁って次々に生物の死骸が浮き、一時期は浄化の滝も水量を減らした。


「それでも、明陽は冬野との子を望んだ。諦めて分家から養子を取れと長老衆に諭されても、自分ではなく龍神に認められた男との子を産めと冬野に諭されても、頑なに嫌だと言い続けて……そのうちに、ある晩明陽が姿を消した」


 結婚九年目、明陽の誕生日のことだったという。


 五歳の明陽が受けたあの仕打ちを知っている面々には龍神による神隠しの再来かと緊張が走ったが、明陽は翌朝無傷で霊山から下りてきた。

 その手に、龍の宝珠の子供とも見紛う、ひと回り小さな水晶玉を手にして。


「明陽が言うには、龍神から誕生日の贈り物を貰った、と。……ここからは明陽の要領の得ない話を私と冬野とで噛み砕いた解釈になるが、龍神は自身の持つ神としての力を持て余していたのだという。水無瀬の家が興ってから一度も代替わりを経験していないせいか、千年以上の信仰によって肥大化した力は、龍神を容易く荒御魂にも和御魂にも引き寄せるようになってしまった。このままでは明陽の夫も明陽の子が産まれる未来も壊してしまう、理性が残っているうちに自分を封じてくれと、龍神が自ら明陽に願ったそうだ。明陽はひと晩かけて龍神の半身を封じ、他家を頼ってその半身を遠い地に安置すると決めた。――陽雨も知っているだろう。明陽が龍神の半身の安置場所に選んだのは、明陽が通っていたあの学校跡地だ」


 そこにも関係しているのか。

 陽雨はちらりと朔臣を見る。

 先ほどから朔臣に驚くそぶりはない。既に知っていたのだろう。

 朔臣が他の術師に任せずわざわざ学校を早退させて陽雨に行かせたのは、そのことがあったからだろうか。


 家の守護神を、自分の子のために当主自らが封じる。

 陽雨はそれを是とした母の考えが理解できなかった。

 普通だったら考えられない暴挙だ。下手をすれば神から家ごと見捨てられてもおかしくはない。


 片や守護神の再臨を切望してきたお飾り当主と、片や守護神の執着に手を焼いて遠ざけることを決めた当主。

 こんなところでも陽雨と明陽は対照的だ。

 思わず自嘲してしまう。


 そんな陽雨をどう思ったのか、月臣が補足するように「封じたと言っても、龍神の荒魂の側面を、だ」と続けた。

 それは鎮魂とは違うのか。陽雨の疑問に少々困った表情をする。


「明陽がやったのは、龍神が依代とする龍の宝珠から、荒魂の側面だけを別の依代に移して、荒魂の依代ごと封印する、ということらしい。明陽は感覚で術式を組む娘だったから、本人もどういう理屈でそれが上手くいくのか説明できなくて、それ以上のことは正直私にも分からない。神霊と魂を通わせる術に長けた家に預けられていたせいで、明陽は上手い具合に混ぜ合わせてよく器用なことをしていた」


 月臣の口調に不意に懐古の気配が滲む。

 遠くを映して緩められた眼差しを、それ以上見ていてはいけない気がして、陽雨は咄嗟に視線を逸らした。


「陽雨が理屈で術を組むところは、きっと冬野に似たんだろう」


 違うよ、と心の中で言い返す。

 そんなの、陽雨に術の基礎を教えてくれた月臣に似たに決まっている。

 だいたい会ったこともない父親にどう影響を受けるというのか。


「龍神は明陽によって御魂の半分を封じられ、水無瀬に残った和魂のほうも万が一にも冬野への嫉妬に当てられて荒魂に堕ちることがないよう、明陽が出産を終えるまで、当時はまだ龍の宝珠に繋がることのできた私が当主業を代わることになった。私が以前退魔結界の維持を担っていた話はしただろう?」


 明陽が正式に当主として就任したあとにどうして月臣が退魔結界を預かることになるのだろうと思っていたが、そういう事情があったらしい。

 月臣の献身があってこそ陽雨がこの世に生を受けたのだと思うと、当主のくせに一番大切な退魔結界を放り出すなんて、と一概に明陽を非難することは憚られた。


「明陽はその数ヶ月後には妊娠して、その間も水無瀬の龍神は落ち着いているように見受けられた。霊山の気候も安定し、水無瀬の土地はようやく清浄な気を取り戻した。あとは無事に明陽が出産を終えるのを待つだけのはずだったが……」


 月臣は言葉を切って腕を組んだ。苦しげな表情で顎を撫でる。

 月臣にとっても思い出すのも口にするのもつらい出来事だろう。

 溺愛していた義妹と、昔からの親友を、ふたり同時に喪ったのだから。


「……直接的な原因は分からない。荒魂を封じるだけではそもそも足りなかったのか、龍神の半身を封じた地が龍神の力を増す海の近くだったのが災いしたのか、初産でそれどころではなかった明陽が意図せず封印を弱めてしまったのか。――結果的に龍神の荒魂は封印から脱し、水無瀬の本殿で祀っていた和魂さえも荒魂に堕とし、水無瀬を襲って冬野に牙を剥いた。その後、産後の体を押して出てきた明陽を見て――明陽にすらその爪を振るった。龍神の中では他の男の子供を産んだ女は既に汚れた存在と大差なかったんだろう。……龍神が次に誰を求めたか、陽雨は分かるかい?」


 喉が詰まったようになってしまった陽雨を、月臣の苦痛に塗れた目が容赦なく捉えた。

 痛いほどの視線が陽雨を貫く。


「――陽雨、おまえだ。冬野の力を帯びた明陽から独立してひとりの人として存在することで、初めて龍神はおまえを愛おしむべき娘と認識した」


 それは、荒ぶる龍神を宥めすかせる人間が産まれたばかりの陽雨ただひとりだったということだ。

 事態は明陽の幼いころと同じ、否、見境がなくなった分なお悪い。最悪の事態と言って過言ではなかったのだと、陽雨は凍りついた。


 明陽の幼少時は龍神と魂を通じ合わせることのできる先々代がいた。

 ところが制御できないほど力を膨れ上がらせた龍神をひとりで抑えていた先々代は、明陽が龍神を御することに成功したのを見届けると、長年の無理が祟ってその数年後には亡くなった。

 明陽が高校を卒業するまでは預かり先の家に留まることを望んだため、先々代の下で当主補佐を務めていた月臣が当主代理に就任したこともあったが、彼自身は当主継承の儀で龍神と契りを交わすことができず、何か願い事があるときも龍の宝珠ありきで奏上していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る