第七話

「……昨日は」


 指先で毛先を弄る陽雨をしばし見つめていた朔臣が、不意に言った。


「乱暴にして悪かった。俺がどうかしていた」


 頭を下げられて、陽雨は仰天した。

 つむじが見えるほど深くこうべを垂れる朔臣など、十八年弱も一緒にいて一度も見たことはない。

 陽雨が何も言えずにいる間も朔臣はずっと微動だにしないので、慌てて口を開いた。


「朔、あの――顔、上げて。分かったから」

「陽雨」

「別に、気にしてないから」


 少し嘘だ。気にしないはずがない。もともと憎まれているのにさらに嫌われる要素を増やすような墓穴を掘ったのだ。

 挽回の可能性など初めからほとんど存在していなかったようなものだが、残る僅かなチャンスをも、陽雨は自分で踏み潰した。

 その事実が陽雨の胸に陰を落としていた。


 陽雨にとってはあれが精一杯だった。

 本当は陽雨以外の女が朔臣の側にいるだなんて嫌で嫌で仕方がない。

 それでも、陽雨のせいで人生の権利を奪われた朔臣に、陽雨がまだ与えられるものがあるのだとしたら、それはきっと朔臣に心の自由を許す言葉だけだった。

 屈辱も悲しみも堪えて口にした言葉は、かえって朔臣を怒らせただけだったけれど。


「そろそろ行くから。学校に行く前に神楽の稽古もしたいし」


 沈黙にいたたまれなくなって、陽雨は石階を下り始めた。

 陽雨、と上から声が降ってくる。

 今日は大盤振る舞いだと、それだけで緩みそうになる気を無理やり引き締めて、朔臣を振り仰いだ。


「おまえの務めを、来年の三月までは控える。……月臣が中央から帰ってきてから、許可を得て、おまえに言うつもりだった」

「もうすぐ成人なのに、私に務めを入れないなんて無理でしょ。昨日みたいに緊急の案件が入ったら出ないといけないんだから」

「完全にゼロに、というわけにはいかないが、月臣や他の者で替わりが効くものはそっちに振る」


 それを言えば、陽雨でなければならない務めなどほとんどないに等しい。

 水無瀬を守る退魔結界の管理だって、多少の無理をすれば陽雨でなくても月臣にもできるのだ。


 当主も当主代理も当主業をこなせないときに置かれる当主代行が、退魔結界に繋がる方法が存在していないわけがない。

 現に月臣は龍の宝珠の加護を失ったあとも、幼い陽雨が結界術を修得するまでの間、涼しい顔で水無瀬の結界の維持を務め上げていた。

 明陽が存命だったころも当主の代わりに結界を預かっていたことがあるのだという。


 陽雨に当てがわれるべき務めが誰かに振られることになったら、今度こそ陽雨の存在価値は失われる。

 いてもいなくてもいい存在になる。

 それをこの男は分かっているのだろうか。……それとも、それこそが狙いなのか。


「……昨日の案件も、本当は、おまえでなくても、他に対応できる待機術師はいた」


 考えを先回りしたように、陽雨でなくてもよかったのだと言われて、こぶしを握りしめた。

 川や水源を司る龍神の守護を持つ性質上、水無瀬に持ち込まれる案件は水に関するものが多い。川の氾濫や大雨、反対に干害の際の雨乞いの儀式なども請け負い、その地が遠ければ数日かけての出張になることもある。

 だが、昨日の案件は場所こそ海の側の港町ではあったけれど、水害は確認されていなかった。

 国内の術師を統括する惣領四家の一柱として、水無瀬が管轄する土地でもない。

 あの案件が水無瀬の分家に持ち込まれたというのがそもそも不可解だったし、分家の任務失敗を受けて、元々の管轄の惣領家に頭を下げて案件を巻き取ってもらう方法も取れなくはなかった。


「明陽様の母校だと知っていて、おまえに無理に務めを捩じ込んだのは、俺の私情だ。おまえにとって明陽様が無条件に慕う母親ではないことも分かっていたが、それでも俺はおまえに行ってほしかった」


 なぜ陽雨に行かせたかったのか。

 一番初めに思い浮かんだ理由がすとんと腑に落ちて、陽雨はなんだか笑いがこみ上げてきた。


 月臣もそうだったのだろう。

 きっと月臣には怪奇現象の原因に見当がついていたはずだ。

 当主代理の付き添いなら当主代行が赴く理由には十分だっただろう。

 それは同時に、当主代理の補佐役が同行する理由にもなったのだ。


 小さく失笑を漏らした陽雨を、朔臣が怪訝そうに見た。

 陽雨はついに朔臣に背を向けて、石段に足を踏み出した。


「陽雨」

「あんたがどういう意図で私を駆り出したのかはともかく、その采配自体は正解だったんじゃない」


 怪奇現象の原因が水無瀬の先代当主の若いころの無責任な対霊措置だったと判明した今となっては、他家に知られることなく陽雨がその尻拭いを済ませて案件を内々に収められたことは、結果的には奇跡のファインプレーだった。

 陽雨が悪霊を引き込む結界をそれほど苦労することなく解くことができたのは、普段毎日触れている水無瀬の結界術に術式がそっくりだったということもある。


 陽雨、と後ろから声が追いかけてくる。

 今日だけで何度名前を呼ばれただろう。

 月臣が不在にしている間、水無瀬で陽雨の名が呼ばれることなど、三日に一度あればいいほうだったというのに。


「……今日はよく喋るね、朔臣」


 陽雨の皮肉に、ようやく朔臣が口を閉じた。

 社殿の側で無駄口を叩いていると、下にいる巫女たちに聞き咎められて長老衆に告げ口される。

 浄めの滝にはまだ距離があるが、陽雨はそれ以上朔臣に口を開いてほしくなかった。


 皆瀬明陽という人は、死してなお皆の心を魅了してやまないのだと、これ以上思い知らされるのはもうたくさんだった。


 溢れるほどの霊力と類稀なる術の才を持つ、ずっと当主就任を望まれ続けてきた龍神の巫女。

 生誕とともに龍の宝珠に認められ、その数年後には龍神が自ら本殿に招いたという逸話を持つ、他家にも名が轟くほどの稀代の術師。

 陽雨が絶対に追いつけない、手の届かないところにいる人。


 そんな相手がよりにもよって自分の恋敵だなんて、陽雨の人生はどこまでも天に見放されている。

 明陽は陽雨を産んだから死んだようなものだ。

 月臣は陽雨を『明陽の忘れ形見だ』と言って慈しんでくれるが、その他の家人にとっては陽雨は『明陽を死なせた原因』に他ならない。

 朔臣にとっても、それは同じ。


 機械的に足を動かしながら、乾いた笑いをそっとこぼした。陽雨は自分が笑いたいのか泣きたいのかも分からなかった。


 ――やっぱり、高校卒業後の進路を、昨日のうちに決めてしまわなくてよかった。


 浮かび上がった苦い思いにこぶしを握り、笑みの形に歪めていた唇をゆっくり引き結んで、陽雨はひとつの決意を胸に固めた。

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