第5話:甘える子猫

 日が傾きオレンジ色の日差しが山を照らしている頃、僕は夕食の準備を始める時間まで自室で束の間の休息に浸っていた。

 ベッドに身体を投げ出し恋愛小説を読み耽る姿は、傍から見ればリラックスしすぎで真面目に努力している人間とは思えない光景だろう。しかし人間は肉体的にも精神的にもそこまで丈夫ではないので、休息はとても大事なのだ。休む時は思いっきり休まねばならない。尤もこんなだらしない姿はアルマ様には見せられないが。


「――っ!?」


 などと思っていると――コンコン。部屋の扉がノックされ、驚いた僕は反射的に飛び起きた。


「ね、ねえ……入っても、良い?」


 さすがに幾らご自身のお住いとはいえ、勝手に扉を開けるという事はしないらしい。扉の向こうからアルマ様が何やら控えめな声をかけてきた。

 ちょっと驚いたが、もちろん否など無い。なので僕は若干乱れたベッドシーツを整えると、すぐさま部屋の扉を開けに行った。扉を開けると、そこにはちょっと居心地悪そうに視線を彷徨わせているアルマ様が立っていた。


「珍しいですね、お師匠様。貴女の方から訪ねてきてくださるなんて」

「ん、ちょっとね。よく考えたら一つ屋根の下に一緒に暮らしてる割には、あんたが普段どういう風に過ごしてるのか知らなかったのよ。だからちょっと見に来たんだけど……もしかして、迷惑だった?」

「そんな事はありませんよ。どうぞ、お入りください」

「ん……」


 扉を開けたまま道を譲り、部屋の中へとアルマ様を招く。恥ずかしそうにしているのは曲がりなりにも異性の部屋を訪ねたからか。まるで自分の部屋のように、恥ずかし気もなく寮の自室にズカズカ踏み込んでくるシエルとは大違いである。


「へえ。いつのまにかこんな風になってたのね」


 部屋に入ったアルマ様は周囲を見回し、最初の最低限の無機質な内装から様変わりしている事に目を丸くしていた。

 最初はベッドと机と椅子くらいしか無かった部屋だが、今は生活感のある居住空間に生まれ変わっているのだから驚くのも無理はない。カーテンもカーペットも揃え、小さめとはいえ衣装タンスも用意し、姿見なども設置したので生活感がこれでもかと溢れている。学院で寮の自室を彩るのに使っていた家具や調度品を持ってきていたので、それをそのまま流用しているのだ。

 ただ大体の物が緑系統の色をしているのは、僕の趣味と言うか恋愛的な側面が反映されたというか……気付けばアルマ様の髪色や瞳の色を想起させる色合いのものばかり揃っていたのだ。これはこれで落ち着いた色合いでリラックスできるし、アルマ様は気付いていないようなので今の所問題はないが。


「男の一人部屋にしては随分片付いてるじゃない。整理整頓も出来るのね?」

「万が一お師匠様が訪ねてきた時、情けない姿は見せられませんからね。普段から綺麗にしていますよ」

「別に多少汚れてたって私は気にしないわよ。気を張り詰め過ぎじゃない? って……ん? あれって……?」


 不意にアルマ様は部屋の隅に目を向け、興味を引かれたようにトコトコと歩いていく。その一角にあるのは僕の所持している書物を並べた本棚だ。魔法や魔術に拘わる書物、水や氷に関する書物などが並んでいるが、勉学とは無関係の書籍も数多く並んでいる。アルマ様が一冊手に取ってみたのはそちらの方だった。


「これって、恋愛小説? 男のあんたがこんなもの読んでるの? 何か意外ね……」

「まあよく言われますし、自分でも理解しています。しかし乙女心や女心を理解するのにこれほど適した教材はありません」

「教材って……あんた、もしかしてそれを読み始めた理由って……?」

「もちろんお師匠様に一目惚れしたからですね。ふとした事で愛想を尽かされるなんて死んでもごめんですし、女性の心の揺れ動きというものを把握するために読み始めました。尤もその内本格的に嵌ってしまいましたがね」

「そ、そう……」


 ぽっと頬を染め、アルマ様は小説を本棚に戻した。一目惚れした、と言われるのはなかなか居心地が悪いのだろう。

 しかし恋愛小説が趣味になっても、未だに女心や乙女心が理解できない物なのは変わらなかった。とりあえず男の僕が全てを理解し把握しようとするのがそもそも間違い、という事を理解できたのが収穫と言えば収穫か。


「ていうか、もしかして今本を読んで休んでたの? 私、邪魔しちゃった……?」

「確かに読書中でしたが構いませんよ。僕にとってはお師匠様とお話しする時間が一番幸せで、何よりも優先されるべきものですから。それにこうして僕の事を知るために訪ねてきてくれた事が嬉しくてたまりませんよ」

