竜と剣と下水道
絶え間なく流れる水音に足音が混じり、ランタンの青い光がレンガの壁面を照らす。
光源の出現に驚いた虫たちが慌てて闇へ逃げていく。
「ご主人、どこへ向かってるのだ?」
ランタンを掲げて闇を払い、隣のドミニクを見上げるカリン。
調査という足取りではなかった。
下水道へ立ち入ってから一切の迷いがない。
「当然、聖剣を落っことした犯人のところさ」
マスクの内から響く声に、普段の気怠げな雰囲気はない。
「…犯人が分かったのだ?」
それが事実とすれば、犯人は寮の直下に潜んでいることになる。
「まぁな」
嘴マスクのレンズが青い光を反射して瞬く。
「ここ最近、食堂近くのポンプが油塗れになってない」
ポンプとは、自然流下できない場所の汚水を下流へ送るオートマタだ。
大勢の生徒が利用する食堂近くのポンプは、生ごみや油といった異物による故障が絶えなかった。
破砕機の導入も検討されていたが、最近になって異物が激減したのだ。
「それはマーサが過去を反省したからじゃない」
食堂のボスは話を聞かない。
つまり、異物の減少は外的要因。
「そして、処理水の放流先はヴィクセン川だ」
汚濁を取り除いた処理水は、学園近傍を流れるヴィクセン川へ放流される。
だが、それは今の話とは関係がない──
「あ、課外授業…!」
否、ある。
件の聖剣が喪失した現場は、ヴィクセン川の下流にあるのだ。
青い光が揺らぎ、滞留していた空気が通路の奥へと流れていく。
「となれば、だ」
聖遺物が川を遡上するはずがない。
つまり、ここまで運んできた者がいる。
通路を反響する足音、そして──尻尾を引き摺る音。
人が通ることを想定した通路は、その者には窮屈が過ぎる。
「犯人は、迷いトカゲしかいないのさ」
闇より姿を現す
漆黒の鱗がランタンの光を吸い込んで輝く。
残飯ではない新鮮な肉を前に、巨大な顎が小刻みに打ち鳴らされる。
「カリン、制約解除だ」
「分かったのだ!」
打てば響く。
フリギノーサの足元へランタンが転がり、翠の瞳が闇へと隠れる。
カリンは──ドミニクの契約精霊は、背中の大型クロスボウを抜く。
勇者以外に魔法の行使を許された種族。
「30秒、持たせてほしいのだ!」
発光する翠の瞳。
レンガの床面を魔力が駆け巡る。
それをロングコートの影に隠し、ドミニクは背負っていた得物の柄を握る。
「任せろ」
なぜ、下水道の管理者が武装しているのか。
それは勇者学園に害為す者の跋扈を許さぬため。
彼らは管理者にして番人──
「どうしたのだ、ご主人!」
ドラゴンを前に静止するドミニク。
「へっ……今日に限って油を差し忘れた」
錆びついた鞘は刃を抜かせない。
眼前の巨躯が揺らぎ、風を切る。
「っと…!」
天井近くでロングコートが大きく風を孕む。
その眼下には、巨大な顎を閉じたフリギノーサ。
困惑の浮かぶ金色の眼が、遅れて空中の獲物を睨んだ。
「上等だ──」
ドミニクは留め具を外し、鞘ごとクレイモアを解き放つ。
「悪食トカゲ!」
天井を削る鞘の切先。
火花散らす重力任せの大上段が、フリギノーサの眉間を捉える。
『ッ!?』
それは頭蓋を震わし、否応なしに頭を床に落とす。
常人とは思えぬ一打。
しかし、殴打で殺せるならばドラゴンスレイヤーに業物は求められない。
──黄金の眼に怒りが満ちる。
ドミニクを天井へ打ちつけんと振り上げられる頭。
通路に衝撃が走り、結露水が雨の如く降る。
「活きがいいじゃねぇか」
降りしきる水滴をロングコートが弾く。
とうにフリギノーサの頭上より離れていたドミニクは、錆びついた得物を下段に構える。
嘴マスクより漏れ出す呼気。
『ッ!』
影すら飲み込む巨大な顎が迫る──それを下から強かに打つ。
