第五話
「……朔臣は、本当にいいの?」
「おまえの好きにしろと言ったはずだ」
「だって、もし私がすぐに妊娠したら、さらに学生時代が長くなるんだし。その間はあんたに全部が向かうことになるでしょ。伯父様はああおっしゃるけど、私はどっちでもいいから、朔臣のいいほうにしたほうが――」
不自然に言葉が途切れたのは、口を思いきり手のひらで塞がれたからだ。
忌々しそうに見下ろされて、思わず立ち竦む。
手はすぐに離れていった。
「……妊娠? 誰に何を吹き込まれた」
「誰にって、……今月の定例本会でもあんなに言われてたでしょ。私が成人したらすぐに入籍して床入りの儀をって」
「俺は霧生の当主代理として承知しないと言ったはずだ」
「筒泉老があとから、あれは霧生側の体面として十代の私と結婚するのに配慮を見せるためのパフォーマンスだから、間に受けるなって言いにきたけど」
「それを信じたのか」
「筒泉老の奥方が、霧生の先代当主夫人と霧生の女衆を連れて床入りの作法を教えに来たから」
「いつのことだ、それは」
「今月の定例本会のあとすぐの日曜日。いつもの神楽舞の稽古のとき」
盛大に舌打ちが降ってきたところを鑑みるに、朔臣の了承するところでないのは間違いないようだった。
最終決定権を持つ霧生家の当主にして、水無瀬本家当主代行たる月臣を見れば、頭が痛いとばかりに額に手を当てていた。
「俺や父を差し置いて、とっくに隠居した先代当主の妻が、おまえにそんなことを言える立場にあると思うのか」
「伯父様は中央にいらしたし、あんたはいつも務めの予定しか喋らないでしょ」
それだって饒舌とは言えない。
今日の務めだって、朝一で分家が報告を上げたというなら、陽雨が登校するころには既に今日は務めが入る可能性があることは分かっていたということだ。
けれど、現に陽雨には分家の報告があったことすら伝わっていなかった。
陽雨が睨まれるのを覚悟して朔臣に尋ねなければ教えてもらえなかったことも、これまでいくつもある。
そう考えると陽雨はなんだか苛々してきて、月臣の前だというのに、目の前の男に皮肉のひとつでもぶつけたくなった。
なぜ陽雨が怒られなければならないのだろう。
陽雨が定例本会で長老衆や幹部衆の前で散々吊し上げられて、「満足に当主としての義務を果たせないならせめて女としては役に立っていただかねば」なんていう嘲笑に晒されている間も、我関せずの態度で聞き流していたくせに。
「それに、私が早く子供を産めば、あんたは少なくとも私の種馬役からは解放されるんでしょ。あんたの『お情け』が欲しい女の人、いっぱいいるみたいじゃない。さすがに母屋には置けないけど、離れのどれかに囲うくらいなら愛人のひとりやふたり許さないほど私は狭量じゃないよ。義務のひとつを早々に済ませられるんだからあんたにとっても好都合でしょ」
吐き捨てた陽雨に息を呑んだのは、誰だっただろうか。
「――おまえは、」
ぎちりと腕を掴まれる。
骨が折れるのではないかと思うほど強い力だった。
怒りに燃えた朔臣の黒い双眸が、陽雨を睨みつけている。
「おまえは、俺が婿入りする身で愛人を連れ込む男に見えるのか」
見えない。
どころか、朔臣が異性を相手に愛を囁く姿すら想像できない。
好ましい存在の前ではいつもの仏頂面が綻ぶのかどうかさえ、彼に嫌われている陽雨には知る由もないことだった。
「……見えるかどうかじゃなくて、そうしてくれて構わないっていう話。私はあんたが婿としての義務さえ果たしてくれたらそれでいい」
それは、陽雨にとっては精一杯の虚勢だった。
