第六話

 桜の花もほとんど散った四月中旬といえども、山間の早朝は冷える。


 昨夕から降り出した雨は夜のうちには上がっていたが、一桁台まで気温の下がった冴えた空気の中、陽雨は身を震わせながらひっそりと自室を出た。

 なるべく物音を立てないように板張りの廊下を進み、母屋の裏手から屋敷の奥に出て、背の高い木立に囲まれた丸太階段を上っていく。

 緑と土と水の匂いがだんだん深くなって、やがてせせらぎの音が聞こえてきた。


 眼前には苔の生す岩壁が幾重にもそそり立っている。

 一番外側の壁の前で、奥を守る巫女装束の術師がふたり立っていた。

 儀礼的に頭を下げる彼女たちに頷きだけを返して、巫女の片方が差し出してくる装束を受け取り、ひとりで岩壁の奥へと足を進める。


 寝間着代わりの浴衣を躊躇いなく脱ぎ落とし、先ほど受け取った白装束を慣れた手つきで身につける。

 岩肌で覆われた天然の脱衣所を後にし、裸足で石畳を抜けて向かう先は、霊峰の雪解け水が作る渓流の瀞。水無瀬が誇る清浄の源、浄めの滝である。


 岩間から湧き出た清らかな水が白糸のように滑り落ち、揺蕩う水面が木漏れ日を受けてきらめいている。

 澄みきった冷涼な空気。

 しんと静まり返った空間に満ちる、木々の葉擦れと流水の清音。

 滝壺を囲う岩壁そのものが結界の役割を果たす神聖な沐浴場。


 清冽な霊水に身を沈め、体の芯まできんと貫くような冷たさに、陽雨は息をゆっくりと吐く。

 毎朝のこととはいえ、夏以外の季節の沐浴は凍みる。

 このあとに待つ神事のために必要不可欠なものだと、分かってはいるけれど。


 きっちり体を冷水に浸して、外で待機している巫女たちに眉をひそめられない程度の時間で切り上げる。

 脱衣スペースに戻ると先ほど脱ぎ捨てた浴衣が消えていて、代わりに竹籠にタオルと新しい装束が用意されていた。

 濡れそぼった白装束を脱いで、外気に身を震わせながらタオルで水気を拭き取り、神事のための装束を手に取る。


 長襦袢の上から純白の白衣を羽織り、緋袴を着る。曇りひとつない足袋を履く。

 正式な当主でない陽雨に着用できるのは、龍神の巫女としての装束くらいのものだ。

 陽雨にとっては幼いころから着せられ続けた仕事着のひとつだった。


 再び巫女たちに頭を下げられながら浄めの滝を後にして、さらに続く石階を上っていく。

 沐浴で冷えきった体が程よく温まるころ、灰白色の大きな鳥居が見えてきた。鳥居の向こうは水無瀬神社の境内が続いている。

 水底に龍神が住まうという澄んだ湖を背に、龍神の神体を祀る本殿や、水無瀬の当主および当主代理だけが立ち入りを許される拝殿が建てられている。


 鳥居の前に木箱を持った朔臣が待っていた。

 元々は朝に陽雨を部屋まで迎えに来て沐浴に立ち会うことも朔臣の役目だったが、中学生に上がった年に陽雨が岩を隔てたすぐ側に異性に待機されていることが我慢ならないとごねて以降は、朔臣は沐浴場から離れた場所で陽雨を待つことになっていた。


