第三話

「陽雨、死霊から物を受け取るのは危険なことだと昔教えただろう? どういういわくのあるものか分からないのだからね」

「伯父様」

「――まあ。そのスカーフに限って言えば彼女が持っていても危険ではないこと、あなたならご存知でしょうに」


 少女がくすくすと笑いながら月臣に言う。

 知り合いだったのだろうか。

 驚いている陽雨を他所に、月臣は肩をそびやかしただけで応じた。


「陽雨。そのスカーフの裏側を見てごらん」


 促されるままに布地をひっくり返して、目を見開く。

『皆瀬明陽』。そう刺繍されていた。――陽雨の、母の名だ。


「スカーフを交換すると永遠の絆で結ばれる、というジンクスがあったんです。明陽がここを卒業していくときに、友情の証だと言って交換してくれて……あのときのことはあなたも覚えていらっしゃるでしょうけれど。明陽のスカーフにお母様の代わりに名前の刺繍をしたのはあなただったと聞いています。明陽の婚約者さん?」

「あのときは既に『元』だった。卒業式には明陽の兄として出席しただけだ」


 えっ、と声を漏らした陽雨を、月臣が苦笑がちに見下ろした。

 月臣の養子入りが幼いころは他家で療養していた明陽の代わりに水無瀬の後継ぎになることも視野に入れてのものだったことは聞いていたけれど、ふたりに婚約していた期間があったなんて知らなかった。


「内々のうちに立ち消えた話だよ。本家内でも打診レベルの口約束で、分家にも公表していなかった。明陽には冬野という恋人がいたし、高校を卒業するときには既に冬野との縁談が整っていたから、今ではそんな話が持ち上がったことを知っているのは長老衆か古参幹部くらいだろう」


 気にした様子もなく告げて、月臣の手のひらが陽雨の頭を撫でていく。だからおまえも気にするなと言われているようだった。

 月臣が納得ずくのことなら、陽雨が口を挟むことではないのだろう。


 少女は陽雨と月臣に向かって丁寧に頭を下げて、男の子と連れ立って姿を消した。

 スカーフは実体を持ったまま陽雨の手に残っている。受け取ってしまってよかったのだろうか。


「念のため浄めを。陽雨、いいね?」


 陽雨の手からスカーフを取り上げて月臣が言う。

 朔臣の手に渡ったスカーフが式札用の紙で包まれる様子を眺めながら、陽雨は月臣に頷いた。


「浄めが終わったら、それはそのまま伯父様がお持ちになって」

「陽雨?」

「伯父様が持っていてくださったほうが明陽様も嬉しいと思う」


 陽雨にとって明陽は、血縁上の母親だという認識はあるが、自分の母というよりは水無瀬中から崇敬を集めて慕われていた先代当主であり、陽雨が逆立ちしても追いつくことのできない先達だった。

 明陽の遺品にそれ以上の感慨を抱くことのできない陽雨が持っているよりは、霧生家に婿入りした身として水無瀬本家に残された明陽の遺品の形見分けの一切を許されなかった月臣に、その由縁のある遺品を持っていてもらうほうがスカーフにとっても幸いだろう。