懸命に頬を持ち上げて、喉に力をこめて何とも思っていなさそうな声を絞り出して、張り裂けそうな胸の内を押し隠す。
「もっと早く言ってあげるべきだったね。気が利かなくてごめん。家人はあんたに同情的だから、浮気がどうこう言われることはないと思うし、何か言われるようだったら私が許可したって言うから。だから朔臣は――」
自由に、と言おうとした陽雨は、次の瞬間掴まれたままの腕を強く引っ張られて、思いきり壁に押しつけられていた。
鼻先が触れそうなほど近くに朔臣の顔が肉薄していて、咄嗟に息を詰める。
「――ふざけるな」
低く、激昂を表面張力寸前で抑えたような声が落ちてくる。
遠慮のない大人の男の力で握り潰さんばかりに両の肩を近まれて、陽雨の骨がみしみしと悲鳴を上げた。
「朔、痛いっ――」
「――陽雨から手を離しなさい。朔臣」
厳しい口調で差し込まれた声のほうに視線を動かすと、月臣が式札を構えて立っていた。
式神の印が記されたそれから式神が召喚される前に、朔臣の手が解かれる。
同時にふわりとした風に身を掬われて、陽雨はいつの間にか月臣の腕に抱き寄せられていた。
「……朔臣。あまり私を失望させるな」
重く冷ややかな声色で告げて、月臣は陽雨の背を柔らかく押し出した。
「おまえの部屋に行こうか」と囁く声はいつもの伯父のそれだ。
陽雨はあっという間に小居間を連れ出された。
最も奥にある自室まで来て、ドアの中に月臣を招き入れる。
東の棟は洋間の多いしつらえになっていて、西洋趣味のあった明陽の好みで改装されたという区画の一室が、陽雨の自室として割り当てられていた。
家具調度も洋風のベッドやクローゼットが備えつけられている。
「陽雨」
フローリングに立ち尽くす陽雨の後頭部に温かい手のひらが回って、陽雨を慰撫していく。
今さらになってじわりと目が熱くなった。
「馬鹿息子がすまないね」
「……ううん。私が、悪いの」
陽雨が怒らせたせいだ。射殺さんばかりの朔臣の目を思い出して、胸の奥がしくしく痛む。
朔臣にあんなに乱暴にされたのも初めてだった。
朔臣は普段、自分から陽雨に触れることだってしないのに。
「おまえのせいではないよ。おおかた霧生の女衆からあれこれ吹き込まれたんだろう。そういう有象無象から守るために陽雨の側に置いているというのに、逆に婚約者から愛人を勧められるとは、なんとも不甲斐ない息子だ」
陽雨が彼女らから接触を受けたのは、男子禁制の神楽舞の稽古中のことだった。
筒泉老夫人は誰もやりたがらない陽雨の指南役をずっと担ってきてくれた人なので、恩義や引け目があって、陽雨は強く出られない。
厳しくて温かみがなくて疎まれているのは常々ひしひしと感じるが、龍神の巫女としてのあれこれを陽雨に仕込んでくれた師であることも事実で、彼女が連れてきた女性たちが言うことだからと真に受けたのは陽雨だ。
ぎいぎいと音を立てて軋むベッドにふたりで腰を下ろして、月臣はうつむく陽雨の髪を絶え間なく撫で続けた。やがてぽつりと口を開く。
「……朔臣を、おまえの婚約者から降ろそうか」
肩がぎこちなく揺れる。
思わず顔を上げた陽雨に、月臣は困り顔をしていた。途方に暮れたように微笑まれる。
「陽雨はどうしたい? 私は陽雨の幸せが一番大切だ。陽雨が望むなら、種付けされるだけだの子作りマシンだのとおまえに思い込ませたままにする男を、適当な瑕疵を作って婚約者から下ろすくらい、造作もないことだよ」
仮にも自分の息子に対して辛辣な言いようだ。
淀みなく断言するのにどこまでも穏やかな口調は、月臣が冗談で言っているのか本気で言っているのか曖昧にさせる。
陽雨はいたたまれなさに目を伏せた。
