第四話

 水無瀬本家の屋敷は、水田地帯を抜けた先の森の中、注連縄に囲われた霊峰の山麓に建っている。

 切妻屋根の棟門から石垣の塀をぐるりと巡らせた敷地内に、大小の座敷を持つ母屋といくつもの渡り廊下で繋がれた離れの棟、頑丈な造りの土蔵、中庭に出れば四季にかかわらず専属の庭師が整えた見事な日本庭園が見られ、花見のための東屋や、本格的な茶事や茶会を開くための茶室まで備えている。

 何かの重要文化財にでも指定されそうな趣だが、生憎毎日目にしている陽雨にとっては何の感慨も湧かない。古くて広くてよそよそしいだけの不便な屋敷だ。


「――陽雨」


 棟門の横の石垣には、使用人用の側扉が据えつけられている。

 普段通りにそちらに足を向けた陽雨を、月臣が呼び止めた。

 一瞬きょとんとした陽雨に微かに表情を変えて、すぐに柔らかな笑みを浮かべると、視線ひとつで門衛に棟門の両手扉を開けさせる。

 安心させるように陽雨を抱き寄せて、悠然と正面から門をくぐる。


 まるで見せつけているようだ、と思って、陽雨はそこでようやく月臣の言わんとしているところを察していたたまれなくなった。

 ここ一年ずっと側扉のほうを使っていたから、本家一族が本来使用すべき門がどちらなのかすっかり感覚が麻痺していた。

 月臣が一緒なのだから、陽雨が正門を使用することに後ろ指を差せる人間はいないのだ。


「陽雨に、中央での土産をたくさん買ってきたんだ」


 月臣が朗らかに言う。陽雨の心をするりとほどくような優しい声色に、胸が温かくなった。


「あとで運ばせるから、受け取ってくれるかい?」

「うん。伯父様、ありがとう」

「私が不在にしていた間のことも早めに聞いておきたい。今日は私も母屋に泊まっていくから、残っている執務をふたりで片づけたら、夕食は一緒に取ろうか。陽雨の分を私の部屋に運んでもらうように言っておくよ」

「本当? いいの?」

「久しぶりに陽雨とゆっくりする時間を取りたいからね。執務のこともだけれど、それ以外のことも、じっくり聞かせておくれ。今日は眠る前まで一緒にいよう。嫌かい?」

「ううん! 嬉しい。あのね、私も、伯父様にお話ししたいことがたくさんあるの――」


 孤立無援の屋敷にほとんど唯一の味方がいるのが嬉しくて、ついはしゃいでしまったのは陽雨の失態だった。

 ここはもう既に陽雨の一挙手一投足を冷ややかに値踏みする目だらけの水無瀬本家だということを、すっかり念頭から吹き飛ばしてしまっていた。


「――やけに賑やかだと思えば。玄関口で騒ぎ立てるなど、随分と当主代理としてのご自覚に欠けた振る舞いですな。当主継承の儀も近いというのに、水無瀬本家の品格を貶めるような幼稚な言動は、そろそろ慎んでいただきたいものですが」


 粘着質な悪意に満ちた声に、陽雨は冷水を頭から被ったように立ち尽くした。

 ちょうど到着したところだったのか、ふたりの男を連れた羽織姿の老人が、杖をつきながらゆったりとした足取りで後ろから歩いてくる。

 皺の寄った瞼の奥から細い目が陽雨を捉えていた。

 蛇のような、鷹のような、蜘蛛のような――ちらとも好意の窺えない、暗く凍てついた目。


 当主の相談役、水無瀬本家を支えてきた長老衆のひとり。

 近江家の古老。

 ――現当主代理反対派の、筆頭である。


「近江老。陽雨は――」

「まあまあ、当主代行。近江老のおっしゃることはもっともでしょう。いくら年若くとも、当主代理はいずれこの水無瀬を背負うお方。甘い顔をすることは分家の役目ではございません」