「べ、別にそういう訳じゃないし……」


 恥ずかしそうに顔をさっと逸らし、誤魔化す様に恋愛小説の背表紙を眺めたり手に取って行くアルマ様。

 何だろう。僕の趣味を把握されていくようなこの感覚。恥ずかしいのにどこか興奮する……。


「あ、これは私も聞いた事があるわね。何か最近人気のやつだっけ。前も思ったけど官能小説じゃないのよね、これ? ちょっと表紙とかエッチじゃない?」

「それは……!」


 そう問いつつ胡乱気な目を向けてくるアルマ様に、僕は思わず身を乗り出してしまう。

 しかしそれも仕方ない。アルマ様が手に取ったのは僕の一番のお気に入りの恋愛小説『氷雨のテンペスター』だったからだ。内容は主人公の女の子が名のある魔法使いに一目惚れしてしまい、その恋を叶えるために色々頑張るお話だ。大いに共感できる内容のため、僕としても次の展開が気になって気になってしょうがない。

 そしてだからこそと言うべきか、一番好きなものはどうしても語りたくなってしまうという趣味人の悪い癖が出そうになってしまい、すんでの所で何とか自分を押しとどめた。


「ふぅん? 主人公が自分と似てるから一番好きなのね。滅茶苦茶語りたくなるくらいに」

「ちょっ、お師匠様!? せっかく語るのを我慢したのに心を読まないでくださいよ!?」

「ごめん。何か変な反応だったからちょっと気になって」


 やはりアルマ様に隠し事は出来ないようで、精神魔法によって心を読まれ考えていた事があっさりバレてしまう。これはさすがにちょっと恥ずかしい。

 とはいえからかいの笑みを浮かべるアルマ様のお顔が素晴らしかったので、それを見るための必要経費と考えれば全く気にならなかった。


「まあ主人公が自分と同じ境遇だって言うなら、気に入るのも当然よね。それにその、男ならエッチなのが好きなのは、多少は仕方ないだろうし……」

「あ、ありがとうございます……」


 どうやらアルマ様は青少年の性欲に一定の理解があるようで、頬を染めつつ寛大なお言葉を口にしてくださった。そういうシーンが無い訳ではない事もあり、ちょっと居心地悪く感じてしまう。

 これならベッドの下から色本が出てきたとしても軽蔑される事は無いだろう。まあ僕はそのような物持っていないが。性欲すらも自分を磨き高めるためのエネルギーとして利用してきたからなぁ……。


「ま、まあ、お認め下さって安心しました。これで心置きなく最新刊の購入に行けます」

「購入? えっ、今から?」

「いえ、七日後ですね。その日は朝から街に行って書店の開店前に並び、開店と同時に真っ先に手に入れます」

「ふーん……」


 僕は力強く断言したが、何やらアルマ様はご不満な様子。若干眉間に皺を寄せていらっしゃる。


「ご心配なさらず。お師匠様の朝食を作ってから行きますので。手を抜いたりもしませんから安心してください」

「別に、それを心配してるわけじゃないけど……」


 食事はしっかり時間通りに用意すると口にしたのに、やはりアルマ様は不満気だ。どうやら以前と同じく、自身の食事の心配をしているわけではないらしい。

 やはり僕とあまり離れたくないのだろうか? いや、いきなりそんな思考に到達するのは自意識過剰な男の悪い癖だ。幾らお互いの距離が縮まったとはいえ、師弟生活が始まってからまだ一月も経っていない。それなのにここまで依存されるなどさすがにあり得ないだろう。僕としてはアルマ様との関係は年単位の時間で少しずつ確実に深めていく予定なのだ。


「まあ、早く帰って来なさいよ? 最近どうにも街がキナ臭い感じがするし」

<普通の人々>エクソル・キズモス関係ですか? でしたら是非とも出てきて欲しいですね。僕の怒りを存分に叩きつける事が出来ますし。何なら魔法も魔術も使わずに素手で嬲り殺しにしてやりたいくらいですよ」

「……何かあんたの方が憎しみ強くない? 気のせい?」


 一瞬怪訝な目をこちらに向けてから、再び恋愛小説を手に取り確認する作業に戻るアルマ様。

 そんな事を言われても、愛しい人があんな苦しみを味わわされたなら憎しみを抱くのは当然だ。むしろアルマ様の方がもっと深い憎しみを抱いてもおかしくないと思うのだが。


「んー……何かこう、意外ね? あんたの事だから、てっきり私そっくりな子が出てくる感じのものばっかり読んでるんだと思ってたわ」


 大体確認し終えた所で、アルマ様は意外そうにそんな感想を口にした。

 どうやらアルマ様に似た女の子が登場する作品ばかりを読み、アルマ様との疑似恋愛に浸っているとでも思われていたらしい。

「ははっ。そんなもの読むわけないじゃないですか。胸糞悪い」

 しかしそれはあまりにも心外な決めつけであり、僕は思わずちょっと低い声で答えてしまった。


「えっ……」


 その結果、アルマ様のお顔がサッと青ざめる。まるで自分を否定するような、そして今までの愛の言葉が嘘だとでも言うような台詞に聞こえてしまったのだろう。僕はその辺を深く考えず、つい反射的に口走ってしまったのだ。何という失態だ。


「ち、違います違います! 読みたくないのはお師匠様が嫌いだからではありません! むしろ大好きです! 愛してます!」

「そ、そう……」


 幸い床に身体を投げ出し、縋りつくように愛の言葉を口にすると絶望の面持ちは何とか引っ込めてくださった。

 しかし傷ついたのは確かなのだろう。いまいち戸惑いが消えておらず、何ならその瞳が悲しみに揺れている気もする。

 クソッ、僕の大馬鹿野郎! こうなったら全て正直に話すしかない!


