第二話

 折り鶴は色とりどりの紙片となって床に散らばっていた。

 悔しそうに顔を歪ませ、地団駄を踏んで喚く少年に頭が痛くなる。近江家は結構な言葉を孫に吹き込んだものだと思う。

 陽雨の横で月臣がすうっと目を細めていた。


 足元に散らばった折り鶴の残骸を集めて、呆然と座り込んでいた少女の下に持っていく。

 ほとんどはただの紙切れになってしまったけれど、どうにか鶴の形を留めている青い一羽を、少女に差し出した。


「ごめんね。無事なのはこの子だけだった」


 少女の目が潤んで大粒の涙が零れる。

 もう一度「ごめんね」と囁いて立ち上がったところで、修練場の入り口から母親と思しき若い女性が走ってきた。

 母親は陽雨を見て月臣を見て、泣きじゃくる少女と折り鶴の残骸に顔を顰め、当主代理に対する語彙の少ない罵倒を喚き散らしている自分の息子に顔色を失って、土下座せんばかりに平伏しながら少年の頭を無理やり下げさせた。


「も、申し訳ございません! 道理の分からぬ幼子の言葉と思って、どうかお許しください!」

「なんで謝るんだよ、母さん! こいつ、お祖父様がいつもデキソコナイって言ってる奴だろ! 母さんだってこんな奴産まれてこなければって――」

「――黙りなさい!」


 陽雨のほうがいっそ頭を抱えたかった。

 ここで会ったのはどちらにとっても運の尽きだったのだろう。

 修練場の点検なんて後日にしておけばよかったと後悔してももう遅い。


「……近江当主は、跡取り息子の教育を誤ったようだ。近江夫人」


 どうしたものかと少年の母親の後頭部を見下ろしていると、すっと隣に並んだ月臣が陽雨の肩を引き寄せながら言った。

 穏やかでありながら冷ややかな声色に、母親がびくりと身を震わせる。

 月臣は冷めた目で母親と息子を見下ろしていた。


「私の前で陽雨を傷つけた報いは必ず受けてもらう」

「伯父様」

「陽雨、行こうか。術式の確認はひと通り終わったね?」


 一応質問の体裁は取っているものの、陽雨は有無を言わさず修練場を連れ出された。

 少年の声は建物を出ても漏れ聞こえてくる。

 早くその雑音から遠ざけたいとばかりそのまま母屋の東の小居間まで手を引かれ、ようやく足を止めた月臣に、陽雨は情けない気持ちで微笑んだ。


「ごめんなさい、伯父様」

「私に謝ることではないよ。一番嫌な思いをしたのはおまえだろう。当主代理を攻撃するような真似を……」


 月臣が怒ってくれるのが嬉しかった。

 陽雨はもう慣れっこになってしまって、今さら怒りなんていう感情は湧いてこないが、こういうときに代わりに怒ってくれる存在がいることは少なからず陽雨の心を慰める。

 月臣の腕が包み込むように抱き寄せるので、遠慮なく身を預けてそっと口を開いた。


「子供のやったことだよ。怪我をするような術でもなかった。ちょっと場所が悪かっただけ」


 折り紙をぶつけられるくらい何ということもない。

 陽雨の周囲は常に悪意と中傷と嘲笑に満ちていて、年齢ひと桁のころから一人前の術師でも苦戦するような危険な務めにひとりで向かわされることもあったし、部屋に呪具が送りつけられていたことも、もっと直接的に階段から突き落とされたこともあった。

 自衛のすべは磨いてきたつもりだ。


「戻ったのか」


 そこに朔臣が姿を見せた。当主代理の執務室は同じ棟にあるので、声が聞こえてきたのだろう。

 月臣の腕の中にいる陽雨に目を留めて「……何かあったのか?」と言う。


「朔臣、今度から屋敷内で陽雨をひとりで歩かせるな」


 正直なところを言えば、あの場に朔臣がいても静観していただけだっただろうから、陽雨としては本家の敷地内で朔臣を連れ歩いても仕方がないと思う。

 のだが、月臣は先刻の近江家の双子との一件を朔臣に端的に説明してしまった。

 補佐役の立場でみすみす陽雨に怪我を負わせるところだったことに肝を冷やしたのか、朔臣が深刻そうに「……ひとりで出歩かないように本人に言え。内側から閉じられた結界の中を歩かれると俺の気配探知から外れて動向が追えない」と言い返していた。


