みるく【もしあなたが異世界で生まれたら】
みるく
第1話 逃げ出したい場所
あなたが生まれたとき、周りの人は笑って、あなたは泣いていたでしょう。
だからあなたが死ぬときは、あなたが笑って、
周りの人が泣いているような人生をおくりなさい
_ネイティブアメリカンの教え
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必ずしもすべての赤ちゃんが泣いて生まれてくるとは限らない。
しっかり泣いてくれたら、本当に安心する。
ひとが誕生し、この世に生まれてくるということは大変なことだ。
そしてそれはとても喜ばしいことであるはずだ。
だからこそ、私はこの職業を選んで、今ここに立っている。
命が誕生するこの場所(分娩室)に。助産師として。
それなのに、なぜこんなに辛いんだろう。
嬉しいという気持ちなど無いし、
なんならもう今すぐ、この場から逃げ出したいとすら思う。
いつも忙しい毎日。
いつもピリピリした空気が張りつめている分娩室。
いつもピリピリしていて怖くて厳しい上司と先輩たち。
その空気感に合わせる様に、普段は優しい先輩も一緒にピリピリしている。
お産のすべて安産かというと、現実はハイリスク妊産婦ばっかりで
いつ急変してもおかしくないこの場所(職場)で
メンタルを普通に保っていられるわけがない。
「ねえ、未来(みくる)、聞いた?昨日大塚さんがLD8番の硬膜外(麻酔分娩)受け持ってたらしいんだけど、なかなか最後大変だったみたいで、アトニンで押しても娩出力が弱かったらしいんだよね。それでさ、大塚さん久しぶりの分娩介助でもあったらしいんだよね。最後裂傷つくっちゃたらしいの。Ⅲ度裂傷だって。最悪じゃない?」
カルテを記載していると、隣に座った先輩助産師が、こっそりと耳打ちしに来た。
「はい、聞きました。今朝から噂になっていましたから。大変だったんですね」
そう返答したら、先輩師は深いため息をついて、まるで私を怒るかのように語りはじめた。
「はぁー、大変でしたねって。ひと言じゃないんだからやめてくれない?
あんただって今は大丈夫かもしれないけれど、起こす可能性あるのよ?
ちゃんと日頃から自分の手技とか見直して練習しているわけ?
大塚もあと一歩間違えたら4度裂傷だったんだよ?
ていうかそもそも裂傷作るなんてこと自体アウトだから。
助産師失格だから。はやく辞めればいいのに」
先輩は最後にボソッと爆弾発言をした。
ふとカルテから先輩助産師の顔に視線を移すと、先輩の視線の先は違うところにあった。
先輩の視線の先を追うと、その先には大塚さんがいた。
大塚さんはナースステーションの端の方で師長から問い詰められている様子で、あたふたしながら大塚さんが何かを説明したら、師長が大塚さんを師長室へ連行した。
きっと面談という名の事情聴取と尋問時間だ。
「私も、最近は分娩介助からしばらく遠ざかっているので、技術が落ちないように練習して帰ります」
「ええ、そうしなさい。当たり前のことだから」
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最初は命の誕生の瞬間に立ち会えるなんて、なんて素晴らしい仕事なんだろうと思っていた。
出産の瞬間、妊婦さんは不安を乗り越え、我が子を生むために必死で踏ん張る。すべてを乗り越えた後の産後は、部屋の空気がふっと穏やかになる。
笑顔の母親、涙を流しながら子どもを抱く姿。命が生まれてくる喜びを感じないわけがなかった。
…だけど、現実は違う。
すべての出産がうまくいくわけではない。
仕事優先で妻やお腹の子を顧みない父親もあれば、医療的介入が必要なのに、病識が乏しく自然分娩にこだわる人もいる。無事に出産が終わっても、その直後に急激に血圧が上がって弛緩発作を起こしたり、大量出血で生命の危機にさらされることだってある。
出産は命がけのイベントなのだ。
助産師はそんな中でも、いかに起こりうるリスクを予期しながらサポートするのが仕事。
しかし、予測したすべてのリスクを回避できるわけではない。
また、大塚さんみたいに技術力を磨き忘れると、分娩介助で会陰に裂傷を作ってしまうこともある。
自分の技術力を過信し、一度ミスを起こすと「失格」の烙印を押され、上司や先輩たちにマークされてしまうこともあるのだ。
助産師も人であるので、どんなに勉強して自己研鑽してても、リスクを絶対回避するということはできない。
そして予期していなかったリスクが起こったときでも適切に行動して母子を救えるように、日頃から事前に準備や勉強を続けていかなければならない。
そして安全なお産ができるように毎日自分の分娩介助技術を磨いているのだ。
失敗やミスは誰にだって起こりうる。
しかし、この職場ではその失敗やミスがダイレクトに母子の命に響いてしまう。
職場では、誰もが緊張してピリピリと働いている。
大塚さんみたいに自分の技術で失敗など許されない。
失敗なんて起こしたら、助産師としての烙印を押されてしまう。
それどころかしばらく上司や先輩に要注意人物として扱われてしまう。
失敗やミスは一ミリも赦されない。
私は、キリキリする胃痛を我慢しながら先に仕事が終わった同僚を誘い、分娩介助の練習キットを持って、空き病室で手技の確認と練習を1時間ほど行ってから帰宅した。
もちろんこの練習は時間外だし、残業代なんてものはない。
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自宅に帰ると、緊張感からの解放故か、疲れがドっと押し寄せた。
体は鉛みたいに重い。
ベッドにダイブしたら体が全く動けなくなった。
結局お風呂にも入らずに横になってぼーと天井の電球を一点だけ見つめる。
体は疲れているのに、眠れない日々が続いている。
出勤前にはお腹が痛くなり、胃がキリキリと締め付けられる。
手と足が怖い、職場へ行くのが怖い。
「明日何かが起きたら?私は母子を正しく救えるだろうか?
今日も何事もなく無事に終わりますように──」
そんなことをあれこれ考えているうちに、気づけば朝の4時になっていた。
この後の勤務は夜勤だ。 午後1時起きれば出勤に間に合う。
心療内科でもらった 眠剤を1錠飲み、シャワーを浴びて
無理矢理ベッドに入って眠った。
数か月前から、自宅に帰ると胃痛や吐き気、不眠、そして意図もなく涙が止まらなくなることが多くなってきていた。
おそらくメンタル的に限界を感じていると思い、自ら心療内科を受診した。
診断名は適応障害。
症状から、おそらくそうなんだろうと思っていた。
医師からはすぐに休職することを勧められたが、
この世界では一度休んでしまえば、もう戻れない。
一度前進することを辞めてしまえば、先輩から嫌われ、
専門的な知識や技術を教えてもらえることなど二度とないのだ。
なのでこうして、無理矢理ではあるが眠剤を頼りながらなんとか眠り
仕事を続ける毎日を送っている。
明日の夜勤はどうが平和でありますように。
何も起こりませんように。
そう祈りながら、私は目を閉じた。
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