第2話 小さな生き物

前領主の老紳士は、エミーリエと手を繋いで温室を出ると、中木ちゅうぼくが柵のように並んだ向こうへ歩いて行く。

そちら側は敷地の端に位置していて、庭師の小屋と、苗を育てる為の温室、そして厨房で使うハーブ類を育てる小さな畑があった。



畑の近くまで歩いて行くと、畑の端に座り込んだ少年と、側に付いた侍女の姿が目に入った。

領主の第四子、エミーリエより一つ上の兄アントニーと、彼の専属侍女であるコリーだ。


アントニーは、老紳士とエミーリエ、そしてその後に続く侍女達に気付いて立ち上がった。


「あれ、おじい様とエミーリエが一緒に来るなんて珍しいですね」

「ふむ、散歩だよ。アントニーは何を見ていたのかな?」


側に寄って老紳士が尋ねれば、アントニーは嬉しそうに目の前の草を指差した。


「バッタです。エミーリエも見る?」


アントニーは虫が好きなのだ。


老紳士の手を離し、エミーリエはそっと近付いて、興味深くバッタの食事風景を見つめた。

緑色の葉を削り取るようにして食べ進む様子は面白かった。



暫くして、エミーリエはふと、側に立っていた老紳士が、ハーブの横に咲いている花を摘んでは、ぽとりぽとりと地面に落としているのに気付いた。


「おじいちゃま、どうしてそんなに花を落としているのですか?」

「うん? 手持ち無沙汰だったからだな」

「せっかく綺麗に咲いているのに、かわいそうです」


エミーリエは花を一つ一つ拾い上げる。

綺麗に咲いた赤い花は、仄かに甘い香りがする。


「おお、そのまま捨ててはかわいそうかな。ではどうしようか、エミーリエ」

「ええっと……」


持って帰って花瓶に飾るには茎が短い。

エミーリエは手の中の花を見つめて、思いついたように少し離れた所に立っていた侍女達を呼んだ。

そして、近寄った侍女達を屈ませると、耳の上に一つずつ差し込んだ。

自分の頭にも飾ると、最後の一つを老紳士の胸ポケットに差した。


「おじいちゃまにも、はい」

「これは素敵な使い方をしたね」


嬉しそうに笑ったエミーリエの手を取り、老紳士は再び歩き出す。

アントニーがキョトンとして尋ねた。


「おじい様、どこへ行くんですか?」

「そうだな、今度は厨房へ行ってみよう」


アントニーは急いで立ち上がった。

厨房は、この畑の次にアントニーが好きな場所だ。

しかし、仕事の邪魔になるし危ないからと、簡単には入れてもらえない。


「僕も行きたいです!」

「そうかね、ではアントニーも一緒に行こうか。いいかね、エミーリエ」

「はい」


アントニーは急いで侍女のコリーに手を拭いてもらうと、エミーリエと手を繋いで歩き出した。



老紳士と仲の良い兄妹の後ろ姿を追いながら、コリーがルイサの隣に来てワクワクしながら肘で突付く。


「ねえねえ、何が始まってるの?」

「さあ? ただの老人と孫のデートではないかしら」

「ええ〜? そんな話題性のないもん?」


一体何を期待しているのかと、揃いの花飾りをつけたルイサとエミーリエの侍女は、呆れ顔になりながら歩いた。




夕食の仕込みが始まるところだった厨房は、裏口から入って来た老人と幼児二人を見てざわついた。


アントニーとエミーリエは、何かにつけて厨房に入りたがるが、老紳士は別だ。

何か問題でもあったかと、僅かに緊張が走る。

何しろ、領主の座を息子に譲って引退したとはいえ、その前までは彼が領主であり、この領主館の主だった。

つまり使用人にとっては、元主人というわけなのだ。



料理長が奥から出て来て、軽く一礼した。


「大旦那様、厨房に何か」

「ああ、忙しいところすまない料理長。邪魔はしないから、少し端の方で厨房の皆が働くところを見せてくれないか」

「もちろん、結構ですが……」


料理長が答えれば、老紳士は隣の広間から簡素なイスを持って来させて、壁際にちょこんと座る。

料理長と副料理長は目を見合わせたが、のんびりしている時間はないので、すぐに作業に戻ったのだった。




忙しく動き回る料理人と、下働きの者達。

