第四話

「――何代にも渡って本家に仕えてきた近江老への無礼といい、長年警備部を預かっていた当家への冷遇といい、これでは幹部十二席と長老三席と当主一家が一丸となって守っていくはずの水無瀬の、先達の伝統を受け継ぐ当主としての素養に明らかに欠けていると言わざるを得ません。水無瀬の龍神様を堕とした邪の巫女の分際で、なんと傲岸な振る舞いか。本当にこのような小娘を当主継承の儀に臨ませるおつもりか?」


 議題は、来月の初めに予定される、陽雨の当主継承の儀についてだった。


 当主継承の儀とは、当主候補が神事によって本殿に祀る龍神に対面を願い、当主として龍神の力を借りるための契りを交わすというものである。

 これに失敗すれば、龍の宝珠に受け入れられて拝殿に上げられた者は当主代理となり、龍の宝珠にすら受け入れられない者は当主代行となる。


 龍神にとっても当主は自らへの信仰を集めて神格を高めるための存在となるので、基本的に水無瀬のひとりも当主の資格を持たない時代というのはありえない。

 ――それがありえているのだとすれば、龍神が水無瀬に人々の信仰を媒介する当主の存在を望まなくなったとき、つまりは龍神が水無瀬を見捨てたときだ。


 明陽の出産の直後に水無瀬を襲った荒魂は、遡れば平安の時代からずっと水無瀬を守ってきたはずの、その龍神だったという。


 陽雨が産まれたのと時を同じくして本家の守護神が暴れ始め、その調伏に向かった先代当主の夫は無念のまま悪霊に堕ち、産後間もなく消耗した体で無理を通した先代当主も亡くなった。

 明陽が龍神を鎮める代償に命を落とした途端、龍神は水無瀬から姿を消した。

 家人が陽雨の誕生と荒ぶる龍神を結びつけるのは無理もないことだった。


 災厄にも近い絶大な力を振るう龍神の前に、犠牲になった家人は何十人にも上ったという。

 近江老がとりわけ陽雨を憎んでいるのは、そのときに彼が妻と娘の両方を喪ったからだ。


 それほど死者を出したにもかかわらず、水無瀬の地が冬野の他に死霊のひとりも彷徨うことなく浄められたまま保たれていることは奇跡と言えるだろう。

 それほど当時の惨状は酷いものだった。


 明陽によって鎮められたはずの龍神の姿を、それ以降見た者はいない。

 明陽が命を落としたあとすぐ、陽雨が龍の宝珠と寄り添うように眠っているところが発見され、月臣によって間違いなく龍の宝珠だと太鼓判が押されたことで陽雨の命は保障されたが、何度境内に連れていっても本殿の中に招かれることのない陽雨に当主継承の儀を期待する者はどんどんいなくなっていった。

 明陽は当主継承の儀を経ずとも気づけば本殿にいて龍の宝珠で遊んでいる姿を何度も目撃されていたから、そのことを知っている家人たちは、陽雨への失望と嫌悪感を募らせていった。


「海老名どの、その発言は水無瀬の秩序をも蔑ろにするものと見做す。当主代理はあくまで当主代理に認められた権限と裁量で貴殿らの怠慢を断じたに過ぎない。処遇も規則に準じた正当のものだ。先に当主代理に対する礼を失したのは近江老で、果たすべき役割を等閑に付していたのは貴家だろう。それは貴殿も承知のことと思うが?」


 厳しい表情で月臣が腕を組む。

 海老名は少し怯んだ様子だったが、それでも陽雨には変わらず憎悪の籠もった目をぎらつかせていた。


「当主代行が当主代理に肩入れなさりたいお気持ちはよく分かりますとも。だがあのような無慈悲な処分を受けて、当家はこの先当主代理を仕えるべき主などとは到底思えないのです。そもそも私は初めから、我らが龍神様を荒魂に堕とし、先代様の死すら招いたそこの小娘を、我らの惣領として戴くことには反対だったのです! 当主代行、やはり貴方こそ、我らが水無瀬の当主に相応しい」


 ――その言葉を陽雨が手ぐすね引いて待っていたとも知らず、海老名は口角泡を飛ばす勢いでそう言いきった。


 すかさず反駁しようとした月臣を片手で制し、陽雨は緩みそうになる頬をなんとか抑えた。

 ゆっくりと唇を動かす。


「幹部第六席、海老名どの。――今の発言、撤回するおつもりはございませんか?」

「はっ、撤回など」


 吐き捨てられてさらに表情筋に力をこめる。

 そう。この時を待っていた。

 やっとだ。

 やっと――すべて、終わる。


「書記。今の発言を間違いなく議事録に記してください。――書き終わりましたか?」


 書記の手が止まるのを待って、書記がしっかり頷くのを確認して、陽雨は心の底からの安堵の息をほうっと吐いた。

 散々高圧的に執行部を煽ってきた努力が報われた。

 特に海老名はこの一年間ずっと陽雨に対して飄々とした態度を崩さなかった。

 言動の節々に陽雨を蔑み見下している空気が滲み出ているのに、体面だけは阿ってみせる姿勢を崩さないものだから、議事録に記載できるような直接的な発言を引き出すのにとても苦労した。