「アルマ様似の女の子が出る作品が嫌いなのは、簡単に言うと寝取られた気分になるからです」

「……ん?」


 正直に吐露すると、途端にアルマ様は悲しみも戸惑いも忘れた顔で首を傾げた。

 これを口にするのはどうかと思うが、傷つけてしまった以上は誠意を見せなければならない。


「恋愛小説なので、必ず主人公は誰かとくっつきます。それはつまり、主人公やヒロインがお師匠様に似た少女の場合、どこの馬の骨とも分からない男とくっつき結ばれる光景を見せられるという事です。そんなのちょっと、いえ絶対に耐えられません。脳が破壊されます」

「あ、そういう理由なのね?」

「はい。初めてそういう作品に遭遇した時、誇張抜きに胃の中の物を全部吐きました。しばらくは夢にまで見ましたよ。そのせいでもう身体が受け付けません」

「ふ、ふーん? そんなに、私の事……」


 寝取られによる脳破壊に耐えられないからという事実を正直に伝えると、どうやら納得してくださったらしい。頬を染めつつ何度も頷き、ちらちらと僕に視線を向けてきた。

 突っ込みの鋭いアルマ様なら『寝てから言え』と言ってきそうな気がしたものの、案外満更でも無さそうな感じだ。自意識過剰だと思ったが、やはり昨晩の出来事でお互いの距離が縮まったおかげなのかもしれない。


「……ねえ、あんたはしばらく本を読んでるの?」

「そうですね。あと一時間ほどは」

「じゃ、じゃあ、私も一緒に読んで良い?」


 その考えを裏付けるように、アルマ様はどこかおどおどした様子で触れ合いを望んできた。一緒に本を読むという実に仲のいい友達か恋人同士のような触れ合いを。

 そういえばシエルともやっていたな。お互いに読み進めつつ、所々で感想を言い合うという実に実りのある時間だった。しかしそれはあくまでもお互いに本を一冊ずつ手にして、それぞれ読み進めながらのお話だ。


「僕としては一向に構いませんが、小説を一緒に読むのは難しくないですか?」

「その辺は大丈夫よ。あんたが黙読してくれれば、私の頭の中に伝わってくるようにするから。どっちかっていうと読み聞かせみたいな感じね」

「なるほど、そういう感じですか。了解です」


 それはつまり考えた事を全てアルマ様に読み取られるという事だが、面接で告白して子供を孕ませたいとまで口走った僕には知られて困る事など何も無い。故に躊躇いなく了解した。僕としてもアルマ様と一緒の時間を過ごせるなら万々歳である。


「で、でも、挿絵とかはさすがに伝わらないから、隣で見させて貰うわね?」

「分かりました。せっかくなので一巻から読みますね」


 そんなわけで、僕は『氷雨のテンペスター』を一巻から読む事にした。自分で取りに行こうとしたのだが、アルマ様がわざわざ一巻を手に取り持ってきてくれたので、そのまま二人でベッドに腰掛ける。

 すぐ隣、ほとんど密着に等しい距離にアルマ様がいるという事実に興奮と幸福を覚えながらも、早速最初のページを開いて読み始めた。しっかりと僕の思考を呼んで一緒に読書しているらしく、アルマ様は何も言わずに隣で僕の手元を覗き込むだけ。

 部屋の中には僕がページを捲る音と、外から聞こえる小鳥の鳴き声だけが響く。とても静かで、落ち着いた時間。愛する人が隣にいる状態で、大好きな恋愛小説を読む。最高の幸せと言っても良い充実した時間に、自然と僕は雑念を捨て去り小説を読み進めるのに没頭し始めた。


「――ん?」


 そして、どれほどの時間が経った頃だろうか。気付けば肩に何か軽いものが触れる感触があり、見ればそこには頭を預けてくるアルマ様のお姿があった。どうやら眠ってしまったようで、気持ち良さそうな寝息を立てて僕によりかかってきている。


「すぅ……すぅ……」

「眠ってしまいましたか。退屈だったのか、それとも子守歌のようで安心出来たのか……」


 どちらなのかは分からないが、少なくとも僕の隣を安全な場所と思ってくれているのは確かだろう。でなければ僕の隣で、なおかつ僕のベッドの上で、こんな風に無防備な姿を晒すわけがない。やはり僕たちの距離はかなり縮まったようだ。


「何にせよこれでは動けないな? 仕方ないからお師匠様の寝顔をたっぷり堪能させて貰おう」


 信頼されているという喜びに浸りつつ、僕はアルマ様の寝顔をたっぷりと眺めて楽しむのだった。この幸せで穏やかな時間がずっと続けば良い――そんな風に考えながら。


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 フラグが立つと共に3章終了。次の章とエピローグで終わりです。

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