アラフィフの扉

@kondourika

第1話◇アラフィフの扉◇

 平成二十九年三月二十四日金曜日、坂本明子は勤め先の「ユーカリ薬局」から自宅に戻った。今日は午前中までの勤務だった。自宅に帰ると玄関先の駐車場に夫浩一の車が停まっていた。

「なんで浩一が帰っているのだろう?」

 浩一は、ひまわり生命保険会社に勤めていて二年前から四国中央市に単身赴任中だった。週末には帰ってくることが多いが、今日は金曜日だった。

「今日帰って来るって言っていたっけ?」

 明子は、車を停めると家に入った。玄関の先のリビングに入ると、浩一がソファーに座って、トイプードルのマロンを抱いてテレビを観ていたが目線は宙を見ていた。いつもとは違うただならぬ浩一の様子に違和感を覚えた。「何かあったのかな。」と、直感が働いた。明子は浩一に恐る恐る声を掛けた。

「どうしたの?なんで帰っているの?」

 明子の声が聞こえたのか聞こえないのか、明子に気付いていないかのように浩一は返事をしなかった。反応のない浩一に取り合わず。明子がリビングを立ち去ろうとすると浩一は弱弱しい声で明子の背中に言った。

「会社から家に帰れって言われた。」

 明子は、足を止めて振り返った。

「えっ?どういう事?」

 しばらく沈黙の後、浩一が言った。

「のぞきがばれた。」

 明子は、浩一の発した言葉がすぐには理解できなかった。

「のぞき?ってどういう事?」

明子は浩一の座っているリビングのソファーの横に座り、お笑い芸人が騒々しくしゃべっているテレビ番組を消し、浩一の横顔に努めて冷静を保って言った。

「どう言う事なの?」

 浩一は明子の方を見ずにマロンを抱き寄せた。

 明子は、信じられない事を言う浩一を呆然と見つめていた。どのくらい時間が流れただろう。浩一と明子の間の凍り付いた空気を察したのかマロンの吠える声が打ち砕いた。

「あんたのぞきなんかしていたの?どういう事なのかわかるように説明してよ。」

 予想もしなかった出来事に平静を保てなくなった明子は語気を強くして言った。明子の強く大きな声に驚いたのか浩一の膝に抱かれていたマロンが膝から降り、明子の膝に乗った。明子は、怒りがこみ上げるというよりあきれ果てて、体が凍り付くのを感じた。明子はマロンを床に置いた。マロンはまた浩一の膝に戻った。

「女子トイレをのぞきよったのを会社の女の子に見つかって。上司に言うたらしい。」

 明子は浩一の一言一句をかみしめるように聞きながら現実で無い事を祈った。

「携帯取り上げられて、調べるって。謹慎しとけって。」

 予想もできない現実が突然明子の目の前に立ちはだかった。魂を抜かれたような浩一を呆然と見ていた。浩一は、今年五十一歳、保険会社に勤めていて、有能とは言えないがそれなりに地位も給料も上がっていた。転勤も多く、周りは女子社員ばかりなので、浮気をしているかもしれないという思いはあった。もしそうだとしても、給料をきちんと入れてくれれば良いと思っていた。ギャンブル好きでカッコつけたがりの浩一は、高価な自転車やゴルフ道具などの買い物をしては請求書が明子に回ってきた。単身赴任先から時々帰ってきても留守を守っている明子をねぎらうでもなく、料理を作ってやっても美味しいとも言わず、もちろん夜の営みも何年も無かった。夫婦の間は冷めていた。問題ありな夫だったので、何かやらかしても不思議ではなかったが、「のぞき」とはさすがにショックだった。

「ほんとに、のそきしたの?」

 浩一は頷いた。

「家のローンはどうなるんだろう?」浩一が家を欲しいというので、愛媛県今治市の郊外に浩一の定年でローンが終わるように借金をして家を建てたのでまだ十年近く残っていた。携帯を取られて即刻自宅謹慎という事はつまり「クビ」という事なのだろうか。という事は、この家には住めなくなるのだろうか。五十一歳でセクハラでクビになった浩一を雇ってくれるところなどあるのだろうか。今治にいて噂は広がらないだろうか。明子のパートの収入では到底ローンの支払いなど無理だ。次から次へ不安が巡り、頭が張り裂けそうになった。明子は今年四十九歳。今まで順調とはいえないまでも生活の苦労はなかった。浩一は夫としてはお世辞にも良いとは言い難かったが、給料は世間並みに貰っていたので、借金をして家を建てたのだ。まさか、こんな事をしでかすとは予想できなかった。明子は息苦しさを覚え台所のシンクに頭を突っ込んで嗚咽した。シンクの中に転がっていたグラスに勢いよく水を入れて喉の奥に流し込んだ。

「会社をクビになるって事なの?」

 明子は努めて冷静を装って浩一の方を見て静かに聞いた。浩一は、相変わらずマロンを抱いたまま言った。

「わからん。」

「わからん言うても。この先どうするの?今やったら何とかならないの?」

「わからん。」

「例えば、相手の女の子に示談を持ち掛けるとか。」

「わからん。」

「上司にうちの事情を説明するとか。息子が大学へ行くから辞めるわけにはいかないとか。」

 浩一は黙っていた。明子は放心状態の浩一に何を言ってもダメだと悟った。浩一と一緒にここに居ても、らちが明かない。明子は帰ってきた時に、ソファーの脇に置いたバッグを持ち、とりあえず家を出て車に乗った。あてどもなく車を走らせた。とにかく浩一のいる家から離れたかった。というより信じがたい現実から一時的にでも逃げたかったのだ。車から見える過ぎ行く景色は今朝と同じなのに、自分の状況は百八十度変わってしまった。どうしたらよいのだろう。のぞきがばれて即刻謹慎という事態は良い方向へ進みそうもない。携帯に証拠画像が残っていたら、刑事事件になって逮捕されるかもしれない。そうなると、今の家には居られなくなるかもしれない。負の憶測が次から次へと湧いてきた。

 明子と浩一の間には二十三歳になる長女理沙と、十八歳長男大介の二人の子供がいた。理沙は、高校を卒業して派遣社員として働いていた。大介は、広島の大学に進学が決まり、夢を膨らませ四月からの大学生活を楽しみにしていた。今更進学を諦めろなどと言えるはずもない。入学金も授業料も払っていたし下宿も決まり引っ越しも間近だった。明子はどこをどうやって走ったのか覚えていなかったが、気が付くとさっきまで勤務していたユーカリ薬局の前に来ていた。店にはお客さんは来ていなかった。しばらく店の様子をうかがい、駐車場に車を停めて店に入った。来客を告げるチャイムと共に「はーい」と、ユーカリ薬局の経営者、森涼子の馴染み深い高い声が聞こえた。涼子の声を聞くと明子の目から涙が流れ落ちた。入り口に立ち尽くしていると、店に出て来た涼子は明子のただならぬ様子に気付き近づいてきた。

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