「聞いて、いらしたの? ……居場所を知らせるだけの式神だって」
「愕然としたよ。おまえがそんなふうに思っていたなんて。私の大切な陽雨にそんなふうに思わせた人間を今すぐ締め上げてやりたいと思った。挙句の果てに、当主代理が相談役に過ぎない長老に頭を下げるようなことまで」
声の端に怒りに耐えるような気配が滲む。見れば月臣のこぶしが固く握り締められていた。
「私が本家を空けがちになる以前は、少なくともおまえはここまで卑屈ではなかった。あれに私の留守を任せたのは失敗だった」
「……朔臣は、役目には忠実だったと思う。私が当主代理の仕事で困ることもなかったし、伯父様がなさっていたお仕事の穴埋めも」
「事務方の仕事くらい誰でもできる。私はあれに当主代理の秘書を任せたんじゃない。私の留守を任せたんだ。私の留守の間、私が最も大切に思う陽雨のことを任せたんだよ」
「…………」
「昔はおまえたちは本当にべったりだったし、私が引退したあとも陽雨を任せられる男だと思ったから、私は朔臣を自ら仕込んでおまえの隣に置き続けてきた。どうやら私の見込み違いだったらしい。今のおまえたちを見ていると、朔臣が側にいないほうが、よほど陽雨は笑顔でいられるように見える」
それは。
朔臣を陽雨の婚約者から降ろすことは、月臣の中では既に決定事項になってしまったのだろうか。そうなれば、その後釜は?
ぎゅっと膝でスカートの裾を握り込むと、月臣が陽雨のこぶしに手のひらを重ねた。
「……それでも、おまえは、婚約者を替えてほしいとは言わないんだろう?」
体を強張らせている陽雨に、分かっているというように微笑む。
朔臣にはお見通しなのだろう。
陽雨の目からぽろりと涙が落ちた。
陽雨の結婚相手はずっと朔臣だと思っていた。七歳の誕生日に婚約の事実を聞かされて以降、陽雨はいつか朔臣と結婚するのだと思って生きてきた。
それ以外の相手なんて考えたこともなかった。
いずれおまえたちは結婚するんだよと聞かされて、幼かった自分が無邪気に喜んだことを陽雨は今でも覚えている。
あの当時は陽雨と朔臣の間柄も今とはまったく違っていて、朔臣は本家で孤立する陽雨の下に頻繁に通っては遊び相手や術の指南役になってくれて、月臣が忙しくて陽雨に構えない間は朔臣に預けられることも多かった。
とりわけ理知的で博識で、本家で向けられる悪意に怯える陽雨を慰めて守ってくれて、いつも駆け寄っていくと優しい微笑みで抱き留めてくれる“朔兄”が、陽雨はずっとずっと大好きだった。
――好きだった。
幼いころの憧れは、確かな恋心に形を変えて、今も性懲りもなく陽雨の胸の奥底に住み着いている。
何度も何度も打ち砕かれて、粉々になったはずなのに、それでもいまだに往生際悪く陽雨の心に居座り続けて、なかなかいなくなってはくれない。
月臣の指先が陽雨の頬から涙を掬う。どうしたい? と囁くように尋ねられて、陽雨は小さく首を振った。
「……伯父様が、朔臣を私の婚約者から下ろしてしまわれるのは、駄目」
好いた相手に嫌われている事実は苦しい。このまま結婚すればもっと辛い気持ちになるかもしれない。
けれど、月臣の決定によって陽雨と朔臣の婚約が破談になれば、月臣が朔臣の能力に不足があると判断して陽雨の婚約者の立場から落としたと見做されかねない。
好きな人に不当な悪評を押しつけるような真似は絶対にしたくなかった。
月臣はしばし陽雨を見つめていたが、やがて仕方なさそうに分かったと頷いた。
朔臣の乱暴さとは対極にある労わりの手つきで、そっと陽雨を胸に引き寄せて、背に流した髪ごとゆっくりと撫で下ろす。