「伯父様、いいよ。朔臣に執務室の留守番を頼んだのは私だもん。朔臣もあとはいいから。外すなら本会の前にまた来てくれればいいし」

「……執務室にいる。書類の残りを片づけておく」

「そう? じゃあ私も――」

「おまえは先に着替えを済ませろ。朝食を取れ。本会まで月臣と一緒にいろ」


 ついていこうとした陽雨をにべもなく制する。その視線がこっそりテーブルの上を一瞥した。

 神饌用の小さな土器に盛られた白飯がふたつ並んでいる。


「朝食? ……これが、かい? そもそも、もう昼食を取る時間だろう」


 月臣が目を見開いて言う。

 元々――一年前までは、陽雨にも本家に泊まる際の月臣と同じ食事が用意されていた。

 陽雨は肩をすくめてみせた。


「いつも朝はあまりお腹が空かないから、朝の献饌のお下がりで十分なの。お昼も要らないって言ってあるから運ばれてこないだけ」


 そう言ってふたつの白飯をラップの上に転がして、そのまま電子レンジにかけた。同時に電子ケトルに水を満たしてスイッチを入れる。

 戸棚を開ければ、陽雨が普段使うものの他に数セットずつの食器と、調味料一式や茶請け用の茶菓子が並んでいる。

 棚の一角にお気に入りのトリュフチョコレートのパッケージロゴが見えて、毎月の定例本会の唯一の癒しに頰を緩ませながら、それを毎月欠かさず用意する朔臣に「そういえば」と声をかける。


「あとでいいから、近江老のお孫さんに、女の子向けの折り紙セットを何種類か包んで持たせてあげて」

「……折り紙セット?」

「そう。さっき折り鶴をぜんぶ紙屑にしちゃったから、詫び状も添えて。ほら、小さいときに私が折ってた」


 言いながら朔臣は覚えているだろうかと心配になったが、朔臣は少し目を眇めただけだった。


「分かんない? ええと、ネットで折り紙セットで検索したら出てくるから――」

「どんな物かは分かる。……本家にそんな物は置いていない。わざわざ用立てるのか?」

「ないならそうして。当主代理の交際費で下りなければあとで私に請求していいから」

「……本気か? 近江老の孫に害されたんじゃなかったのか」

「害されてない。孫違いだし。女の子のほうは完全にとばっちりだもん。せっかく作ったものを目の前でずたずたにされるのって、凄く悲しいものだから」


 朔臣はため息を吐き出した。

「手配しておく」と物凄く嫌そうに言われたが、陽雨は気にせず笑みとともに頷きだけを返す。


 ちょうど電子ケトルが沸き上がったので向かおうとすると、朔臣が静かな声で「陽雨」と呼び止めた。


「何?」

「……少し動くな」


 言われて首を捻る間もなく、額に手のひらが当てられる。

 朔臣は不可解そうな顔で陽雨を見下ろしていた。


「熱はないと思うけど」

「……らしいな」


 そう呟くものの、朔臣は陽雨の額から手を外してもなおも陽雨を見つめている。

 何かを見透かすような目だ。

 陽雨はその目をまっすぐ見つめ返した。


「私の顔、何かついてる?」

「……いや」


 首を振るようにして朔臣が目を伏せる。

 まだ何か考え込んでいるらしい朔臣に、陽雨はついでに淹れたマグカップを差し出した。


「まだ書類仕事の続きやるなら。要らない?」

「………………貰う」


 心の底から不審そうにじろじろ眺め回されてから、マグカップがようやく受け取られる。


 部屋を出ていく朔臣の背中をこっそりほっとしながら見送って、煎茶を淹れた茶碗をふたつ運んでいく。

 電子レンジから取り出したラップの中身を小さな握り飯にしていると、月臣の横に収まるように座らされて、なぜか握り飯にかぶりつくところを見守られながら食べる羽目になった。


「それだけでは足りないだろう。何か他に用意させようか?」

「ううん、大丈夫。定例本会の前にあんまり満腹になると眠くなりそうだから。そろそろ着替えてくるね」


 小居間をあとにする。

 自室に向かう道すがら、ドアを開ける直前のところで、陽雨は廊下の先の執務室のほうを振り返った。


 ――何か、勘づかれてしまっただろうか。


 探るような朔臣の視線を思い出す。

 いつも通り振る舞っていたつもりだったけれど、十八年も隣にいると、やはり少しの変化にも気づかれてしまうのだろうか。

 その程度には陽雨のことを見ていてくれていたのだと、たったそれだけのことが嬉しいと思ってしまう自分に、嫌気が差す。

 惚れた弱みというものは恐ろしい。体温計は離れの医務室にしかないから熱を測るために仕方なく手を当てただけだと分かっているのに、躊躇いなく陽雨に触れた手のひらに、胸が高鳴るのをどうしても止められなかった。


