第2話 静寂の裏切り


「どうか今日は朝まで何も起こりませんように」


いつも夜勤前は午後13時に起きる。病院の夜勤は変則2交代の場合、一般的に夕方16時から次の朝9時すぎまでの16時間勤務が多い。

3交代の場合は深夜0時頃に出勤して朝の8時間勤務するシフトになる。


私の勤務先は2交代制なので夜勤は16時間と長い。


「そろそろシャワーを浴びて出勤の準備をするか」


私はいつもの夜勤前ルーティン(シャワーをあびてのんびり昼を食べて仕事の準備)をしながら15時過ぎに自宅を出た。


「今日は朝まで何も起こりませんように。リーダーの坪井さんに怒鳴られませんように」


電車に乗り、刻刻と職場に近づくたびに動悸や冷や汗が止まらなくなっていった。


「怖いけど、でもいかなくちゃ」


力を振り絞って、更衣室でユニフォームに着替えて分娩室へ行った。


「今日は何人進行者いるんだろう。何もリスクがない安産がいいな。それか入院0人。」


今日の夜勤が静かであることを祈りながら、私は分娩室のドアをあけて勤務に入った。

ナースステーションの中を入ってホワイトボードをみた。ホワイトボードには現在の陣痛で分娩室に入院している妊婦さんの名前と状況が簡単に記されている。

私は真っ先にそのボードをみて今日の状況を確認した。


入院している妊婦さんは誰一人もいなかった。


((ラッキー。今のところだれもいない。このままどうか静かな夜であってくれ!!))


日勤のリーダー助産師から全体の申し送りがあった後、今日夜勤リーダー坪井さんに

話かけられた。


((きっと何もないから、産後の病棟を手伝ってって言われるんだろうな))



「栗田さん、そしたらあなたやることないんだったら、産後の病棟を手伝ってきてちょうだい。日勤帯で5人産まれて、そのうちの3人が予定CS後だから産後の方が多分今大変だろうから。何かあったら連絡するから、それまでそっち行ってて」



((やったー!!嬉しい。このまま何もないのに緊迫したまま分娩室で仕事するよりは、産後病棟で楽しく赤ちゃんのお世話や搾乳とかのお手伝いしてた方がはるかに楽!!))



以前産後病棟で働いてたことのある私にとっては、見知った仲の良いスタッフもいるし、業務内容も楽なので分娩室で働くよりも遥かに心的負担が少なかった。


「わかりました!もうさっそく行ってきます!ごはんもあっちで摂っていいですか?」


自然と顔に笑みがこぼれてしまう。

それを察知したのか坪井リーダーは若干機嫌が悪そうだった。


「何かあったらそのピッチに1番で呼ぶから。すぐ戻ってきてよね」



((きっと昨日の私の祈りが天に届いたんだ。このまま何もないまま朝を迎えてほしい))


私はそのまま自分の夕飯のお弁当をもって、産後病棟に手伝いにいった。

産後病棟に行ってのんびり新生児にミルクを与えたり、産婦さんの乳房マッサージや授乳のお手伝いをしたりしていたので、0時まであっという間だった。

時折、分娩室の状況が気になっていたのでカルテで変化がないか確認していたが、めずらしく音沙汰も何もなかった。



((0時を回ったらもうこっちのもんだね。そろそろ休憩を回すはずだろうから。今日は2-3時間は絶対に休めるはず。))



そう思いながらナースステーションで新生児にミルクを与えていた。

1時を過ぎたころだった。分娩室から直接坪井さんが産後病棟にやってきた。


「栗田さん、それ私が代わるわ。あなたもうオフ行っていいわよ」


「ありがとうございます。今日はどれくらいオフとっても良いですか?」


「佐藤さんたちが先に3時間ずつ休みを取らせているから、あなたも3時間行ってきて」


「わかりました」



((やった~そしたら今から行ったら朝4時までは休める。今日はカチ!))