 陽雨を庇おうとした月臣の言葉を遮ったのは、近江老に付き添っていたふたりの男のうちのひとりだった。

 水無瀬の中枢を担う十二の幹部分家のひとつ、幹部第六席の海老名家の当主。

 同じ幹部とはいえ、席次は第一席の霧生家のほうが上だというのに、男の月臣に対する態度がどこか不遜なのは、本家において当主一族が最も無視できない重鎮であるところの長老席の一角を預かる近江老が一緒にいるからだろう。

 海老名家の今の席次も近江老の推挙あってのものだ。


 月臣が不快感も露わに眉をひそめる。

 敵対心を感じて取ったのか、背後に控えていた大柄な体格の付き人が近江老の前に進み出る。

 なおも何かを言い募ろうとしたらしい月臣の袖を引き、老人に先を譲るように脇に避けて、陽雨は従順に頭を下げた。


「申し訳ございません、近江老。以後気をつけます」

「……ふん。その言葉が言葉だけのものとならねばよろしいが」


 陽雨が下手に出たことで多少溜飲を下げたのか、ちくりと言い捨てて近江老が陽雨の傍らを通り過ぎていく。

 表玄関の式台で草履を脱ぐ音がして、その後ろ姿が見えなくなるまで低頭し続ける陽雨の肩に、月臣が手を置いた。


「陽雨。もういないよ。顔を上げなさい」


 顔を上げると、月臣のほうがもどかしそうな顔をしていた。大丈夫だと伝えるつもりで笑ってみせると、さらに痛そうに表情が歪む。

 こういうことはこれまでも時々あった。いつも通り当たり障りなく収めたつもりだったけれど、月臣は陽雨のそれを次期当主として相応しくない振る舞いだと思ったかもしれない。


「陽雨の成人も近いというのに、まだああなのか、あの人は」


 身を縮こまらせる陽雨に表情を緩めて、近江老の姿の消えた畳廊下の奥を見遣って、月臣が嘆息する。それから気を取り直したように陽雨に微笑みかけた。


「私たちも中に入ろうか」


 戸惑う間もなく、表玄関の上がり框へと月臣に手を引かれる。

 月臣を見るなり廊下の端に避けて頭を下げる使用人たちを後目に進み、渡り廊下を通って東の棟に抜けて、端の奥まったところにあるこじんまりとした洋間に月臣を通す。

 先代当主の娘として一応母屋に住むことは許されているものの、正式な当主ではない陽雨は北の棟にある当主の部屋への立ち入りは許されていないので、当主とその家族の寛ぎの空間である主居間も陽雨が使うことはない。

 数少ない私客を招くときは、自室にほど近いこの小居間を使うことになっている。


 据えつけられたミニキッチンで、朔臣を制して人数分の煎茶を淹れる。

 粗方用意が済んだところで、いつもはあまり姿を見せない使用人が珍しく御用聞きに現れた。

 無駄足を踏ませるのもどうかと思ったので、開封しかけていた茶菓子を戸棚にしまって「お茶請けをお願いします」と頼むと、使用人の女性はどこかほっとしたように去っていった。