 その努力が結実したのだと、陽雨は十八年弱生きてきて一番の達成感を味わっていた。

 その高揚のままに、大広間をぐるりと見渡す。


 奥の間の執行部席からは胡乱な目を向けられていた。

 上座にほど近い座席にいる月臣はずっと陽雨を案じるような目をしながら、何を言い出すつもりかと眉を寄せている。

 右後方から注がれる朔臣の険しい視線には、もう少しだから待ってて、ときっと届かない思念を返す。


 すべての視線をまっすぐに受け止めて、ぴんと背筋を伸ばし、陽雨はいっそ晴れやかな気持ちで口を開いた。


「ただいまの海老名どのの発言をもって、幹部十二席のうち四分の三に当たる九席、および長老第一席近江老の賛成により、水無瀬執行部の総意を得たものとし、私、水無瀬本家当主代理、皆瀬陽雨は、水無瀬本家当主代理、皆瀬陽雨に対して、この場をお借りして当主代理不信任決議を提議いたします」


 しん、と静寂が満ちる。

 清々しいまでの宣言に言葉を失った者たちが、空間の時を止めていた。


 初めに声を発したのは、月臣だった。


「――陽雨、何を……言って……――」


 いつも落ち着いている月臣には珍しく上擦った、動揺の窺える声だ。その目は驚愕に見開かれている。

 陽雨は大きなひと仕事を終えたような達成感のままに、大好きな伯父に微笑み返した。大丈夫だよと伝えるつもりで、無邪気に。


「書記。先に通達していた通り、定例本会の一年分の議事録は用意していますね?」


 陽雨が話題を向けると、書記が困惑顔で「は、はい。こちらに」と紐で綴じられた紙束を座卓に載せた。


「では、これから私が言う箇所の議事録を読み上げてください。まずは去年の六月一日。議題十二、当主継承の儀について。長老第一席、近江老の発言を」

「は――はい。では――」


 徐々にどよめきが大きくなっていく空気をものともせず、書記が指定された箇所への記述に逡巡を見せても構わず、陽雨は次々と議事録を読み上げさせた。

 それは全部で二十五か所にも及んだが、陽雨がどういう意図で過去の議事録など持ち出したのか、きっと初めのふたつかみっつほどで、その場の全員が察しただろう。


 それはすべて、ここ一年で定例本会の場で陽雨に対して出席者たちが放ってきた、陽雨の当主ないし当主代理としての能力を疑問視し、あるいは月臣と陽雨の立場を挿げ替えるべきだと主張する、陽雨を弾劾する発言の数々だった。


 陽雨はそれらを冷静かつ穏やかに、微笑みすら浮かべて聞いていた。

 初耳だろう月臣のほうが、よほど表情を強張らせていた。


 月臣が定例本会を欠席するようになってからの一年で陽雨が受けてきた、人格をも否定する発言の数々はこの程度ではないが、あまりに酷すぎる発言は書記も扱いに困ったのか議事録には載っていなかった。

 月臣が目を通したときにショックを受けてしまうかもしれないので、陽雨は密かにほっとして回ってきた議事録に最終承認印を押していた。


「最後に、本日五月一日の海老名当主の発言ですが、こちらは先ほどご本人より撤回の意思がないことを確認できましたので、復唱の必要はないかと思います」


 あまりの発言の数々にげっそりしている書記を「ありがとう、ご苦労様です」と労わってから、陽雨は議事録を受け取り、自分の前の座卓に広げた。もう一度視線をまっすぐ持ち上げる。


「これらは私の当主代理としての能力を疑問視し、当主代行である霧生月臣の当主就任を望む幹部が多数である証明であると言えるでしょう。議事録は作成後に幹部十二席と長老三席の承認をもって成立しておりますので、先の発言は紛れもなく当時の皆様の本心により発されたものと推量します。また、海老名どの以外は、先の復唱にもあった通り、似たような発言を何度か繰り返されていることから、その心変わりも生じていないものと思料します」


 気まずそうに目を逸らしたり動揺したりする者もいたが、それがどうしたとふんぞり返っている者もいる。

 誰がどういう反応をしていても驚くつもりはなかったが、長老三席が揃って暗い顔をしているのが意外だった。

 特に普段からあれだけ陽雨を次期当主に不相応だと批判し続けている近江老は、念願叶って陽雨が自分から降りると言い出したのだから、もっと愉快そうな顔をしていてもよさそうなものなのに。


「当主代理不信任決議の提議者として、私は現当主代理に替わる水無瀬の惣領に現当主代行である霧生月臣を推挙します。当主代理として、私は不信任決議に対する一切の抗弁を放棄し、不信任決議における請求の一切を全面受諾します」


 提議者と被提議者が同一人物ならあっという間に話が進む。議論の余地がないのだから当然だ。


「以上。幹部十二席、疑義のある方は申し出を。――誰もいないようですね。これ以降の審議を省略することに幹部十二席の承認を得たものと見做します。採決に移ります」

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