第3話 権現さま

暫く思い耽っていたが、考える事をやめ

女将さんに頼み、風呂を沸かして貰い入る事にした。


絵を描く時。


例え家を出ない日でも朝風呂は欠かさない。

絵を描くにあたって重要な要素とは"気分"だ。

心が真っ直ぐ、1枚の紙に向かっている事。

その為には、寝汗で濡れた体など以ての外である。他の事に思念することも。

例えば、感情。これは一見、作品を生むために

重要なものの様に思うかも知れないが

私にとっては邪魔なものだ。気分が大切とは言ったが、"気分"とは感情という概念とは別ものだ。

感情は心を乱し作品に多大なる影響を与える。それは良くもあり、悪くもある。

心を空っぽにし、絵を描く。

人によっては、感情の無い作品など、ただ目にしたものを描いただけと言うだろう。心のない作品だと決め付け、価値のないものだとも言うだろう。

しかし、"無"であるが故に普段見えない色が見える。それはきっと、私ではなく風景の中にある、例えば、花の心。木の心。大地や空の心。

日によって状況によって変化するそれぞれの気分が見える。様な気がする。

自分ではなく、"相手"のあるがままを表現する。

私にとっては、これこそが芸術であると言い切れる。

朝風呂云々ではなく、この"気分"というもの。

それは全ての芸術家に等しく通ずるものではないかと思う。


その境地を求めるが為に、他を疎かにしてしまう。それが為に孤独である人が多いとも。

だからこそ、妻に出会えた私は運が良いと感じている。"運が良い"と言う表現が適切かは分からないが。


さて、風呂が沸いた様なので入るとしよう。


朝も柑橘系の果物が湯に浸かっている。

何だ、先客が居たのか。ふざけた思考を巡らしながら湯に浸かる。何とも贅沢だ。

柑橘類のシトラスの香りには不安や緊張を和らげる効果があると聞く。

そして皮に含まれる"リモネン"という成分によって肌に膜を張り、湯冷めしにくくなるそうだ。

体の調子が良くなり心が整っていく…

今正に、大作を描こうとする私にとって、

これ以上ない程の環境だ。


風呂に上がり、用意を整え、

帰る時間をある程度伝え宿を出る。

室内で描くならば、時間に縛られることもないのだが、野外ではそうもいかない。

暗くなり、手元が見えなくなると流石に我に帰る事が出来るため、普段から妻は外で描く事を勧めるのだろう。


手に絵を描く為の道具を抱え、山道をひたすら歩く。着いた時、あれ程苦にした道が、まるで競技用のトラックを歩いているかの様に感じる。気分が一点に集中している証だ。

きっと全てを終え家路を目指す時は、あの苦道に戻っているのだろう。私は苦笑した。


宿から小一時間はかかったであろう道のりは

体感では15分程度に感じていた。


『おぉ…』


私は驚嘆の声を漏らした。

現実に目の前にある桜は、TVで観たそれとは

全くの別物かと思う程に圧巻で、その存在感は

自分という人間がちっぽけな存在である事に気付くには充分過ぎる程だった。

その美しさに見惚れると共に、雑念は消えていた。風の音も、鳥のさえずりも、木々のささやきさえも聞こえなくなっていた。


音のない世界の中で用意をし、筆を執る。

真っ白なキャンパスに息吹を与える様に、

絵に生命を吹き込む様に。

その間だけはまるで神にでもなったかの様な気分で、全身全霊を込めて描く。

時間の概念もない。自分以外誰もいない。

いや、居ても気付かないだろう。

ただひたすらに輪郭をなぞり

一枚一枚の花びらに色を塗り込む。

己と会話する訳でもなく、思考を巡らす事もせず、ただただひたすらに…。


そうして1枚の作品が出来上がった。

日は暮れかけ、周囲は少しずつ闇に包まれつつあった。ヒンヤリとした風を感じ、急ぎ目に帰り支度を始めた。

作品自体は、悪くはない。だが何か物足りなさを感じる。色なのか、輪郭なのか…

とにかく"足りない"と分かっているもので満足は出来ない。また明日だ。


宿に戻る頃にはすっかり日も暮れ、危うく迷うところであった。文明のない時代であったら

辿り着けなかっただろう。

部屋に荷物を置き、風呂を浴び、夕食を取る。

今日もまた豪勢な食事に感謝だ。

朝、家を出た時から時計を見ていなかったので

正確には分からないが、午前の内に着き、夕方まで、昼食も休憩も取らず書き続けた為、やはり体はヘトヘトだ。女将さんと軽くお喋りをし

早々と寝床に着いた。


ーー同じ夢だ。


霧がかった森の中に立っている。

何も見えない中、迷う事なく進む。

『そろそろか。』そう思ったとき、

茅葺き屋根の屋敷が目の前に現れた。

扉を開く。右手に釜戸。正面には部屋があり

四隅には行灯の蝋燭の火が揺らめいている。

中央に目をやり、囲炉裏の奥を凝視すると

影が見えた。顔は見えないが、その姿形だけで

この者を見知っていると感じる。

そしてまた、その者が"喋る!"と感じ、身構えた時、目が覚めた。


締め切ったカーテンの隙間から光が入る。

