第4話 正夢

『え…?妻が!?』

私はパニックに陥った。

と同時に"権現さま"が何かしたのではないかと。

馬鹿馬鹿しく聞こえるかも知れないが

それ程に夢の中の"それ"にはリアリティがあり

現実なのではないかと思う程だった。


私はすぐさま荷物をまとめ、女将さんに話し、

ありったけのお金を渡し、宿を飛び出した。

事前に携帯や住所などを伝えていたので

『もし足りなかったら連絡して下さい!』と言った。宿泊費をまとめて貰う暇も、お金を数える暇も惜しい。それ程逼迫していた。

女将さんが宿の前でこちらに何か叫んでいるが、あまり耳に入らない。きっと容体が分かれば連絡をーと言う事だろうと解釈し、


『必ず!』とだけ叫び、走り続けた。

道中、絵の具や筆を入れているスケッチボックスが鞄から飛び出し、蓋が開き、中身が地面に散乱した。

そのまま捨て置くか、拾うか、迷ったが

車道にまで転がっていたので拾う事にした。

しゃがみ込み、拾う。ふと前を向くと。

いつも枝垂れ桜に向かう時に曲がる別れ道だった。その道の先に目を凝らしていると…


あの桜の絵が完成していない事に気付く。

ーー何を考えているんだ私は!

妻が大変な時に…!!

自らの身勝手な考えに苛立つ。

しかし…何故か描き切らねばならない、あの場所に行かなければいけない。そう強く思う。

次第に怒りより強まる思いに歯止めが効かなくなった。いつの間にかゴロゴロとキャリーバックを転がし、桜の木に向かい歩き始めていた。


道中、何度となく戻り、バスに乗ろうと考えるが足は前に進み、戻れない。


そう、まるであの夢の中の様にーー


遂に辿り着いてしまった。

桜は、花が散るのを進め、少しづつ痩せて来ていた。ーー悲しい宿命だ。

こんな時に、最愛の妻が倒れ、病院に担ぎ込まれたという時に…題材を前に、心が、体が集中し、絵を描く姿勢になっていた。

聴覚を失う。視野も狭まり、このキャンパスに収まるもの意外は何も見えなくなっていた。

一方で指先の感覚は鋭い。色を絞る時も、筆に付ける時も、キャンパスをなぞる細やかな感覚も、全てを感じとっていた。

かつて、これ程までの境地に入った事があっただろうか、とその時を振り返り思う。


ーーいや。無い。それ程に"無"であった。


程なくして描き上がった。

私は疲れ果て、空を仰ぐ。

日は沈み、闇に包まれていた。

ーー溢れる涙が止まらない。

私は、妻をも犠牲にし、絵を描いたのだ。

大した稼ぎもなく、楽もさせてやれない。

画家としても大きな賞すら得れず、そんな不甲斐ない男を献身的に支えてくれた妻すら大事に出来ないのか。あまりにも情け無く、妻への罪悪感から泣き続けた。


どれぐらい泣いただろうか。

妻にもしもの事があったらとパニックになりかけながら、何とか自分を保ち、夜を明かす術を模索する。とにかく、ここを離れバス停に行こう。始発…という時間では無いが、朝イチの便に乗り、出来る限り早く辿り着ける様にと考えた。荷物をまとめ、バス停のある方に歩き出す。


