第二章 覚悟と秘密

第一話

 定例本会。

 月の初めの一日に開かれるそれは、十二席の幹部分家と三名からなる長老が水無瀬本家に集まり、水無瀬本家の運営や他家との関係について合議するための、本家当主が主宰する伝統的な会合である。

 歴代の本家後継の選定や当主の進退、幹部十二席の分家当主就任などもこの本会で承認されることになっていて、発言権や議決権はないが、水無瀬に属する分家当主やその後継ぎなら本家の役職持ちでなくとも陪席を許される。


 カレンダーに関係なく毎月一日と定められているので、平日に当たると陽雨は学校を休むことになる。

 当主が不在の今は当主代理である陽雨の名で開くことになっている会合だが、実質は陽雨がいかに当主代理として相応しくないか参席者たちが誹謗を言い合うための場となって久しいので、自分の悪口を聞くためだけに一日分の授業を丸ごと休むのは正直なところ馬鹿馬鹿しいと思わないでもない。

 学校側には入学時点で既に『毎月一日は家庭の都合で休ませる』という届け出がされているので、今さら否を唱えても仕方のないことだけれど。


 そんなふうに仰々しく予定されている定例本会の当日とあっても、主宰というだけで他の当主の仕事がなくなるというわけではない。

 早朝の献饌と結界調整を済ませ、朔臣と別れてから、陽雨はその足で母屋の裏手にある離れの土蔵のひとつに足を運んでいた。


 当主の仕事は多岐に渡る。

 陽雨の部屋には平日の日中に届けられた決裁待ちの書類の文箱が積み上がっているし、季節ごとの本家祭祀に使用する神具は当主以外に触れられないものも多い。

 当主が管理する水無瀬の退魔結界も並大抵の妖では近づいただけで滅されてしまうほど強力だが、いかんせん古い術式なので時の流れとともに生じる結界の綻びを放置すれば守護と浄化の力はどんどん弱まっていく。

 務めをこなすための術も弓も神楽舞も、修練を続けなければあっという間に腕が落ちてしまう。

 いずれ他の惣領四家の首脳陣と渡り合うために、幼いころから詰め込まれた教養や芸事の手習いも定期的に発生する。


 そして、この土蔵内の管理もまた、当主が担うべき仕事のうちのひとつだった。

 木立の小径を進んだ森の奥深く、注連縄に囲まれるようにして立つその土蔵の周辺は、人気もなく静まり返っている。

 陽雨は少し眉を寄せて入り口の戸の鍵を開けた。


 地下へと続く階段を下りて、棚に並べられた器物を順に確認して回る。

 年代物の壺やら手鏡やら木人形やら、それぞれ形は雑多だが、すべて霊力のこめられた封印の札が貼りつけられている。

 作成過程や経てきた歴史の中で“いわく”が存在そのものに絡みつき、そこにあるだけで災厄を振り撒く呪具。

 水無瀬ではそういうものを引き受けて封印する役目も担っている。


 階段はさらに下にも続く。

 壁や床のあちこちにも封印の札が貼られるようになり、息苦しいほどの清浄を保つ結界に差しかかる。


 紙垂の揺れる綱で覆われた正方形の段差に、小さな社が建てられていた。

 その中に祀られているのは、漆黒の鞘の上から封じの式札を何枚も貼られて、水引でぐるぐる巻きにされた打刀。鍔は違い鷹の羽の紋がかたどられている。


 境界はきちんと引かれている。結界はほつれの一片もない。封印の術式にも綻びは見えない。障りも瘴気も気配は感じない。

 ここにはわずかの曇りも許さない清らかで静謐な空気が流れている。

 ひとつひとつ念入りに確認して、最後に社に貼られた護符に霊力をこめ直して、陽雨はその場で足を止め、ゆっくりと社に向かって深く頭を下げた。


 ――この刀は、陽雨の父、冬野が残した形見だという。


 冬野も陽雨が産まれてすぐに命を落としているので、陽雨に自分の父という実感はあまりない。

 ないけれど、水無瀬で絶対的な支持を集める明陽に羨望以上に重圧と負い目とコンプレックスを抱えている陽雨にとっては、実父のほうがまだありのままの気持ちで向き合える相手だった。