いつもだったら分娩進行状況では、1時間しか休めないことなんてよくある事だった。

もっとひどい場合はオフ無しなんてこともあるため、3時間も休憩があるのはとてもレアだった。


((こんなにガラガラで落ち着いてるんだったら、何もあんなに緊張して出勤しなくても良かったか~。いや今日はついてるだけか))


私は気にせず、仮眠室へと向かった。

いつもなら緊張で眠れないはずだったのに、今日は何もない安堵感か、なぜかよく眠ることができた。


4時前にアラームが鳴り。目が覚めて軽く身支度をして分娩室へ戻った。


とくにあれから変化は全くなく、どの先輩も穏やかに自分が抱えている係や委員会の仕事をしていた。


坪井リーダーはどうやらあの後少し手伝をしたらすぐにオフに行ったらしい。まだ休憩中であった。


「オフありがとうございました。何も変わりなかったですか?」


先にオフに行って自分の仕事をしていた先輩助産師佐藤さんに声をかけた。


「うん。とくに何もなかったよ。今日は本当落ち着いてるね~~」


「ちょっと、その言葉、禁止だから」


隣にいた河野先輩がつかさず佐藤先輩につっこみをいれる。


病院では「落ち着いてるね」という言葉は使用してはいけないという暗黙のルールがある。


これはおそらく全国の病院どこも共通だと信じたいが、なぜか「落ち着いてるね」と発言すると、それを聞いた天の神様がいじわるをするのだろうか、理由はわからないが、とたんに急患などの入院患者さんがやってきたり、急変が起きたりする。


「そうですね。このまま朝までどうかすごしましょう」


その時だった。


~~♪~~~♪~~~♪



分娩室の外線電話が鳴った。


「ほらああああ!!!佐藤のせいだ!!佐藤が電話でて!!」


河野先輩がニヤニヤしながら佐藤先輩に電話をでるように指示を出す。


「え~~??すみませんね~?じゃ~私がかわりに出ますよ~~破水かな?陣痛かな?出血かな~~~?」


佐藤先輩が冗談をいいながら電話を出た。


最初は穏やかに電話口の相手に「どうされましたか?」と話しかけていたが、

急に声のトーンと表情が硬くなった。


「ずっとお腹がいたい?そして硬い?10分以上続いてる?

急いですぐ来てください!!何分でこちらに到着できそうですか?」


佐藤さんの発する言葉を聞いて、河野先輩と私も危機感を感じた。


そうこの症状は、


ソウハク


常位胎盤早期剝離といって

お腹の中にいる赤ちゃんの胎盤が剝がれかけていて、命の危険が高い状態のこと。


胎盤が母体から剥がれると、これまで胎盤を通して母体の栄養や血流が新生児に流れていたのがストップされる。

一刻も早く胎児を外にだして緊急帝王切開をしてあげないと間に合わない



最悪間に合わなかったら、お腹の中の赤ちゃんは



死ぬ。


「栗田。あんたはとりあえずオペ室準備してきて。佐藤は当番の先生叩き起こしてこい。私は坪井リーダーとNICUに連絡する。」


分娩室には小さな手術室1室だけ準備されている。

規模と病床数は限られているが分娩室の隣に小さなNICUがある。


緊急帝王切開になった際に、分娩室から違う階にあるオペ室に移動する時間的ロスを防ぐことができ、NICUと協力連携することで新生児の蘇生も速やかに行うことができる。


私は急いで分娩室の奥の手術室を開けて、準備を始めた。


((どうなるんだろう。おそらく私が機械だしになるのかな))