今日もまた寝汗でびしょびしょだ。


ーー偶然ではない。


確信はないが、そうとしか思えなかった。


朝風呂を頼み、寝汗を流し、支度をする。

この日も午前の内に着き、夕方まで描く。

完成した絵は、見た目には不備は無い。

しかしやはり、"何か"が足りなかった。

何が足りないのか、理由が分からずモヤモヤする。また明日だ。そう言い聞かせ帰り支度を整える。宿の風呂と食事は日替わりだが、

それ以外は毎日同じ繰り返し。

そう。あの夢すらも。ここに来て以降、毎日見るのだ。


何を意味しているのだろう。

考えても答えは出ないが、考えてしまう。

色を少し変えたり、描写する角度を変えてみたり、筆を変えてみたりしたが、何も変わらない。足りないままだ。


気が付けば、ここに来てから1週間ばかり経っていた。雨の日、絵を描きには行けない為、宿に籠る。何枚も描いた景色は最早鮮明に頭の中に記憶していて、行かずとも描く事は出来る。

しかし、桜の花が咲く期間は短い為、日に日に散る。日替わりで微妙に変わる姿を描く事をすべきだと思った。

傘を差し、桜の木の元に行き、写真を撮った。

それを持ち帰り、女将さんに許可を得て、汚さない様、部屋を養生し筆を取る。

1日すら無駄にしたくなかったのだ。


しかしやはり集中し切れない。

仕方なく一度筆を置いた。

丁度その時、部屋の襖向こうから声がかかる。女将さんがお茶を持って来てくれたのだ。

絵に気が乗らない為、気分転換も兼ねて有り難く頂く。自らの出自や妻の事、世間話をしていた時、この村の話に差し掛かったので

私はあの"夢"について話す事にした。


一通り話し終えると女将さんは訝しげに語る。

『権現さまに魅入られたかねぇ』

『権現さま?』

『この地にひさに言い伝えられる、げに恐ろしい妖ちゃ。打餓鬼とも言う。』

ひさ…長い間 げに…本当に、実に


『それはどういう類の…?』

『魅入られた者は、幾度となく誘いを受けるち。誘いを受けた者は館に呼ばれるちいうが…そっから先は分からん。けんど、権現さまがづきよったらまっこと恐ろしいいうき、おんしゃ気をつけりーよ。』

づき…怒る まっこと…まことに 

おんしゃ…あんた


『は…はい。』


あまりそういった類を信じない私だが

夢の中で人とは違う何者かを目にし、言い伝えの中の"館"に入ると言う共通性が恐怖心を抱かせた。無論、この話をしたのは初めてである。

不安に駆られ、絵どころではなくなった。

今日一日の天気がより一層、そうさせたのだった。

しかし腑に落ちない。何故私が?という疑問が過る。もしや入っては行けない場所に足を踏み入れたのか?だとしたら、いつだろう。

あのバス停を降り、こちらの宿に向かった時からの足取りや、あの桜までの道順などを伝えてみたが、女将さんからしても違和感はないようだった。…益々分からない。言い伝えとは尾ひれ歯ひれが付き物だが、あまりに情報が少なく、実態すら分からないと言う。しかし目撃例は有り、実際に会ったと言う者も過去には居たと言うが、あまり多くを語らないという。

とにかく、万一誘い込まれても怒らせなければ大丈夫。という事だった。


そんな話をしていると、日が落ち始めていた。


『今日はこんばーにしぃ。こじゃんと美味い夕飯作るき、風呂につばかっといで。』

こんばー…これぐらい こじゃんと…とても

つばかる…浸かる


いちいち方言がキツく、少し考えてしまう。

因みに、私は幼少期を高知県土佐市で過ごした為、分かるのだ。とはいえ、何十年も前の事だから、うる覚えでしかないのだが。


暫くし、風呂が沸いたと声がかかったので

入る事にした。しかし、風呂に入っている間も

夕食を食べてる時も、寝る前も…気が気では無かった。眠れない。眠気が来ない…筈なのに、

気がつけば寝入っていた。


ーーー霧がかる森の中だ。

夢の中の筈なのに、冷や汗を掻いてる気がする。気のせいか、森を進む足も速まっている。

そして館に辿り着く。扉を開ける。しかし、この日は中々館の中に入れない。いや、入る事を拒まれている様な…そんな気がして足が前に進まないようだ。それでも、入る。きっと私の潜在意識も自らが持つ疑問を"彼"に投げかけたいのだ。

ーー君は何者だ

ーー何故、私をここに呼ぶ

ーー目的は何だ

…何故、私は、君は、互いを見知っている


その問いを投げかけようとした時ーー


現実世界の携帯の着信音が鳴り響き、目が覚めた。知らない番号。携帯の画面の時計が目に入ると、午前10時を回っていた。

おかしい。こんな時間まで寝ることは滅多にないのに…そう思いながら電話に出る。


『はい。福永ですが?』

"もしもし、突然のお電話すみません"

"こちら、都立⚪︎×病院ですが"


ーー病院?しかも行った覚えのない病院だ。

とてつもなく嫌な予感がした。

聞き耳をしっかりたてた。


『え…?妻が!?』




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