 水無瀬の分家ではなく他家からの婿でありながら、明陽の番として人望を集めていた冬野は、結婚十年にしてようやく授かった子をたいそう喜んだという。

 妊娠が判明した直後から子供用品を部屋に溢れかえるほど買い揃え、性別も分からないうちから名前の候補を十も二十も考えていた。

 明陽の出産の直後、突如として神霊級の荒魂が水無瀬を襲ったときも、出産を終えたばかりで消耗する妻を休ませるために「帰ったら子の名を一緒に決めよう」と約束して自ら調伏に出向いていった。

 結局、最終的に彼が遺した候補の中から赤子を『陽雨』と名づけたのは月臣だったけれど。


 荒魂の調伏の最中に命を落とした冬野の霊魂が、悪霊となって霊峰を彷徨い始めたとき、最も胸を痛めて精力的に解決に動いたのも月臣だったという。

 冬野と長らくの友人関係にあった月臣は、混乱の中で行方が分からなくなっていた冬野の打刀の鞘を探し出し、文字通りの死闘の末になんとかその霊魂を封印した。

 それ以来打刀の封印は月臣が守り続け、その務めは今は陽雨に受け継がれている。


 月臣が鎮めきれずに封印するしかなかったほどだ。存命であればいったいどれほど強い術師だったのだろう。

 陽雨も父に師事して術の稽古に励んだのかもしれない。陽雨が上達したら、父も月臣のように温かく優しい手のひらで頭を撫でてくれただろうか。

 そんな詮ないことを、陽雨はここに来るたびについ考えてしまう。


 階段をゆっくり上がって外に出た。首を振って感傷を払拭して、朝の爽やかな風の吹き抜ける森の中を足早に次の土蔵へと向かう。

 こなすべきあれこれはたくさんある。雑念に囚われている暇はない。


「――陽雨、こんなところにいたのか」


 太陽が高くなったころ、土蔵から出たところでかけられた声に、陽雨は足を止めた。

 見ればいつもの着流しではなく霧生家の家紋入りの羽織と袴をまとった月臣が、式神の印を額に刻まれた子犬の先導で近づいてくる。

 ひらりと手を振って微笑む月臣に、陽雨はぱっと顔を明るくした。


 思わず駆け寄りかけた陽雨に向かって、子犬の式神が唸り始める。

 うっかり目を合わせるや怯えたように月臣に擦り寄って、くうんと鳴いて姿を消してしまう。


 格の低い従属式神にこういう反応をされるのはいつものことだが、小動物の霊に避けられるとやっぱり傷つく。

 霊のみならず陽雨は動物にもあまり好かれない性質だった。


 しょんぼりとする陽雨を苦笑しながら慰めて、月臣は陽雨の巫女装束姿を見下ろした。それから陽雨が手に持つ書物に目を留め、背後の土蔵にちらりと視線を向ける。


「何か調べ物かい?」


 古い術法書からここ数年の定例本会の議事録まで、この土蔵には水無瀬中の書物や書類が雑多に集められている。

 特に古い文献はここに溜め込まれていて、扱いに注意しなければならない物も多いので、専門の司書員が常駐して目を光らせている。

 陽雨を始め、水無瀬の術師が知識を求めるときは、この司書員に頼ることも多い。


「ん、それと、封印結界の奥の術法書に異常がないかの確認、かな」

「司書部と警備部からそれぞれ報告書が上がってくるはずだろう? 何か気になることでも?」

「資料を返すついでだから。自分でも確認しておきたかったの」


 月臣が不思議そうに持ち上げていた眉尻をふっと下げて微笑む。頭を撫でながら陽雨から書類の挟まったバインダを受け取って、さっと目を通した。

 一番上のリストには、もう陽雨がほとんどチェック済みのサインを付けている。


「もうひとりでやってしまったのかい? 私も半分引き受けると言っておいたのに。朔臣は?」

「朔臣には執務室で書類仕事を頼んであるの。伯父様だって、霧生の当主様のお仕事もおありでしょう?」

「霧生のほうは跡継ぎの教育も兼ねてある程度は任せられるようになってきたから、そんなに忙しくはないんだよ。学生のおまえにすべての当主の仕事が向かうほうが問題だ。今日はこれでおしまいかい?」