 昨日はあれから結局顔を合わせずにいたというのに、朔臣は何事もなかったかのようにいつも通りの無表情で佇んでいる。

 あまりに堂々とされるので、陽雨のほうが負い目を感じてしまいそうだった。

 意地でも動揺を見せたくなくて、陽雨は無言のまま木箱を受け取り、朔臣の横を通り過ぎた。

 そのまま鳥居の前まで進み出て、足を止め、一礼する。


 朔臣が陽雨の後ろをついてくるのを横目に参道を進んで、流造の屋根が曲線を描く向拝でもう一度一礼する。

 扉に触れずとも両開きの扉がひとりで開いていくのは、腐っても陽雨が龍の宝珠に受け入れられているという証である。

 この場の管理者として認められた者が霊力を満たせば、一般向けに開放している麓の“皆瀬神社”とは違って、社殿や境内の清掃が不要になるというのだから便利だと思う。


 この先は朔臣も立ち入りを禁じられている。

 木箱を抱え直して、陽雨は床張りの拝殿を進み出た。

 拝殿の奥は十段ほどの階状幣殿となっていて、その向こうには固く閉ざされた木目の扉が見える。龍神の神体である龍の宝珠はあの扉の中に収められているという。


 陽雨は自分の目で龍の宝珠を見たことがなかった。

 宝珠を祀る本殿は龍神の意思によってのみ扉が開かれるもので、龍神自身から対面を許されて契りを交わした者だけが、本来の意味で“水無瀬”を預かる当主と見做される。

 宝珠に触れられる当主候補として生後すぐに当主代理の座に就いた陽雨の前で、しかしながら本殿の扉が開かれたことはこれまで一度もなかった。


 ――今日も扉は開かない。

 そのことにいちいち落胆することにも疲れてしまった。


 水無瀬の敷地にはこの社殿や境内を初めとして幾重もの退魔の結界が張り巡らされている。

 龍の宝珠に受け入れられさえすれば、龍の宝珠を中心に展開されるそれらの結界を管理することはできる。

 陽雨が産まれ、明陽が亡くなったときに月臣が宝珠に触れられなくなってしまったことを考えれば、拝殿に上がることができるだけでも御の字だろう。

 下手をすれば当代には、当主どころか、当主代理すらなれる人間がいなかった可能性だって考えられるのだ。


 深々と一礼し、粛々と紙垂を垂らした幣束を捧げ、木箱を開けて神饌を供える。

 火を鑽って焚いた白米、大吟醸の神酒の瓶子、海水から作られた天然塩、井戸水を汲み上げて注いだ水器、と順番に並べて、再度一礼、祝詞を奏上する。


 正座したまま背筋を伸ばす。

 体の中心から霊力を高め、ゆっくりと意識を延ばすように、水無瀬の土地を守る退魔結界全体に広げていく。

 ごく薄い膜のような、緻密に張り巡らされた網のような結界の、わずかな綻びも見逃さずに霊力を注ぎ、丁寧に結んで繋ぎ直す。


 退魔結界の管理維持は、水無瀬の当主が何をおいても優先すべき最重要事項である。

 霊力を持つ存在が集まる水無瀬の土地が浄化の結界を失えば、あっという間に霊や妖が引き寄せられて悪鬼の巣窟となる。

 水無瀬の家を興した初代は、龍神が住まう霊峰とその裾野に広がる土地を清浄に保つと契りを交わして、龍神の力を借り受けたのだという。


 朝の献饌をひと通り終えたら、幣殿から神饌を下げ、開けたときと同じ要領で社殿の扉を閉じてから、参道を戻って鳥居を出る。

 ずっしりと重たい木箱をいつも通り朔臣に差し出した。

 が。


 普段ならさっさと引き取られていくはずのそれが、なかなか受け取られない。

 不審に思って顔を上げて、陽雨は虚を突かれて言葉を失った。


 朔臣はただ佇んでいた。

 眉を寄せて――これはいつものことだが――どこか苦しそうな、悲しそうな目で陽雨を見ている。

 何かを詰るような、訴えるような目だった。


「……俺は」


 朔臣が静かに口火を切った。


「俺は、婚約中の身で恋人を作る予定も、配偶者のある身で愛人を囲う予定もない。成人したばかりの婚約者に結婚や閨事を迫るつもりもない」


 昨日のことだということは分かったけれど、その言葉を喜ぶべきなのか悲しむべきなのか、陽雨は分からなかった。

 婚約者として尊重されているようで、同時に結婚相手としてはまったく望まないと突きつけられているようにも聞こえる。

 分かりきっていることでも、改めて言われるたびに陽雨の心はずたずたに切りつけられていく。

 いっそ朔臣が女子高生の幼妻に欲情するような俗物の男であったらいいのにとすら考えてしまう。


「進学するもしないも、誰と結婚するもしないも、誰の子供を産むも産まないも、すべておまえが自分で決めることだ。他人の言葉に自分を任せるな」


 そうだろうか。

 陽雨が水無瀬の当主代理とされているのは龍の宝珠が陽雨を受け入れたせいだし、それなのに正式な当主になれそうにもないのは龍神の守護を得る力を母から受け継げなかったせいだし、婚約者が決められているのはその不足を補うためだし、高校だって家から通える範囲で陽雨の偏差値に合うところが今通っている高校しかなかったからそこを選んだようなものだ。

 当主代理として水無瀬の本殿を常に守り通せる場所にいなければならないから、遠くの学校を受験することなんて論外だった。

 陽雨が陽雨自身の意思で自分の身の振り方を決められたことなんてこれまで一度もない。


 残酷な男だ。

 周囲に求められる通りの傀儡にすらなれなければ、陽雨はこの家にあるための存在価値を失うというのに。

 次期当主にと皆から望まれる月臣の庇護の下で、月臣の長男である朔臣との子を為して本家直系の座を受け渡すことでしか、陽雨はこの家に生まれた意味を得られないのに。


 身を固くして押し黙っている陽雨に、朔臣の手が迫っていた。

 驚いて身を引きかけたが、朔臣は今度は陽雨の体を押さえつけることはなく、ただ肩にかかる髪をひと筋掬い上げた。

 すぐに解かれて、はらりと毛先が背を流れる。


「髪くらい、切りたければ切ればいい。当主代行の嗜好に阿って次期当主の意思を蔑ろにすることが、許されていいはずがない」


 いつもの美容師を屋敷に呼ばせたものの、肩につかないくらいばっさり、という陽雨の希望を聞いた美容師が慌てたようにどこかに照会して、すぐに駆けつけた三人の幹部衆が美容師と結託して陽雨を思い留まらせようとしたのを思い出す。

 陽雨の髪が長いか短いか程度の話でやけに必死になるとは思ったが、あれは月臣を慮ってのものだったらしい。

 確かに月臣は普段から『陽雨には長い髪が似合うよ』と言う。

 てっきり陽雨は、母の面影を色濃く受け継いだという自分が母と同じように髪を伸ばすことを求められているのだと思っていた。

 ――この男も、あの騒ぎを黙って見ていたから、同じだと思っていた。

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