「泣かないでおくれ。私の可愛いおひいさま。私はずっとおまえの味方だよ」
「……伯父様」
「私が必ずおまえを守るから。笑っておいで、陽雨」
少しだけその手に甘えてから身を起こし、はにかんで微笑むと、月臣が嬉しそうに破顔した。
「これを。合同遠征の合間に、街を歩いていたら陽雨に似合いそうなものを見つけたんだ。これだけは是非とも手渡しで贈りたいと思ってね」
袂から取り出されたのはごく細い長方形の木箱だった。組紐がリボン結びにされている。
促されて解くと、中にひと挿しの簪が収められていた。
濃い飴色の光沢のある一本軸に、藤の花を閉じ込めたような絵付きの蜻蛉玉。淡い紫色のガラスビーズがいくつも連なってしゃらりと涼やかな音を立てる。
「綺麗……。私がいただいていいの?」
「陽雨に贈りたくて買ってきたものだよ。明陽の遺品を貰った礼だ。つけてみせてくれるかい?」
弾む声でうんと答えて鏡の前に移動し、下ろしていた髪を簪で手早くハーフアップにまとめる。
着ているものが学校の制服なのでまとめ髪にしなくてもどこか不釣り合いだ。
それでも鏡に映る簪は可憐で、自然に頬が緩む。
月臣の前まで進み出ると、月臣は満足げにひとつ頷いた。指先でガラスビーズを揺らして目を細める。
「やはりおまえの長い髪によく似合う」
髪を長く伸ばしていると、風呂上がりに乾かすのも傷まないようにケアするのも大変なのだが、月臣までそう言うならまた伸ばすこともやぶさかではない。
今でも既に背を覆うほどはあるが、以前は腰にかかるくらいまで長くしていた。
「次の定例本会でつけておいで。そろそろ藤を着る季節だろう」
「うん。去年伯父様にいただいた藤の着物もあるから、そうする。嬉しい……ありがとう、伯父様」
「この一年、おまえにひとりで頑張らせてしまったようだからね。これからは私がついている。この簪はその証だと思って、堂々としていなさい」
心強い言葉に陽雨の胸がじんわり温かくなる。
唯一陽雨に同情的だった月臣が不在にするようになってから、長老衆や幹部衆は仮初めの楼台に立つ陽雨にどんどん言葉も態度も選ばなくなっていった。
どれほど強がっていても、心に壁を作って蓋をしようとしても、陽雨の味方をしてくれる人間が誰もいない場所で彼らの敵意に晒され続けて、何も感じずにいられたわけではなかったのだ。
「……おまえの十八の誕生日の前に、中央の件に区切りがついてよかった。あのままおまえが独りで当主継承の儀に臨むことになっていたらと思うとぞっとする」
月臣の言葉に視線を落とす。
――当主継承の儀。陽雨が十八歳の誕生日を迎えて成人するに当たって待ち受ける、婚姻と床入りに並んで陽雨の胸に影を落とす問題のひとつ。
陽雨が“お飾りの当主代理”から正真正銘の“名ばかりの当主”になるための通過儀礼。
「朔臣は下がらせたから安心しなさい。……あれを、しばらく謹慎させても構わないよ」
「ううん。大丈夫。どうせ学校の送り迎えのときに顔を合わせないといけないし」
陽雨の送迎なんて他の家人は誰もやりたがらない。そのくせ『本家の当主代理をひとりで出歩かせるなんて以ての外だ』と長老衆が文句をつけてくるので、陽雨は高校生にもなって電車に乗ることも許されていない。
世間の常識をほとんど知らない箱入り娘に育てられていることを思えば、大学進学を勧める月臣の言ももっともなのかもしれない。
陽雨は首を振ってみせてから、ふと窓の外に視線を移した。
窓ガラスに雨粒が伝っている。
灰色の雲が立ち込めた空が、泣いているようだった。
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