第25話「スイカです/花火大会です」
空気と水の境目が曖昧になったように、何の抵抗もなく浮遊している。
己を見つめ直す時間というのは、こういう場面のことを指すのだろうか。
不思議なことに、海に浮かんでいると、自分の存在が軽くなる。胸が大きく膨らんで、空気を大きく吸い込むと、それがまるで支えになっているかのように感じる。身体が水を押し返す力、つまり浮力が作用しているのだとわかっていても、それはまるで自然の一部であるかのように、無意識に身を任せていた。
広大な空間に、ただ一人、こうも贅沢な時間を過ごせるのは、動画を視聴するだけでは得られないものがある。波打つ感覚に身を委ねる。これこそアウトドア派の特権。
波紋が波紋を呼ぶ、その波紋が波紋を呼ぶ。水切り音が静寂を切り裂き、思わず瞼を開ける。
すると、水の中から手が伸びてきた。
心霊現象顔負けの光景に、叫び声を上げようとしたが、その見覚えのある姿に、思わず口を噤んだ。
水の中から現れた手は、私の腕を掴むなり、情けない顔を露わにする。
「俺、俺泳げねぇって言ったよなぁ?!」
「言われてませんよ?!浮き輪なり何なり持ってくれば良かったじゃないですか」
「男が腰に浮き輪あったらだっせぇだろうがよ!」
水面に顔を近づけると、薄い波紋が広がり、海人の顔がその上に浮かぶ。
のちに、余裕の笑みを張り付けたその顔が、深海の中では無意味だということを
次の瞬間に思い知ることになる―――
「死ぬかと思った…」
膝に手をつき、肩で息をする海人。砂浜に上がり、タオルを頭にかけると、頬を綻ばせる。
冴えない顔色に思わず笑いが止まらない。
だって、あんなにも自信気だった海人が、いざという時には女である私の腕を引っ張る始末。
これが面白くなくて、何だと言うのだろう。
溢れる涙を指先で拭うと、海人が視線を泳がせ顔を火照らせる。
「うるせぇうるせぇ!出来ないことは恥ずかしがることじゃあぁねぇ!
本当に恥ずかしい奴ってのは、自分が出来ないのに笑う奴のことだ!」
「見栄を張ることは、恥ずかしい行為ではないのでしょうか」
尖らせた口は、今では緩めること無い。唯一の出来ることと言えば、笑みを浮かべるのみ。
勝利に満ちた笑みを浮かべていると、冷たい脚を誇示するように地面を踏みしめる。
硬直状態が場を静寂に陥れ、取っ組み合いになるまで今か今かと待ち望んでいる。
緊迫した空間を切り裂くかの如く一つの声がこだまする。
「何遊んでんだ、もうスイカ割りの準備出来てんぞぉ」
「遊んでねぇから!ってか、スイカ割り?」
辺りを見渡し、声のする方へ視線を向けると
ボール一つ分はあるであろう緑を黒の縞々模様を身に纏った巨体が視界に飛び込んだ。
私と海人は視線を合わせるなり、小走りで二人の元へと駆け寄る。
「俺スイカ割りするってきぃてねぇぞ?」
「あぁ、こーいうサプライズ要素も必要かと思ってな」
言い終わるや否や視界が黒に包まれる。
目元には肌触りの良い、何か布のようなものが巻き付けられている。これでは何も見えない。視界は遮られ、他器官で情報を取り入れている。
暗闇というのは、不安を煽る他、幾ら強靭な肉体を持っているとしても、根源的な恐怖感が身の毛もよだつ。
思わず肩を震わせてしまうと、続いて海斗の声が響く。
「へぇ、風情だねぇ。ほら、いったいった」
「右」「左」などと単語が飛び交う中、指示を仰いで、前に歩む。
視覚情報の遮断は想像以上に効果を示す。
足元が見えない。いつ石ころにつまずいてしまうかわからない恐怖心に駆られ、足取りがおぼつかなくなる。
突如として襲いかかる浮遊感に身を委ねる他無いだろう。
足を挫くかもしれない。大怪我をしてしまうかもしれない。
そんな不安が脳裏をよぎるも、やはり自然の力というものは偉大なもので、身体は自然と地面へと吸い寄せられる。
「だから右だって!」
「そんな単語一つで言われても分かりませんよ!斜めも追加してください!
無理です!絶対無理!」
元来、このような形で騒ぎ立てるのが醍醐味なのだろう。必死の泣き言も虚しく、誰も助け舟を出してくれることは無い。
恐怖心は絶頂に達して、いい加減な場所に、力いっぱいに棒きれを振るう。砂埃が舞い散り、視界を奪う。
その矢先に空を切る音が耳に入る。棒は虚空を裂き止まったまま、微動だにしない。
空洞化した空間に声は響き渡り、波紋のように広がっていく。
布をほどくと、砂煙が舞い上がり、同じくして視界が鮮明さを取り戻す。
目の前には、高坂一家が口をあんぐりと開けている。
何か言いたげな顔でため息を吐き出すと、その視線をスイカへと向ける。
すると、そこには真っ二つに割れたスイカが転がっているではないか。
「ず、随分力の強い子だこと…」
――色鮮やかになスイカが顔を出す。
手に取り、一思いにかぶりつくと、口いっぱいに甘みが広がっていく。
噛むごとに水分が舌の上から滴り落ちる。種を吐き捨てて、もう一口頬張ると、また新たな種が姿を見せた。
必死の叫びで枯れた喉が潤いを取り戻す。
その瞬間、冷たくて甘いスイカが、まるで渇いた大地に降り注ぐ雨のように、命を吹き込んでくれる。
「っと、結構暗くなってきたな…」
海斗がそう呟くと、辺りは暗闇に包まれていた。
空一面に星屑が散りばめられている。命の灯火のように儚く、しかし力強く輝いている。
月光に照らされる海人の横顔を盗み見ながらスイカを口へと運ぶ。
「よし、最後の締めだ!」
途端、拓海は懐から何かを取り出す。
慣れた手つきで先端に火を付けると、微かな火花の音と共に、煙が上がる。
俗にいう「線香花火」というやつだ。煙たい匂いが充満するが、不思議と悪い気はしない。
円状に広がる火は、儚く散りゆく。…ふと、一日を振り返ってみた。
海に行って、スイカ割りをして、花火を見て…心の底から楽しいと思える日。
セシリアがいたら、もっと楽しかっただろうな。
考えないようにしていたが、辛いものは辛い。あれからだ、私が無気力に日々を生きるようになったのは。
「寂しくなるなぁ」
涙ぐむ私を背に、海人がそう呟く。思っていたことが、口を突いて出たのだろう。
「辛くなった時、苦しいと少しでも思ったとき、誰かにその思いを伝えろ。
お前がそんなんだと、他の誰かが悲しい思いをすることになるからな」
「誰かって、誰ですか」
「言わせんなよ恥ずかしい」
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