第2話◇謹慎◇
「あら、明子さんどうしたの?」
涼子の顔を見たとたん明子の涙は止まらなくなった。
「先生。」
明子は、涼子の胸に抱きついた。
「何があったの?」
涼子は明子の肩を抱いて事務所に導いた。明子は導かれるまま、店の奥にある六畳ほどの事務所の応接セットのソファーに腰を下ろした。一息ついて事務所の時計に目をやると三時前だった。
「すみません。急に来て。」
「大丈夫よ。明子さんこそ大丈夫?」
涼子は、明子の横に座って、ハーブティーをテーブルの上に置いた。明子の背中をさすってくれた。張りつめていたものが溢れてきてまた涙が出た。涼子は言葉なくただ背中をさすってくれた。しばらくしてようやく涙が止まり、ハーブティーを一口飲んで事情を説明した。
「浩一がまたやらかしたんですよ。」
「何?借金?」
明子がユーカリ薬局で働き出してから十年になる。ユーカリ薬局は、薬剤師の涼子五十八歳が一人で経営している。明子は午前中だけパートに行っていた。涼子は十年程前に夫を亡くし、認知症で寝たきりの実母の面倒を看ながら一人で薬局を経営していた。息子は二人いるが二人とも県外にいた。十五年程店舗兼自宅で介護をしていた涼子の実母は二年前に他界し、涼子は一人で暮らしていた。明子は最初ユーカリ薬局のお客さんだった。二、三年定期的に通うようになり親しくなった頃、涼子の実母の認知症が悪化し、一人で店を切り盛りするのが難しくなったようで、パートに来てもらえないかと頼まれたのだ。その頃子供がまだ小学生で専業主婦だったので、明子は、事務と雑用を手伝う事になり、週四回午前中に、ユーカリ薬局で働くようになったのだ。それから十年、長女理沙が不登校になり学校を辞めたり、浩一の借金や女性関係など何かあると悩みを聞いて貰っていたので、涼子は明子の家の内情を良く知っていた。
「のぞきです。」
「のぞき?」
「今日、家に帰ったら浩一がいるのですよ。帰るなんて何も言ってなかったし平日なのにおかしいなと思って家に入ったら、マロンを抱いて放心状態でソファーに座っているんですよ。」
「うんうん。」
涼子は相槌を打った。
「のぞきをして見つかって謹慎になったって言うんですよ。」
「謹慎?いつまで?」
「それがわからないのですよ。何を聞いてもボーッとして。マロンを抱いたままリビングのソファーに座って「わからん。」としか言わないのです。どうしたら良いかく解らなくて。家には大介がいるので、込み入ったことも聞きにくいし、浩一の顔を見ているのが嫌で取りあえず出て来たんですけど、いつの間にか先生の所に来てました。」
「それは、大変やったね。びっくりしたよねえ。でも、あなたがしっかりしないとだめよ。あなたが会社に行って聞いてきた方がいいんじゃないの?事情が分からないと打つ手もないじゃないの。このままクビにでもなったら大変よ。大介君も大学へ行く事だし。今ならできることがあるかもしれないよ。」
「そうですね。私が動いた方がいいかもしれません。泣いている場合じゃないですよね。浩一はあてにならないのです。いつも偉そうなのに。」
明子はバッグからハンカチを出して涙を拭いた。
「男ってそんなものかも。普段偉そうでもいざとなると度胸がないよね。解雇が決まってからじゃ遅いもの。今、セクハラには会社も社会も敏感だから。誰か会社に知り合いはいないの?旦那の友達とか?」
「私、昔浩一の会社に勤めていたのですけど、その時の上司が、今、所長なんですよ。」
「そうなの。その人に連絡とってどうしたらよいか聞いてみた方がいいんじゃあないの?
旦那がどうしようもないなら。早い方が良いと思う。」
涼子の言葉に明子は俄然元気が出て来た。そうだ。泣いている場合ではないのだ。理沙と大介と家のローンの為に何とかしないといけない。
涼子は、明子が勤める少し前に夫を亡くしていた。長男の高志は、松山のコンピューター関係の会社に就職し、結婚していて子供が二人いた。次男誠は電気工事会社に勤務していた。
明子は、涼子を尊敬し頼りにしていた。明子に姉と弟がいたが二人とも県外に住んでいた。同じ敷地内にある家に実母の里子がいたが、「浩一がのぞきをしてクビになりそうだ。」、と、言う気にならなかった。明子は涼子に的確なアドバイスを貰って相談してよかったと思った。
「涼子さんありがとうございます。そうですよね。私がしっかりしないといけませんよね。クビになったら退職金も出ないのだから。所長に連絡とってみます。」
明子は、テーブルに置かれたお茶を飲み干すと立ち上がった。
「そうよ。クビと依願退職じゃ全然違うよ。やれることはやらないと。」
「また相談に乗って下さい。」
「用事がある時は休んでいいから。今が正念場よ。」
「わかりました。」
明子は、来た時より別人の様に元気が出てこれから起こるであろう予想もつかない困難な出来事に立ち向かえる気がした。明子は、ユーカリ薬局を出ると,十分ほどで自宅に戻り、駐車場に車を停めると、バッグの中から携帯電話を取り出した。電話帳のボタンを押し、山田武夫と入力した。山田は明子が入社した当時の上司で今は所長で浩一の直属の上司だった。中元や歳暮を贈っていたので電話番号を知っていたのだ。車の時計を見ると五時が近かった。家の中には浩一と大介がいるし、理沙もそろそろ帰ってくるかもしれない。明子は、大きく息を吸い、勢い良く吐き出した
「しっかりしなきゃ。」
自分に気合を入れ、緊張と不安で高鳴る鼓動を押さえ、電話番号ボタンを押した。「出て。」という気持ちと「出ないで。」という気持ちが交錯した。五回ほどのコール音の後、懐かしく聞き覚えのある山田の声がした。
「山田です。」
明子は名乗った。
「お久しぶりです。坂本明子です。坂本浩一の家内です。」
しばらくの沈黙の後山田が答えた。
「明子ちゃん。」
山田の懐かしい声を聞くとほっとした。
「ご無沙汰しています。この度は浩一がご迷惑掛けてすみません。」
「そうなんよ。大変なことになったね。」
「浩一に、事情を聞いても、わからんって言うばかりでらちが明かないんで山田さんにお聞きしようと思って電話したのです。すみません急に。」
「いや、ええよ。僕もびっくりよ。被害者の女の子が僕をとばして部長に言うたみたいで。今この手の話は会社も敏感で、松山の本社に伝わってしまって。僕じゃどうにもならんのよ。」
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