第五話
誰も口を挟むはずがないと思っていたが、「お、お待ちください、当主代理!」と声が上がったのは、意外にも長老席からだった。
陽雨とは目も合わせずに没交渉を貫いていた丹波老が、額に脂汗を掻きながら座卓から腰を浮かせていた。意外な人間が口を開いたものである。
「丹波老。長老三席には議事に関してご意見をいただくことはありますが、意思決定の最終議決には関与できません」
陽雨はやんわり丹波老を諫める。
既に提議された議案が裁可の段階まで進んだ以上、長老衆は幹部十二席の意向に従う他ない。
そして、現時点でも、陽雨の当主代理続投および当主就任に表立って反対意見を表明する幹部分家は九席存在している。
当主や当主に準ずる役職者への不信任決議は、幹部十二席のうちの四分の三、つまり九席の幹部当主の賛成で可決するのだ。
「朔臣、採決用の式札を配って――」
「――当主代理」
咎め立てるような朔臣の声色が陽雨を制する。
陽雨は朔臣にそう呼ばれるのが好きではなかった。
役目に徹しろと言われているようで――役目に徹しているだけだと、言われているようで。
「朔臣。二度言わせるつもり」
「……やめろ」
上から声が降ってきたと思ったら、手首をぐいと捻り上げられた。振り仰ぐと朔臣が険しい表情で陽雨を見下ろしていた。
「何を考えている。馬鹿な真似はやめろ。今すぐ取り消せ」
「離して」
かえって手首を掴む手の力が強まったので、容赦なく術をぶつけて朔臣の手を弾き飛ばす。
朔臣が目を瞠った。
陽雨が朔臣にすら実力で排除しようとすることがそんなに不思議なのだろうか。
陽雨が秩序を守らない相手に容赦しないのは、今日の定例本会が始まってから一貫していることだというのに。
「よ、」
「霧生朔臣。貴方が霧生家の当主代理として出席していたのは先月までのはずです。当主代理補佐役として陪席しているに過ぎない今の貴方にこの場での発言は許されていません。下がりなさい」
「陽雨、待て――」
「下がりなさい!」
それでもその口が開きかけるのを見て、陽雨は頭に血が上るのをはっきり自覚した。
こんなときばかり声を上げるのか。
先月まで議事中の発言権を持っていたときには、陽雨が何を言われても黙っていたくせに。
怒りに任せて朔臣の周囲だけ素早く切り取った結界を――閉じた。
一瞬で朔臣が姿を消した光景を前に、あちこちから驚愕の声が上がる。「式札もなく一瞬で……」「いつの間にあれほど」というざわめきが聞こえてくる。
結界術を組み合わせて大広間から弾き出した朔臣が、廊下から強引に結界を破ろうとしている気配が伝わってくる。
嫌がらせのように結界を二重にして、繋ぎ目を複雑にして、強度もこれでもかというほど増した。
仮にも歴代当主らの集大成を毎日修復している陽雨が張った結界なので、多少は苦戦してくれなければ困る。可決まで邪魔をされたくない。
「――陽雨。その発議は無効だ」
硬い声で月臣がそう言った。
無効? と首を傾げかけるが、そんなことはないと思い直す。
今日の計画が上手くいくか、穴はないか、現行の規則集から過去の文献まですべてひっくり返したのだ。手抜かりはありえない。
「当主代行には、私の当主代理退任のあと、指名を受けるか受けないかを主張する場が設けられるはずです」
「陽雨。頼む――頼むから。やめてくれ」
「いいえ、絶対に取り下げません。……伯父様だって、分かっていらっしゃるでしょう?」
月臣に微笑みながら、視線を座敷のほうに流す。
丹波老はすんなり引き下がった。それ以外の誰からも反対意見は上がっていない。
それが、陽雨の存在がこの水無瀬本家でわずかも望まれていない、何よりの証左だった。
ずっと悪意に晒されてきた。
少しでも好かれるように、認められるように、術や弓の修行も神楽舞の稽古も当主の勉強もたくさん努力した。
けれど、どんなに頑張っても、何ができるようになっても、陽雨が陽雨である限り、陽雨はこの家では嫌われ続ける。
疎まれ厭われて、その理由を自分自身に探しては、自分ではどうしようもないことに傷ついて卑屈になる。
――そんなのはもう終わりにしたかった。
「毎日お社に通っても神饌を捧げても、龍神様の気配なんて少しも感じられないの。資格がないのに立場だけ独占するのはもうたくさん」