「あと一か所、修練場の結界の確認も今日まとめてやっておきたいの」

「ああ……先月、修練場の外から物理的に大破させた輩がいたんだったか。ついていっても?」


 せっかく月臣が探しに来てくれたのを無下にするのは申し訳ないが、先に母屋に向かっていてもらおうと口を開きかけた陽雨を、先んじるように月臣が顔を覗き込んだ。

 陽雨は困ってしまって項垂れた。


「……本家で私と一緒にいらっしゃると、また嫌な思いをするかも。伯父様おひとりなら、近江老から嫌味を言われることもないと思うから」


 月臣には先日も近江老の件で迷惑をかけたばかりだ。

 言外に陽雨からは離れていたほうがいいと勧めたつもりだったが、月臣は気にした様子もなく陽雨を「おいで」と招いて、隣り合って一緒に歩き出してしまった。


 月臣とともに木造の修練場を訪れると、人影はほとんどなかった。

 母屋で本会が始まると少しの物音も憚られるような重々しい雰囲気に包まれるので、当日はほとんどの術師は本家に寄りつかなくなる。

 この修練場と母屋は隣り合っているため、本会中に母屋まで響いてくる鍛錬の声が煩いと長老衆が文句をつけたことがあるからだ。


「先客がいるようだ」


 月臣がひそめた声で教えてくれる。

 揃いの稽古着に身を包んだ小学生ほどの少年と少女が折り紙に式神の術をかけて戯れていた。

 本人たちは一生懸命に術の鍛錬をしているつもりだろうが、傍から見れば微笑ましい光景である。

 陽雨にもあんな時代があっただろうか。ぼんやり思うが、陽雨があのくらいの年齢のときには既に術の基礎を叩き込まれて務めに出されていたので、あんなふうに術の上達を純粋に楽しむような時期はなかったかもしれない。


「なぜあれほど小さな子供が修練場に……」

「近江老のところの双子のお孫さんなんだって。去年妖の初祓いを終わらせたらしくて、ときどき定例本会のときに連れてきてるの。……でも、保護者の姿が見えないのは気になるね」


 修練場を覆う結界には元々、術師が対妖の実戦に限りなく近い戦闘訓練を受けられるよう、多くの鍛錬用の迎撃術式が埋め込まれている。

 見習いを卒業した成人の術師のための修練場なので、子供だけで遊ばせておくような安全な場所ではない。

 子供が無邪気に放った術に結界が反応して、迎撃術式を発動させないとも限らない。


 子供たちにちらちらと気を配りながら結界を隅々まで見定めて細かな調整を加え、広い板張りの修練場を練り歩いているうちに、ふと意識の端に術の気配が引っかかった。

 振り向きざまに指先で軽く術を放つと、陽雨の足元に折り鶴が落ちる。

 視線を巡らせた先で、先ほどの少年が驚いた顔をしていた。


 折り鶴は少年が放ったものらしい。

 指先で風を作り出してひょいと少年の元に戻してやる。

 それが幼いプライドに障ったのか、少年はみるみるうちに眉を吊り上げて、傍らの少女が止めるのも構わずに折り鶴を片っ端から飛ばしてきた。


 力任せではあるものの、折り鶴自体に殺傷能力を持たせているわけでもないようなので、これは受けてあげたほうがいいのだろうかと悩んでいると、そのうちに別の術の気配が意識を掠めた。

 鋭く空を切る風の刃が突風のように湧き上がる。折り鶴が刃の渦に巻き込まれて切り刻まれていく。

 少年の術を攻性と見なした修練場の結界が、迎撃術式のひとつを発動させていた。

 陽雨は慌てて少年と少女の周りに防護結界を張った。警戒しておいてよかったと胸を撫で下ろす。


「――っなんで当たんないんだよ! ヒキョウだぞ! デキソコナイのくせに!」

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