リズムよく聞こえる様々な作業音と、温かな煮炊きの湯気と匂い。


エミーリエは、無意識にゴクリと喉を鳴らした。

ここ暫く、好きなものをお腹いっぱい食べていないのだ。


若い料理人が、近くの作業台に大きな肉の塊を持って来て、包丁でスイスイと捌き始めた。


「今晩のメイン料理は何かな?」

「仔牛のコートレットカツレツです」


老紳士が尋ねると、若い料理人は迷わず答えた。


「やった!」


好きな料理だったらしく、アントニーが小さく喜びの声を上げる。

それはエミーリエの好きな料理の一つでもあった。


その美味しい料理になるのだと思えば、目の前の肉が生きていた動物のものだったと知っていても、エミーリエは怖いとも気持ち悪いとも思わない。

しかし、それこそが“むごい”ということで、自分はやはり悪い子なのだろうかと悲しい気持ちになり、俯いた。



ベーカリーと製菓の担当台が置かれた奥の部屋から、オルガが出てきたのを見つけて、老紳士が軽く手を上げる。


「オルガ、すまないが、酵母を見せてくれないかね」

「酵母液のことですか? はい、どうぞ」


促されて、エミーリエは老紳士と共に、滅多に足を踏み入れられない厨房の奥へ入った。


天井近くまで高さのあるラックには、十数枚の黒い天板が並んでいる。

製菓担当料理人のハイスがオーブンを開き、焼きたての小さなパイが整然と並んだ天板を引き出した。

香ばしい香りがふわりと辺りに漂い、エミーリエとアントニーは、思わず揃って大きく深呼吸した。

おそらく夕食のデザートで使われるのだ。


オーブン前を避けて進むと、発酵器ホイロの前を通る。

発酵中のパン生地が入っているのか、僅かに酸味のある匂いがした。



オルガが案内したのは、奥の壁に造り付けられた棚の前で、そこには液体の入った瓶が並んでいる。

よく見れば、液の中には色々な形の何かが入っていて、軽く濁ったものもあれば、透き通った薄い飴色の液体もあった。


「これ、なあに?」


アントニーが尋ねれば、オルガは瓶を一つ手に取って見せた。


「これは酵母液といいます。酵母菌という小さな生き物が、パンになる元を作ってくれています。頑張っている音を、聞いてみますか?」

「頑張ってる、音……?」


オルガが顔の側に瓶を寄せてくれたので、二人は両側から耳を近付けた。


シュワシュワと、小さな小さな音が聞こえる。

驚いてよく見れば、液の中に入った小さな丸いものには細かな泡がたくさん付いていていた。

それが弾ける音が、今の音だろうか。


アントニーとエミーリエは、大きく目を見張った。


「生き物が入っているの?」

「はい。見えない小さな小さな生き物が、この中で砂糖を食べて、パンを膨らませる為のガスを作っています」


オルガは、さっき通った発酵器ホイロを指差した。


「今もあそこで、美味しいパンになる為に、パン生地の中で働いているんですよ」


二人は目をまん丸にしたまま、顔を見合わせた。


あんなに美味しくてふかふかのパンも、生き物が作っているの?

そしてそれを、毎日食べているの?




「不思議に思えるかね、二人共」


声を掛けられて、二人は振り返る。

老紳士は優しい目をして、こちらを見ていた。


「はい、おじい様。生き物って、虫や動物だけかと思っていました」


興奮気味にアントニーが答えれば、老紳士はゆっくりと頷いた。


「私達が気付かないだけで、この世界には多くの生き物がいるものだね。もしかしたら、私達が口にするものは、肉や魚だけでなく、野菜や果物、パンだとて、全て生きていたと言っても良いのかもしれないよ、エミーリエ」

「野菜も、果物も……パンも……」


老紳士は杖を持っていない方の手を伸ばし、エミーリエの小さくて柔らかな手を握った。


「それらを口にして美味しいと思う私達は、皆“むごい”ことをしていると思うかね?」




(第三話につづく)

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