相応しい人にあるべきものを。
それはこの伯父だと皆がそう思っている。陽雨もそう思う。
龍神を荒ぶらせた諸悪の根源がなぜ龍の宝珠に受け入れられてしまったのかは分からないが、陽雨が努力すべきは周りに認められる立派な当主を目指すことではなく、何かの間違いで陽雨を選んだ龍の宝珠に正しい主は月臣だと知らせることだったのだろう。
「よいではないですか、当主代行。当主代理がそこまで弁えていらっしゃるのですから、望み通り退任させてあげましょう」
誰かがそう口を挟んだ。誰かがくすくすと笑った。
ほらやっぱり、と陽雨は諦観に目を伏せた。
「――――黙れ」
だから、陽雨の隣で衝撃音がして、座卓がまっぷたつに割れたとき、咄嗟に陽雨はそれが誰によるものか分からなかった。
月臣の手が赤く腫れている。血が、と言いながら伸ばした手がそのまま掴まれて、陽雨は強引にその場に立ち上がらされた。
「長老衆。これは貴方がたが招いたことだ。この落とし前をどうつけるおつもりか」
月臣は静かに長老三席を見据えていた。
その横顔は能面のように血の気が引いていて、ひび割れそうなほど強張っていて、しかし触れたら火傷をしそうなほど烈しい怒りを滲ませていた。
「近江老。このままでは陽雨は本当に当主代理を降りる。自分を不信任決議にかけるほど絶望した陽雨が当主継承の儀を受けてくれるとお思いか。当主の座を引き受けてくれるとお思いか。何も知らない分家を煽って陽雨を孤立させればいずれ次期当主がおとなしくおまえたちの傀儡になるとでも思っていたんだろうが――」
鋭い音を立てて突風が走り抜けた。
突風だと思ったそれは座卓の残骸が吹っ飛ばされていったもので、長老衆の頭上を越えて陪席の分家当主席を巻き込み、繊細な絵付けのされた襖ごと廊下に突っ込んだかと思うと、障子まで破壊して中庭に転がった。
内側からの衝撃には脆い結界が崩れ、朔臣が勢いよく飛び込んできたが、そんな不作法には既に誰も意識を向けなかった。
「――ふざけるな! おまえたちは陽雨にいったい何をした! 何をすればたった一年でここまで陽雨が追い詰められるんだ! 陽雨は私が最も慈しむ明陽の娘だと再三言ったはずだ! 陽雨をこれほど悲しませたおまえたちの望みを私が受け入れると思うか!」
柔和だと思っていた造作が意図して作られていたものなのだと、陽雨は思い知らされていた。
普段温厚な人が怒るとこれほど恐ろしいものなのか。怒号が今にも弾けそうな霊力を孕んで、びりびりと空気を揺らしていた。
激昂は一転、天気雨のように静まった。
鎮火したのではなく、本当は見えないところでふつふつと燃え滾っているようだったが、少なくとも月臣は表面上冷静に見えた。
声を荒げるそぶりはもう見せなかった。
「……長老衆。予定よりひと月早いが、陽雨にはこれからすべてを話す。貴方がたはせいぜい陽雨がこれまでの仕打ちの上でなおも当主の座を受けてくれる奇跡のような慈悲深さを持ち合わせていることを龍神にでも祈っておくがいい」
陽雨、おいで、とそこだけほんのわずかに声色を緩めて、月臣は有無を言わさず陽雨の手を引いて大広間を突っ切っていった。
襖を出る直前に足を止め、突然の月臣の暴挙に驚愕や戸惑いから抜け出せていない幹部席へ、冷ややかな視線を行き渡らせた。
「近江老の煽動に踊らされた愚かな貴殿らに教えて差し上げよう。――陽雨が当主にならなければ、水無瀬は永遠に龍神の守護を失うことになる。荒魂のまま封じられていた龍神が陽雨の成人とともに復活して、陽雨という慰霊の盾を失ったこの水無瀬を再び襲うからだ。陽雨が龍神と会ったことがないと思い込んでいるのをいいことに、貴殿らは随分と陽雨を悪し様にあげつらってきたようだが――とんだ見当違いだ。初めから社などで龍神に会えるわけがない。最も愛しい存在と常にともにあるのに、龍神がわざわざ本殿などに陽雨を呼ぶわけがない」
どういうことかと困惑する背後にはもう一瞥もくれず、月臣は「朔臣、来なさい」とだけ言い捨て、陽雨を連れて大広間をあとにした。
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