気が付かなかったが、霧が立ち込め始めていた。自らへの落胆と罪悪感から、気にもせず歩き続けた。


ふと気付くと、森の中に居た。

おかしい。桜の木からバス停までの間

森の中を通る事など無いのだ。

我に返り、驚愕した。


『こ、この道は…』

恐怖に苛まれながら、つぶやいた。

ーーそう。夢の中のあの道なのだ。

荷物を置き、腕をつねる。

痛い。夢ではない。


ーーー。


呼ばれている。聞こえないが、感覚がそう反応している。恐る恐る、歩き始める。

何故、恐怖心を抱きながら歩けるのか。

好奇心からか、それとも心の隅にある疑問からか。分からないが、歩き続けていた。


暫く歩くと…やはり夢のままだ。

茅葺き屋根の屋敷が目の前に現れた。

頭がどうにかなりそうだった。

頭を掻きむしりながら叫んでしまいたい程に。

完全にパニック状態だ。動悸がし、息は乱れ、心は恐怖が支配していた。全身が震え、立っていられない程。だが、扉を開いた。

自ら開けたのか、開けさせられたのか。

一歩進む事に崩れ落ちそうになりながら、震える足を進め、中に入ってしまう。

首は動かず、前しか見れないが、横目で見渡す。

やはり釜戸があった。奥の居住区の四隅には行灯の蝋燭の火が揺らめいている。


ならば、と目を凝らすとーーー


居る。奴だ。正夢になってしまった。


『私の妻に何をした!!』

気が付けば私は,叫んでいた。

これまで見続けた夢では、"彼"が話し出す瞬間に目が覚めていたが、最後に見た夢、つまり昨日の夢の中ではこちらから話かけようとした。

もっとも、内容は全く違う問いであったのだが。奴の姿を目にした途端、怒りに身を任せていたのだ。


『…ふっ。何もしておらぬ。』

ーー意外だった。明らかに人とは違う雰囲気を持ち、異形でしかない者の声は

聞き通しの良い、聡明で、繊細で。優しさすら感じる。そんな声だった。


呆気に取られかけたが、尚怒りに任せ

『そ、そんな筈はない!!でなければ何故私の妻は』

叫ぶ私の声を押さえつけるかの様に


『座られよ。』と一言だけ放った。

叫び声より大きな声を出した様にないのだが、

耳元で話しかけられた様な感じがした。

我に返った。ーーこれが妖の力か。

良いだろう。もう私には失うものなどない。

妻すら裏切った私だ。食うなら食え!


そう思いつつ、段の上にある畳の上に登った。

囲炉裏の前、私側に座布団が敷かれてある。

囲炉裏を挟み、奴もまた、座布団に頓挫している。

どかっと乱暴な振る舞いで座った。

こんな風に振る舞ったのは人生初めてであったろう。


奴が俯いた様な動きをした。

『ふふふ。…履き物は脱いで頂きたい。』


ーーあっ。


虚勢を張りつつ、開き直った私は靴を脱がずに

畳の上に上がっていたのだ。慌てて下がり、靴を脱ぐ。背中越しに声が聞こえた。


『くっくっ。貴様を食ろうても美味い筈もあるまいて。相変わらずよのぅ。』

小さな声だが、はっきり聞こえた。

思い出した。そもそも奴は、私は、互いを見知っていたのだ。急いで向き直り、座布団に正座し、問い詰めた。

『あなたは私を知っている。そして私もあなたを知っている。しかし思い出せない。いつ?どこで?あなたは何者だ!?』

焦り口調になり、早口で問うと


『慌てるでない。そうもいくつもの事柄を問われても、すぐ様答えようもあらぬであろう?』

まるで昔の人の様な口調だ。だが、確かにそうだ。


『先ず、互いを知っておるであろうとの問いだが。』


固唾を飲んだ。


『答えられぬ。いや、正確には答えようとしても声が出んのだ。どうもそういう風になっておるようだ。』


意味が分からない。その気持ちが顔にも出ていたのだろう。


『ふむ。では話してみよう。我とお主が何故互いを知っておるか。それはーーーーなのだ。』


おかしい。それは の先が聞こえない。


『聞こえたか?』

『いや、聞こえない。』

『やはり、の。それについては伝えられぬ様になっておるのであろう。』

『そんな馬鹿な。何故!』

『ふーむ。なにゆえであろうかの。』


ギョッとした。顎に手をやる仕草をしたのだが

その手は細く、真っ黒なのが焚き火のオレンジに照らされていても分かるのだ。

私は『そもそも、喋っていないのでは?顔を見せろ!』と言った。


『ふむ。…くくっ。腰を抜かすでないぞ。』

と言い、纏った衣を剥いだ。


ーーー!!……猫だ。いや黒豹か!?!?