「ったく!」
鳴り響く快音、飛び散る飛沫。
水路に映り込んだクレイモアが切り返され、風を捲る。
「とんだデカブツが迷い込んだもんだ!」
仰け反ったフリギノーサの鼻先に突き刺さる一撃。
『ッ!?』
ドラゴンとて急所の一つや二つある。
激痛に耐えかねたフリギノーサは、壁面に激突しながら大きく後退る。
足元でランタンの青い光が揺れ動く。
「ご主人、準備できたのだ!」
時を同じくして、ドミニクの契約精霊は声を張り上げた。
「ぶちかましてやれ、カリン!」
主は振り返ることなく、レンガの床面へと伏せる。
ロングコートが地に落ち、射線を確保。
黄金の眼は見た──レンガの床より生えた紅の砲台を。
それはクロスボウを依代に、レンガで構築した攻城兵器。
番えられた弾体は、高圧縮された石弾だ。
「発射!」
マキナが駆動し、張力を解放する。
闇を切り裂く一射。
石弾は音の壁を突き破り、漆黒の鱗を穿つ。
『──!!』
通路を震わすフリギノーサの咆哮。
その横腹より噴き出す血は、瞬く間に通路を赤く染め上げる。
間違いなく致命の一撃だ。
「やっ──」
勝鬨を上げようと立ち上がるカリン。
「てないのだ!?」
それは、大きく開かれた顎を前に中断される。
憤怒に染まる黄金の眼、口腔より吐き出される可燃性ガス。
ドラゴンの最大にして最強の武器が、文字通り火を噴く。
「腐ってもドラゴンか」
ドミニクはクレイモアを盾に、マスクの内で苦笑する。
炎の息吹が全てを飲み込む──人も闇も汚濁も。
外敵を焼き払い、フリギノーサは満足げに鼻を鳴らす。
新鮮な肉は次回に持ち越し──
「ありがとよ」
響き渡る不敵な声。
金色の眼が見開かれ、紅蓮に浮かぶ人影を捉える。
「抜けなくて困ってたところだ」
灰となって崩れ去る鞘、露となる白銀の剣身。
「覚悟しろよ、悪食トカゲ」
たった一振りで紅蓮は吹き消され、通路に闇が戻る。
これより始まるは、番人によるドラゴンスレイ。
手負いのフリギノーサは危険を察し、本能的に後退る。
逃走──と見せかけた奇襲。
狭路にて巨躯を回す。
樽のように太い尻尾が弧を描き、間合の外敵を圧殺──
『ッ!?』
血飛沫が舞い、声なき悲鳴が上がる。
断ち切られた尻尾が水路へ落ち、派手な水音を立てた。
「…残念だったな」
クレイモアの切先を天井へ向けるドミニク。
竜骨すら切り裂いた刃からは鮮血が滴る。
「仕留めさせてもらうぜ」
たった一人の男に、ドラゴンは恐れ慄く。
出血する身体を引き摺り、下水道の番人より逃れんとする。
「──この音」
ドミニクの足を止める異音。
荒い呼吸音を、猛る水音が上書きする。
フリギノーサの頭上──排水口より音源が降り注いだ。
濁流を叩きつけられ、覆い隠される巨躯。
「貯留槽なのだ…!」
「間の悪い時に流れてきたな」
距離を取ったドミニクとカリンは、揃って天井を見上げる。
汚水が一気に流れ込むことを防ぐため、利用者の多い寮には貯留槽が設けられている。
定量に達すると、こうして汚水が放流されるのだ。
「さて……どこへ逃げた?」
床に転がるランタンを拾い上げ、青を帯びる白銀の剣身。
濁流が止み、周囲には洗剤の香りが漂う。
しかし、フリギノーサの姿は影も形もない。
「ご主人、あれを見るのだ!」
不意にカリンが傍らの水路を指差す。
そこには──小柄な人影が浮かんでいた。
浮き沈みする人影の身長は、カリンと同程度。
華奢な体躯を見るに、おそらくは少女。
「なんだあれ」
「……分からないのだ」
下水道の管理者は困惑する。
流されていく少女には、半ばで断ち切られた尻尾が生えていたのだ。
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