「本当にいいのかい?」

「うん」


 月臣はなおも複雑そうに顔を覗き込んでくる。明るく首肯すると困った顔で微笑が降ってきて、「ありがとう。おまえは優しい子だね」ともう一度頭を撫でられる。

 口に出して言うつもりはないが、陽雨は会ったこともない実母の遺品が見つかるより、この伯父に頭を撫でてもらうほうがよほど幸せだと思った。


「向こうの礼拝堂に行方不明の術師が取り残されているらしいから回収してくる。朔臣、それで務めは完了でいいんでしょう?」

「おまえは車にいろ。俺が行く」

「術師の無事を確保するところまでが任務でしょ」

「車にいろ。事後処理は俺の仕事だ」


 取りつく島もなく言い捨てて、朔臣がさっさと歩き出してしまう。

 いつになく頑なな朔臣にむっとしながら、陽雨は慌ててその背を追った。スーツの裾を掴んで引き留める。


「朔、待って」

「車にいろと言っただろう」

「じゃあ術師三人は任せるけど。あの……」


 朔臣が足を止めて、口ごもる陽雨を不審そうに振り返る。

 陽雨はマリア像の前で懺悔でもするような気持ちで正直に白状した。


「礼拝堂……さっき、扉のとこ、ちょっと壊しちゃって。ごめん。あんたの仕事を増やしたかも」


 ため息の音がする。

 呆れだろうか、失望だろうか。

 この男から見下げられていることはとっくに知っているけれど、身の置き場のないような心地はどうしようもなくて肩を竦めた。


 スーツを掴んだままだった手が払われた。


「それを確認するのも俺の仕事だ」


 にべもなく言って朔臣は再び歩き出した。

 その背はこれ以上ついてくるなと陽雨を拒絶しているように見えて、とぼとぼと車に戻る。

 月臣が慰めるような笑みで後部座席のドアを開けた。


「陽雨の細腕で術師を三人も運ぶのは大変だから代わりに行ったんだろう。言葉の足りない息子ですまないね」


 月臣はそう言うけれど、その耳障りのよい言葉をそのまま鵜吞みにしてぬか喜びして、朔臣の冷たい瞳を前に絶望に叩き落とされるのはもう嫌だった。

 陽雨は目を伏せた。


「……私だって、式神をまったく使えないわけじゃないもん。従属式は相変わらず下位の動物霊でぎりぎりだけど、思業式と形代式は実戦でも使えるくらいになったもん。自分で動いたほうが効率がいいときは使わないだけで」

「代わりにおまえの式は人より霊力を多く消費するだろう。あれだけの死霊をひとりで鎮めた直後に無理をするものじゃない。鎮魂の神楽はいつもひとりで? 朔臣も横笛くらいはできるはずだけれど」

「私に当てがわれた務めで、朔臣に頼るのは駄目だもん……」

「おまえは当主代理なんだから、本当は家人に前後の些事を任せて、要の部分だけを担うので十分なんだよ。私なら結界内の探索も退魔も悪霊の鎮魂も朔臣に任せていた」


 月臣はそれで許されるかもしれないが、ただでさえ『龍の宝珠に血筋を受け入れられただけの実力不足のお飾りの当主代理』と蔑まれている陽雨には、そんな他人任せは許されない。

 最も身近な補佐役にすら信用されていない陽雨が、ついに務めを放棄し始めたと見做されるのは一目瞭然だ。


 陽雨は車窓から校舎に視線を遣った。

 ややもせずに礼拝堂のほうから朔臣がこちらに歩いてくるのが見える。

 朔臣は隙のないスーツ姿の出で立ちをまったく崩すこともなく涼しい顔をしていて、その背後には式神の印を額に刻んだ四足の獣が三人の術師を運んでいた。


 あの少女が言った通り、三人の術師は意識を失っているだけだった。外傷も障りの気配もない。

 水無瀬の術師を守れたことにほっとする。


 そこへ、敷地内に大きな影が差した。

 鳥型の式神からふたりの男が降りてくる。初めに任務を受けた分家の当主とその付き人のようだった。

 それとなく月臣と朔臣が陽雨の前に出た。


「当主代理――当主代行もご一緒でしたか。当家の者が見つかったと朔臣どのから報告を受けましたが……」

「ああ、ここに」


 陽雨は月臣と朔臣の後ろでそっと息を詰めた。

 分家当主はそんな陽雨には気づかなかったようで、傍らに寝かされている術師三人の無事を付き人の男に確認させると、陽雨と月臣に向かって深々と頭を下げた。


「このたびは本家の皆様のお手を煩わせる事態を招いたこと、申し開きのしようもございません。この者たちは当主代理が救出くださったと伺いましたが……?」


 分家当主の背後で付き人の男が露骨に冷嘲を顔に浮かべる。そんなわけがないだろうと思っているのだろう。

 陽雨を馬鹿にする人間は多々いるが、付き人の立場で個人的な感情を簡単に顔に出すのはどうかと思う。

 月臣は顔色を変えずに答えた。


「彼らを助けたのは当主代理だ。私が手を出す暇もなくあっさり解決されてしまって、そろそろ親代わりとしての顔も立たなくなってきているところだよ」

「左様でしたか。当主代理、のちほどこの者たちが目を覚ますのを待って改めて本家にお礼に上がりますが、三名に代わりまして此度のご助力にお礼を申し上げます」

「……いえ。無事で何よりでした。気持ちだけありがたく受け取りますので、まずは三人の回復の優先を。三人がどういう状況で囚われていたかは本家から報告書を送ります」


 水無瀬の当主代理として喋るとき、陽雨はいつも自分の在り方を迷う。

 陽雨は水無瀬の家門を束ねる本家一族の一員だが、分家のほとんどから蔑まれているお飾り跡継ぎで、分家の当主たちは陽雨よりひと回りもふた回りも年配の経験豊富な術師ばかりだ。

 水無瀬の跡取り娘としては、彼らに阿るような態度を取るわけにはいかないが、陽雨が実の伴わない名だけの立場から口を開けば開くほど彼らの反感は募る一方だった。


 術師三人は分家側で連れ帰るというので、来たときと同様に朔臣の運転する車に月臣とともに乗り込む。

 陽はまだ高いが、今から学校に戻っても授業は終わってしまっているだろう。今日はこのまま本家に帰ることになる。

 せめて授業に遅れないようにと問題集を開いて眺める陽雨を、月臣が熟考の眼差しでじっと見つめていた。

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