そう思いながら、手術室の電気をつけて、各モニター機械の電源を入れたりしながら準備をする。


滅菌された機械セットを棚からおろし、手術用ワゴンに載せて、自分の手が触れないように摂氏でキレイに清潔操作して開けていた。


その時だった、手術室のドアを開けて坪井さんが私の声をかけた


「ごめん!もう一人電話連絡なしで飛び込みで進行者が来た。」


そう言葉を言い捨てて坪井さんが走って去っていた。


「・・・・まじか。いそがしくなるじゃん」



どうか今日の夜勤だけは何もありませんように


あの小さな祈りが、空しくも打ち消されるかのようだった。



「うん。とくに何もなかったよ。今日は本当落ち着いてるね~~」


佐藤助産師のあの言葉が頭から離れない。


「なんであんな事言っちゃうのよ、忙しくなっちゃたじゃん」



病院の廊下には夜特有の静けさが流れていたが、分娩室だけはどんどん別世界になっていった。


「栗田ごめん!飛び込みの人、もう産まれるわ。今河野と佐藤がそっちについてるんだけど、ソウハク疑いの原田さん、もう下についてるみたい、急いで迎えに行ってきて!」


「わかりました!」



心臓が早鐘を打つ。私は走って原田さんを迎えに行った。

階段で1階に降りると、エントランスで守衛さんが原田さんを車いすに座らせてエレベーター待ちをしていた。



「原田さん!!助産師の栗田です」



私は大きな声だして原田さんを呼びながら走って近寄っていった。


「あぁ、助産師さん。よかった~」


車いすに座っていた原田さんは安堵の表情をうかべながらも苦しそうな様子だった。


「さ、エレベーターがきました。急いでのってください」


守衛さんに言われて私と原田さんはすぐエレベーターにのった。


分娩室がある3階ボタンを押しながら


「原田さん今もずーとお腹はいたくて硬いままですか?」


私は原田さんの症状をもう一度確認する。


「はい。硬いです。この感じ前回の時と一緒です。あの、前回も私、ソウハクだったんです」



「えっ、ちょっとお腹触りますね。」


エレベーターが3階に早くつくのを待ちながら、原田さんのお腹を触る。

板が入ったような硬さと一般的には言われているが、

原田さんのお腹はとても硬かった。


「お腹かたいですね。3階についたら一気に車いすを押しながら、走ります。」


「赤ちゃんは大丈夫ですか?赤ちゃんの様子が知りたいんです。大丈夫かだけでも知りたい。」


原田さんは不安そうな顔をしながら私に伝えてきた。


「分娩室にいったらまず確認しましょう。今はとにかく急ぐべきです。つきました!」


3階についたとき、私はそう原田さんに伝えて、原田さんが乗っている車いすを押しながらダッシュで分娩室へ向かった。


「坪井さん!原田さん連れてきました!!」


息を切らしながら分娩室の中に入って叫ぶ。



「3番室に入れて!甲斐田先生がエコー持って待ってる!」


「あの!!お腹すごく硬いです!!」


「い“い”から早く!!」


「はい!」


「原田さんお部屋に入って、先生がまずエコーして赤ちゃんとお腹の様子みてくれますよ」


私は原田さんにそう声かけして、甲斐田先生のいる部屋に急いで入っていった。


甲斐田先生は分娩台の上も準備してエコーを握りしめていた。

一緒に佐藤先輩が先生と一緒に待機していた。


「原田さんこんばんは。とりあえず分娩台に上ってお腹見せてくださいね。栗田さんは採血の準備してきてくれない?」


「わかりました!すぐもってきます」


佐藤先輩が私にそういった後、甲斐田医師が「オーダー入れといから」と私に告げた。


私は走ってナースステーションにもどり、カルテを開いて採血のラベルを印刷しようとした。


「栗田お迎えありがとうね。無事に飛び込みの人は産まれてナートも終わって、河野が今産後見てるところ。」


坪井さんがめずらしく私にお礼を言ってくれたのですこし面食らったが、


「いえ、わたしにできることなんてこれくらいですから」

と答えた。


((たまにはこんな事坪井さんも言ってくれるんだな。もうちょっと頑張ってみようかな))


採血のラベルを印刷して、採血をするために駆血帯を取りに行こうとした時だった。


甲斐田先生が大慌てで病室から出てきた。

坪井リーダーが甲斐田医師の行動に気づいてつかさずに聞く。


「どうでした?」


「やっぱり剥がれてる!!グレードAカイザー!!!!」


「栗田走って!!!!手洗い!!!!」


坪井リーダーのその叫びと共に、私は反射的に手術室へ猛ダッシュしていた。


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