「……陽雨。この棟付きの使用人を、別の者に替えようか」


 煎茶を啜りながら月臣が言う。

 陽雨は口をつけていたマグカップをテーブルに戻して、首を傾げた。


「どうして? 何か粗相があった?」

「陽雨は、今の彼女の仕事ぶりに、不満はないのかい」

「うん……?」


 そもそもあの使用人が姿を見せるのは洗濯物を回収しに来るときくらいだ。不満を抱くほどの仕事も任せていないし、気が利かないと思うほどの接点もない。

 陽雨がよく分かっていないことを見て取って、月臣は目を伏せた。


「陽雨がいいなら無理にとは言わないけれど。――そういえば、さっき車の中で問題集をやっていただろう。もう進学先は決めたのかい?」


 話題を改めた月臣に、しかしながら陽雨は目をしばたたいた。


「進学先?」

「陽雨ももう高校三年生だろう。卒業後の進路をどうするか、本格的に考えなければならないころではないのかい?」

「……朔臣、私って大学に行くの?」


 てっきり進学はしないものだと思っていた陽雨が話を振ると、朔臣ではなく月臣が「まさか、何も話し合っていないのか?」と身を乗り出した。

 にわかに張り詰め始めた空気に割って入るように、タイミングよく廊下側からドアがノックされ、使用人が茶菓子を持ってくる。

 陽雨は慌てて盆ごと受け取って、小居間から使用人を追い返した。


「朔臣、どういうことだ」


 使用人の横槍のせいで若干険悪さが削がれた表情で、それでも苦さを隠さず月臣が問う。

 朔臣は変わらない顰めっ面で腕を組んだ。


「……俺は行くなとは言ってない。あの高校に入学した生徒は大抵大学に進学するものだ」

「行っていいの?」

「おまえの好きにすればいい」


 そんなことは初耳だった。

 とはいえ陽雨も尋ねなかったのだから、朔臣のことばかり悪くは言えない。

 悪く言うつもりもないが、朔臣の言い方はなんだか陽雨の意思を尊重するというよりは、陽雨に関わる判断や決定を放り出したがっているように聞こえた。

 月臣が不在の間、未成年の陽雨の保護者の役目は朔臣に預けられていたはずなのに。


「陽雨は大学に行かないつもりだったのかい?」


 黙り込む陽雨に月臣が和らげた声音で尋ねた。

 陽雨は頷くべきかかぶりを振るべきか迷いながら、素直に答えた。


「……行くっていう選択肢があるとは思ってなかった、かな。明陽様も大学には行かずに当主に就任したっていうし……三年に上がってからは今日が初めての務めだったけど、進級してもこのまま務めが続くなら、私に大学進学は求められてないんだろうと思ってたし」


 頻繁に学校を早退しなければならない当主業をこなしながら受験勉強を進められるとは思えない。

 陽雨の養育費は水無瀬の資産から出費されているため、陽雨の進学が話題に上がるたびに金食い虫と非難が上がることも知っている。

 陽雨自身もどうしても大学で修めたいと思うような学問があるわけでもなかった。


「陽雨。おまえと明陽は違う。明陽はお世辞にも学業が優秀なほうではなかったし、本人がこれ以上勉強したくないと駄々を捏ねたから、当主業に専念させたほうがいいと判断して仕方なく進学させるのを諦めたんだ。陽雨は学校の成績もずっと優秀だっただろう」

「伯父様は私が大学に行ったほうがいいと思っていらっしゃるの?」

「無理に行けとは言わないが、知見を広げることはいいことだよ。大学は否応なしに様々な価値観の人間と出会うからね。陽雨は行きたくないのかい?」


 行きたくない……わけではないと思う。

 かと言って率先して行きたいわけでもない。

 行くことはないと思い込んでいたから、実感が湧かないと言ったほうが正しいかもしれない。

 どうせ大学に進んだとしても務めでろくに授業に出られないだろうから、単位を落とす未来を容易に想像できて前向きになれない気持ちもある。


 少し考えさせて、と曖昧に微笑んでみせるけれど、その一方で考える余地なんてあるだろうかと、陽雨の中の捻くれた部分が水を差していた。

 術師の家系の惣領家の当主としての人生を歩む以上は、務めや責任は常について回る。

 ひと月半後の誕生日で成人すれば、これまで月臣に行ってもらっていた他家との付き合いも、徐々に陽雨が出るようになるだろう。

 これまで以上に学業と当主業の両立が難しくなることは明らかだ。


 ……それに、と重たい気持ちで陽雨は朔臣を窺った。

 水無瀬で陽雨が求められていることは学歴でも、まして当主業でもない。朔臣と婚姻を結んで次期当主となる子を産むことだ。

 陽雨が十八歳の誕生日を迎えたら、籍だけでもすぐに入れて早々に次代を為してもらわなければならないと、先の定例本会で長老衆のひとりが声高に主張していたのは耳に新しい。

 学生で妊娠中で実力も人望も足りないお飾り当主を支えなければならない朔臣の負担は、どれほどになるだろう。

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