とにかく、目の前にある姿はネコ科の見た目だった。それが知的を感じさせる振る舞いをし、人語を放っているのだ!!


驚きのあまり、声も出さず、目を剥き出しにし

呆然とする私を尻目に


『我とお主が見知っておるのは、ーーーー。聞こえたか?』ともう一度言った。

確かに、口は動いていた。しかし、肝心な部分はやはり聞こえない。


私はただ、首を左右に振り、聞こえていない事を身振りで伝えた。


『さもあろう。なれば諦められよ。それで次だが、我についてであったの。』続けて

『我は打餓鬼(だがき)と呼ばれし者。近頃は地名に因み、権現(ごんげん)と呼ぶ方が馴染みがあろうか。名はー…いくつもある故、後々にしよう。』

地名からつけられたであろう"権現"は分かる。

だが『打餓鬼とは?』と私は聞いた。


『これが由来であろう』

下を見た彼の手には、三線?三味線?…とにかく古来よりある和楽器を抱えていた。

『それは…?』と問う私に

『これは津軽三味線と言うてな。他の三線や三味線と違い、これは打ち鳴らす、謂わば打楽器なのだ。三味線をひたすら打ち鳴らす妖…皮肉をこめ、打餓鬼とあだ名したのであろう。』


駄洒落の様だと不謹慎にも思ってしまった。


すると打餓鬼はピクっとし

『失敬ではあるまいか?』と睨め付けて来た。


怯えた。心が読まれていたからである。

気が付かなかったが、最初からそうだった。

そんな私を見て、憤慨した様子で

『ふん。他に聞く事はあるまいか?』と逆に問われた。


『なぜ、私を呼んだのですか?』

『おぉ。分かっておったのか。』

茶化された様に感じ、

『答えてください』と強めの口調で言った。


『…会いたかったからである。』

そう言った彼の顔は生涯忘れないだろう。

誰よりも会いたかった愛しい人を前にした様な、やっと会えたと安心した様な、優しく澄んだ目を緩ませ、人とは違うその姿ですら、笑っているのがハッキリと分かった。


本心なのだろう。

怒りは消え、会話を交わす内に

彼が妻に何かする訳はないと確信していた。

そうすると、やはり互いの関係性が気になってしまう。


打餓鬼は

『…少し我の昔話をしよう。さすれば、互いの立場がハッキリするかも知れぬ。』


私は意気揚々とした。すると、


『だが!貴様には我の生において、未だ我を苦しめる物事について答えてもらう。その問い

かけを受けた貴様は精神を蝕み、廃人と化すやも知れぬ。それでもよいと申すのであらば、話そう。…どうじゃ?』


冗談じゃない。確かに気にはなる。

だが、もし間違えたら頭がおかしくなるのだろう?そこまでして知りたくはない。

断ろう、と思ったが…その後どうなるのか。

最早、ここにいる事に意味はない。

だったら喰われてしまうのか。そんな風にあれこれ考えていると


『…いうたであろう。何もせぬ。全ては貴様次第じゃ。』悲しげに聞こえた。

まるで過去で過ちをし、それを悔やみ、その呪縛に囚われ続けている様だった。


…妖が悔やんだりするものだろうか?

しかし、目の前にいるこの妖は、どうもその様に見える。救えるとは思わない。そもそも、救いたいと思う様な内容かも分からない。


だが、その昔話に、私が関係しているのだろう気がした。いや…もしかしたら。

確信が持てずにいたが、ある思考が過り、私はそれの答え合わせがしたかった。

決して軽率なつもりは無かったが…軽率だったと後悔することになってしまった。


『…聞きましょう。』

そういうと、"彼"は話し始めたーー

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る