第10話 泥沼

 グレンの制止の声は僅かに間に合わず、アリスの魔法は行使されてしまった。

 アリスの目の前、宙に浮き上がった魔法陣から生み出されたのは大量の礫だ。

 一つ一つのサイズは小石ほどではあるが、圧倒的なその密度と量は、黒いつぶての名を冠している通り、黒々と視界を覆う。

 日中に不意打ちを行うには余りにも目立ちすぎるが、夜であればそれは闇に紛れる。それに加えて、礫が生み出されるのは一瞬であり、それが堰を切ったかの様に対象はと射出されるのだ。

 刃竜は辛うじて魔法の存在に気が付いたものの、まともな対応ができる猶予はなく、嵐の様に飛来した礫に飲まれ、その場に大きな土煙が舞った。


「当たった……?」


 魔法はアリスの狙い通り、刃竜を撃ち抜いた様に見えたと言うのに、アリスの声は間違いを犯したかのように震えていた。


 ——何か決定的な間違いを犯してしまった気がする。


 アリスの胸中を占めるのはそんな考えだけだ。

 元々、自分の決断に迷いがあったわけではあったが、それを決定的にしたのはグレンの制止の声だ。

 アリスは何かに縋るような表情で、その声の元へと振り返った。

 振り返った先にいたのは、予想通りグレンであり、その表情はアリスの希望を打ち消すかのように険しいものだった。


「グレンさん、私……」


 様々な感情が込められたその言葉の続きは形にならならず、アリスは目を伏せたまま立ち尽くしている。

 怯えの浮かんだその声と表情には、グレンが初めて彼女と出会った時のような聖女らしさはどこにもない。

 今の彼女の姿は、どこにでもいるようなか弱い一人の少女でしか無かった。

 その一方で、グレン険しい表情をして、刺々しい雰囲気のままゆっくりとアリスの方へと歩みを進める。

 いつもの間にやらその右手には剣が握られていて、その姿にアリスは動揺を隠せず僅かに後ずさる。


「動くな……」


 低く重いグレンの声はアリスに辛うじて届く位の小さな声ではあったが、アリスはその言葉に縛られるように体を固くした。

 そのグレンの姿は、間違いを犯した自分を処罰する死刑執行人の様に見え、アリスは頭の中は恐怖と後悔で一杯になる。

 極度の精神状態からか、周りの音は消えてグレンの足跡のみが大きく聞こえ、視界は狭まりグレンの待つ剣のみがハッキリと見える。

 そして、その剣にはアリスの首を落とすには過剰な魔力が注ぎ込まれているのを見て、痛みを感じずに死ねそうだと、何故だか乾いた笑いが浮かんだ。

 そして、二人の距離が手が届くほどの距離まで近づいた所でグレンは剣を握る手に力を入れ、その足を踏ん張った。


「ッ……」


 逃げることも、抵抗することも考えられなかったアリスは、体にぎゅっと力をいれて、目を強くつむる。そして、ただただ訪れるであろう鉄の冷たさを恐怖の中で待った。


「えっ……」


 そんな中訪れた感触は、思っていたものとは全く異なっていた。

 アリスは強い衝撃とともに、体を押し飛ばされ、まともに受け身をとれないまま、地面に体を打ち付ける。


「なにが起こって……」


 何が起こったのか全く理解できず混乱しているアリスが上体を起こして辺りを見回すと、そこにはマカナウィトルが振り下ろした前足を剣で受け止めているグレンの姿があった。

 受け止めている、とは言ってもグレンの体勢は崩れていて、このままだと押し負けるのは明白だった。

 とりあえず、グレンを救わなければとアリスはすぐに魔法を行使する。


「『風よ』」


 無詠唱で放たれたアリスの魔法を刃竜は後方に大きく飛び退くことで回避し、その瞬間にグレンもアリスの方へと退避する。


「目くらましの魔法を!」


 そして、グレンは間髪いれずアリスに指示を飛ばし、アリスはすぐさま土煙を巻き上げる魔法を使う


「『砂塵』」


 魔法の行使と共に強烈な風が舞い上がるように吹き上がり、辺りに土埃は巻き散らかす。


「『影隠れ』」


 グレンもその魔法に合わせるようにして、隠密系の魔法を使うと、アリスへと駆け寄ってその手を取り引っ張り上げて立たせる。


「行くぞ!」


「は、はい」


 駆け出したグレンの後を、アリスは慌てて追った。

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