第2話 デジャヴ

とてつもない寒さと永遠に続く様な夜を超え、

大地に太陽の温もりを感じる事が出来、

山々には息吹が巡り、種は根を張り、芽を出し、花開く。春の訪れを迎えていた。


外はポカポカとしていて、陽気な雰囲気だ。

しかし、私の心は未だ春を迎えられずにいた。

ーー絵が描けないのだ。と言っても、全く描けない訳ではないが、思う様な線が描けない。

思う様な色が出せない。

他人から見れば、どれも些細なことであり、ちょっとした事だ。だが、絵描きにとってはその"些細なこと"が重要であり、到底看過する訳にはいかないのだ。


ーー少し休もう。そう言い、手を止めた。


『ちょっと休めば、また描ける様になるわよ。』


浮かない顔をする私を尻目に、美訪(みどり)は明るく振る舞い家を出る。

彼女は今なお、花屋に勤め、稼ぎの少ない私を補ってくれている。絵を描くしか脳のない私を

いつも支え、照らしてくれる。夢中に絵を描く私が好きだと言ってくれる。まるで万年咲き誇る向日葵の様だ。


『それに比べて俺はー』…益々気が滅入る。


気分を変えようとTVを点けた。

ここは…?見慣れない景色。おそらく何処かの集落だろう。しかしそこに広がっていた光景は

えもいえぬ程、美しい。一体どれ程の樹齢を重ねてきたのだろう。一本の枝垂れ桜が見事に咲き誇っていた。その奥には青々とした山々が、

桜を際立たせる様に後景を飾っている


この景色を描きたい。

休もうと思っていた矢先に、描く意欲を駆り立てられた。

本来ならば、今すぐ道具をまとめ飛び出したい気持ちだったが、今は家族が居る。

すぐにTVからの情報からネットで検索をかけ、その場所を見つけた。『高知県か。』

遠出になるので、1日では帰って来れないだろう。ーいや。きっと満足出来る絵が描けるまで帰らないだろう。妻が仕事から帰って来たら相談しよう。そう決意する頃には元気が溢れていた。まるで水を得た魚の様だ。どうも私の精神はどこか子供の頃に止まっている様な気がして気恥ずかしくなり、TVを消した。


その晩、話をしたが…

自分の想像通り、快く快諾してくれた。

その代わり、私への愛を込めて描いてきて欲しいと注文を受けた。少し照れ臭かったが、

いつも支えてくれる妻の頼みだ。聞かないわけにはいかない。

その日は久しぶりに心が落ち着いていて

妻と2人、恋人の頃に戻ったようにたわいのない話に花を咲かせた。


『じゃあ、行ってくるよ。』

『気をつけてね。楽しみにしているわ。』

キャリーケースを持ち、玄関を開けた時

『あ!』美訪の叫ぶ声がした。


『浮気しちゃ駄目よ』とイタズラ顔で笑っている。

私は呆れ顔を彼女に向け、背中越しに手を振り家を出た。

ポカポカとした穏やかな朝。

陽の光が心地良く、私は んっと背伸びをして

荷物を持ち歩みを進めた。



品川駅から東海道新幹線に乗り、岡山へ。

そこからバスで瀬戸大橋を渡り、四国に向かう。そうしてまた、バス、電車、バスを乗り継ぎ、いよいよ目的地の近くまで辿り着いた頃には太陽は西へ沈み始めていた。

そこである事に気付いた。

そう、宿泊する宿を予約していなかったのだ。

私は昔からそうだ。思い立つとそればかり考えてしまい、他の事が疎かになってしまう。

そうしてずいぶんと周りに迷惑をかけたものだ

…と、そんな事を考えてる間にも日は沈む。

直ぐに携帯を取り出し、検索をかけてみた。

少し歩かなければならないが、一軒の民宿を見つけた。どれほど滞在するかは分からないが

予算に余裕がある訳ではない。

だから、風呂があり、夕食付きで一泊5000円と言う安さは有り難かった。

もし空いていなければーと言う嫌な予感は気にしない事にした。予感が当たった試しがないからである。

いや、そもそも先に電話で確認すれば良いだけなのだが…それをしないのが私の悪癖だ。


そんな話はさておき、やはり山道は応える。

舗装された道ではあるが、登りかと思えば下り、また登り。普段の不摂生な体は悲鳴をあげつつあった。何とか歯を食いしばり歩みを進めていると、ポツリポツリと続く民家の合間に宿を見つけた。『民宿 権現』何とも厳つい名だ。見た所、普通の民家を宿として使っている様だ。