 自室に入ると、衣桁に掛けた着物が目につく。

 今日の勝負服として選んだ、陽雨のお気に入りの着物のひとつだ。

 春らしい薄紅色とも淡いラベンダー色ともつかない地に、繊細な色合いで枝垂れ藤が描かれている。


 帯は淡いクリーム色に銀糸の刺繍のものを合わせる。

 髪には先日月臣に貰った藤の花の簪。あまり華美な格好をしていると長老衆や幹部衆から『色気づいた』だの『定例本会を見合いの場か何かと勘違いしている』だのと難癖をつけられるので、いつもはもっと飾り気のない決まった玉簪を挿すのだが、今日くらいは一番好きな装いで気合を入れておきたかった。


 鏡に映る自分の顔は、写真で見る先代当主の若いころとそっくりで、いつもなら身支度を終えたらすぐに鏡をひっくり返すところだが、今日は鏡の中の自分と目を合わせるようにしてじっと覗き込む。

 朝からずっとどこか高揚している胸に、そっと手のひらを当てた。


「……今日で最後。今日を逃したらもう機会はないんだから。しっかり気合い入れなさい、私」


 言霊で暗示をかけるように自分に言い聞かせて、よし、と唇だけで呟く。

 迷いはない。決めたことだ。

 月臣が中央に行ってしまってからの一年間は、今日のための準備期間だった。


 部屋を出ると、執務室から出てきた朔臣とちょうど行き会った。

 陽雨を見た朔臣は、やっぱり不審そうに眉をひそめる。

 陽雨は袖を持ち上げて腕を開いてみせた。


「似合う? 変?」

「……ここ数ヶ月の装いと比較すれば、随分と珍しい格好だが」

「去年の誕生日に伯父様にいただいたうち、これだけは季節が合わなくてあまり着られなかったから。似合わない? 可愛くない?」

「父がおまえに似合わないものを贈るはずがないだろう」

「伯父様じゃなくて、朔臣がどう思うか訊いてるの」


 いつになく食い下がる陽雨を、朔臣が奇異の面持ちで見下ろす。どうなの、とさらに詰め寄ると、朔臣の無表情が少し揺らいだ。

 腕を動かせばすぐにぶつかってしまいそうなほど近くに迫る陽雨の肩を、朔臣の手が控えめに押し戻す。


「近い、離れろ」

「答えて。変? 似合わない?」


 しばらく睨み合いが続いたが、逃がさないようにスーツのジャケットを掴む陽雨に、朔臣は観念したようだった。


「……似合っている」


 顔を逸らしてぼそりと呟く朔臣に、さらに「可愛い?」と迫ると、「……可愛い。だから離れろ」と無理やり手を引き剥がされてしまった。

 そんなに邪険にしなくてもいいのに、とむくれながらも陽雨は満足だった。

 言わせたようなものだが、それでも、朔臣に褒められたのだと思うと、どうしようもなく嬉しい。


 小居間に待たせていた月臣に声をかけて、定例本会の会場である大広間に連れ立って向かう。

 左に月臣、右に朔臣と、まるで両側を固められるような布陣だ。

 これは何かデモンストレーションの一環なのかもしれない。

 来月の今ごろには当主継承の儀を受けているはずの陽雨の後ろ盾が、水無瀬の本家に次ぐ筆頭分家たる霧生家であることを、改めて知らしめるための。


 後ろめたさに陽雨はひそかにため息を呑み込んだ。「降りそうだ」と呟いた月臣にはっとして顔を上げる。

 ぼんやりしていた陽雨を気遣うように月臣が眦を和らげた。


 月臣に笑みを返しながら、陽雨も窓の外に目を向ける。

 今日は朝から薄墨色の厚い雲が空を覆い隠している。遠くの空はどんよりと暗い。

 天気予報は曇りだったが、山の天気は簡単に変わりやすいので当てにはできない。


「皆様、既にお揃いでございます」


 大降りにならないといいけれど、と思いながら、陽雨は開かれていく大広間の襖の向こうに視線を移した。

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