宿の名前は、かの有名な『権現の滝』から取ったものだとすぐに分かった。

着いた頃にはすっかり日も沈み、周りの民家も含め、宿にも明かりが付いていた。


インターホンが見当たらなかったので

玄関をノックし『ごめんください!』と声をかけた。

『はーい!』と言う声と共に玄関が開いた。

肩甲骨ほどの長さの髪を後ろで束ねた見た所50代の女性が出て来たが、私の姿を確認すると

少し怪訝な顔で

『何か…?』と言った。

一瞬宿と民家を間違えたかと慌てたが

『こちらは民宿ではないですか?』と聞くと

『そうちゃけんど…お客さんかえ!?』と驚いている。

『はい。泊まりたいのですが大丈夫ですか?』

と聞くと、


『はぁ…けんど、もう暗くなっちゅうき、夕飯は大したもん出せんよ?そんでもええが?』


『ええ!出して頂けるだけでも充分。』

と頷きながら言うと、

『そんなら、どうぞこちらへ…』

部屋に案内してくれた。


部屋は6畳程で、シングルベッドが角にあり、

1人用のテーブルと、壁際に大きくはないTVがある、極めてシンプルな部屋だった。

私は荷物を置き、案内してもらっている時に説明を受けた風呂に向かった。


風呂は、普通の民家に比べて広く

3〜4人が同時に入っても足が伸ばせる程である。湯船には、デコポンが浮いていて、柑橘系の爽やかな香りがし、何とも心地良かった。

普段は20分程で全て済ませて上がるのだが

広々とした湯船が旅の疲れを吸い取ってくれてる様な気がして、普段の倍ほどは入っていただろうか。

風呂の引き戸の向こうから

『ご夕食の用意が出来ましたき、上がりましたらどうぞリビングにお越し下さい。』

と声が聞こえ、ハッと我に返り

『あ、ありがとうございます。直ぐに行きます』

『いえいえ、どうぞゴトゴト…ごゆっくり。』*ゴトゴト…高知弁でゆっくりの意


不思議な言葉だな、と思いながら、お言葉に甘え、もう少しだけ湯船に浸かった。


リビングに入ると、何とも見事な夕食が用意されていた。

小鉢には、いもの茎の炒め煮や田芋のころばし、白飯、つがに汁、メインの皿鉢(さはち)には、鰹のたたきやつぶ貝の煮物、こんにゃくと鯛の刺身が盛ってある。正に郷土料理のオンパレードだ。

見知ってはいたが、食すのは初めてなものばかりで、山道を歩き風呂に入って消耗した全身が舌鼓を打つ程に食欲が湧き立った。

ーー美味い。中でも醤油と一緒に出された"ぬた"に刺身や鰹を付ける。これがまた美味だ。

"ぬた"とは葉ニンニクをすり潰し、味噌や酢、炒りごまを混ぜ、最後に砂糖で味を整えた高知伝統の調味料で、ニンニクや胡麻の香ばしさと味噌の風味も合わさり、疲れた体には持ってこいの代物だ。話すと気さくな女将さんで

何より風呂や食事が気に入った私は納得の絵が描けるまでの間、ここを拠点にしたいと思い、事情を説明して『良ければ…』と交渉した。

女将は『変わっちゅう人やにゃあ』と笑っていたが、ねずみと猫が同居した様な方言を聞き、

その可愛らしさに私も笑いが込み上げた。

交渉はというと、快諾してくれて一安心だ。

明日からは、夕飯は奮発すると意気込んでいたが、私は今日のままが良いとお願いした。

生まれ育った郷土料理を褒めた事で気分を良くした女将は、グラスを2つ用意し、これまた高知の地酒である日本酒"酔鯨"を出してきた。

喉にカッと来る辛口だが、旨みと酸味が程よく美味い。しかし酒の弱い私は、数杯呑むと、疲れも相まり、程なくして船を漕ぎ始めていた。

*船を漕ぐ…ウトウトとうたた寝をする事


その姿を見て女将は、

『何ね大の男が!たかぁ(実に)情けない』

と残念そうにしながら、部屋に誘導してくれた。部屋に入り、そのままベッドにダイブした私は、疲れと酔いで何とも言えぬ心地良さを感じたまま眠りについた。


眠りにつきどれ程時間が過ぎた頃だろうか。

私は随分と不思議な夢の中にいた。


大霧がかかる森の中に居る。だが、ほぼ視界もない中、何か目的があるかの様に真っ直ぐ歩けている。何も見えないが、真っ直ぐである事だけは何故か分かる。

暫く歩き続けていると、突然目の前に家が現れた。

屋根は茅葺きで、外装は見事なまでの古民家。歴史的建造物でしか見ない様な佇まいで、タイムスリップした様な気がしつつ、扉を開けた。室内に入ると、右手に江戸期に使用されていた様な釜戸や手洗い場があり、正面の段上には広々とした木製床の真ん中に囲炉裏があり焚き火が揺らめいている。

部屋を見渡すと、四隅を行灯の蝋燭がユラユラと部屋の隅に明かりを灯していて、何とも言えぬ雰囲気を作り出す。

ふと、焚き火の方に気配を感じ、奥を凝視すると…影が見える。誰か居る。何か楽器を手にしている様な。しかし、姿形こそ人に見えるが、私にはそれが人ではない事が分かる。


ーーいや私はこの者を知っているーー

そう感じて居ると、その者が話かけてくる気配を感じた。

喋る!と思い、身構えた瞬間ーーー

ーー目が覚めた。暖かくなって来たとはいえ、

山間の夜は寒い。にも関わらず、寝汗をびっしょりとかいていた。異常な程の汗に驚きつつも、

今しがた見ていた夢について考えていた。

影しか見えなかったが、『俺は彼を知っている。』そう感じていた。いや、知っているが知らない。それは、そこに初めて訪れた筈なのに、辿り着いた時に懐かしさが込み上げてきた時の様なーー。"デジャヴ"と呼ばれる感覚だった。そして、"場所"ではなく"彼"に対してのみ、そう思う感覚を不思議に思いつつ、どこか『嬉しい』と感じる心に包まれていた。


続く





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

打餓鬼 馬耳 猫風 @shige1518

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画