第9話:貴女を知りたい




「……みっともないとこ、見せたわね」


 食事を終えてしばらくしてからようやく落ち着いたのか、アルマ様は気恥ずかしそうに俯きながらそう口にする。

 大いに泣きじゃくったせいで瞳の周りも腫れぼったくなっており、涙や鼻水でお顔が大いに汚れていた。ただでさえ大泣きしながら猛烈な勢いで食事をしている光景を見られたのだから、女の子としては顔を見せられないほど恥ずかしいのだろう。


「いえ、そんな事はありません。誰だって感情が昂れば涙を流したりはしますから。それよりも、綺麗なお顔が台無しですよ?」

「何が綺麗よ、馬鹿……」


 故に僕はアルマ様の横に水の塊を生み出し、同時にハンカチを手渡す。当然冷たさに驚いたりしないよう、適度な暖かさのお湯だ。アルマ様は僕の手から恥ずかしそうにハンカチを奪うと、水の塊を使って顔を洗い始めた。

 その間に僕は料理の皿をキッチンへと片付けて行く。やはり相当お気に召して貰えたようで、全て綺麗に平らげてある。これだけ綺麗に、ましてあんなに嬉しそうに食べて貰えると、全身全霊を込めて作った甲斐があるというものだ。僕の分の夕食が無くなってしまった事は些細な問題である。

 片付けを終えてリビングに戻ると、綺麗なお顔を取り戻したアルマ様が恥ずかしそうにこちらを見ていた。とりあえずそのお顔の横に浮かばせていた水球はキッチンへと飛ばし、排水溝に投げ込んだ。


「その……料理、凄く美味しかったわ。味は分からなかったけど、そんな事どうでも良くなるくらいにあんたの気持ちが伝わってきた。その気持ちが凄く、美味しかった……」

「それは良かったです。一口食べてお師匠様が涙を流したので、そこまで変な精神が混じってしまったかと気が気ではありませんでした」

「まあ、確かにちょっとアレなものも感じたけど……別に粘つくような気味悪い感じのやつじゃなかったし、不快感は感じなかったわ」

「……アレとは、何でしょう?」


 何かマズい物でも混入してしまったのかと思い、不安になって尋ねた。するとアルマ様は先ほどよりもお顔を赤らめ、ふいっと視線を逸す。


「アレはアレよ……その、嫌らしい感じのやつ……」

「なるほど、そうですか。僕、死んだ方が良いでしょうか? 外で首吊ってきます?」


 どうやらアルマ様に対する性的な欲求が混じってしまったらしい。そんな精神が混入した料理を食べさせてしまった大罪に、僕は自決の覚悟を決めた。こんな時のために無駄に丈夫で太いロープを持ってきているし、首を吊るのに最適な木も見つけているのだから。


「い、良いわよ、別にそれくらい! そりゃああんたは男なんだし、そういう欲求は消せないでしょ……」


 しかしアルマ様はとても慈悲深く、欲求を認めお許し下さった。尤もかなり恥ずかしそうにしていたが。


「それに、そんなのどうでもよくなるくらいに真摯な気持ちが伝わって来たわ。美味しい料理を食べて欲しいっていう真剣な思い、せめて普通に食べられるくらいのものを作ってあげたいっていう優しさ。そして、その……私への、愛情……」

「愛を込めて作りましたから。当然ですね」


 アルマ様への愛情だけは確固たる物なので、そこは胸を張って答える。

 料理に使った食材は僕が育てた物ではないので他者の精神が混入しているはずだが、それでもアルマ様が美味しいと感じた辺り、きっと僕の愛が他者の雑多な精神を押し流し塗り潰したに違いない。やはり愛は全てを凌駕する素晴らしいものなのだ。


「そうね、あんたはこんな私を愛してるのよね。嘘じゃないって事は分かってたけど、身に染みてそれが理解できたわ」


 そこでアルマ様は席を立ち、リビングの窓へと歩み寄って行く。

 その向こうに見えるのは夜の暗闇。人工の光が存在しない山の中という事も相まって、ある種恐ろしいまでに闇が広がっている。アルマ様はそれをどこか遠い目で眺めていた。


「こんな料理を食べたのは、凄く久しぶり。そう、二十年ぶりくらいかしらね……」


 そして不意に口走ったのは、謎に満ちた過去に拘わるお言葉。

 そうだ、アルマ様は約束してくださった。もしも僕がアルマ様を不快にしない程度の料理を作れていたら、その時は自分の過去を教えても良い、と。不快どころか、嬉し涙を流しながらがっつくほどの物が作れた以上、その条件を満たす事は出来ているのだ。


「……知りたいのね? 誰も知らない、誰にも話した事が無い、私の過去を」

「はい、知りたいです。それを知らなければ、真に貴女に寄り添う事が出来ません」


 振り返り、覚悟を問うように真剣な瞳で見据えてくるアルマ様。その美しい瞳を見つめ返し、はっきりと答える。今は愛する人の全てを知りたいという好奇心よりも、寄り添い慰めるために全てを知りたいという庇護欲の方が強かった。


「それがどんな過去でも? 私が極悪人で、たくさんの人を殺した虐殺者だったとしても?」

「はい。貴女が何者であろうと、どんな罪を犯していようと、僕は貴女の全てを肯定します。それこそが愛なのですから」


 念を押すようなとんでもない問いだが、僕は間髪入れずに即答できる。

 愛しているからこそ、どのような人間だろうと受け入れる事が出来るというのもある。しかし最大の理由は、アルマ様が理由も無くそんな大罪を働く人間ではないと分かっているからだ。

 他者の精神を自由に操る事が出来るアルマ様ならば、やろうと思えば国の一つや二つ滅ぼす事など訳は無い。にも拘らず、こんな山奥で一人寂しく無為に暮らしている。そんな人が訳も無く虐殺などするはずがない。望めば文字通り何でも手に入る力があるのだから。

 それに何より、共に過ごしたこの二十日間ではっきりと分かる。人間不信に陥ってはいるものの、根は優しくて甘えたがり、愛情に飢えたお方なのだ。そうでもなければ僕のような奴を弟子にして、一つ屋根の下で共に暮らす事を受け入れる訳も無いのだから。


「そう……」


 変わらぬ愛を誓う僕を、アルマ様はじっと見つめてくる。その言葉に嘘は無いかを確認しているのだろう。

 もちろん僕の言葉にも気持ちにも、そして愛にも嘘は欠片ほども無い。故に全てを見透かす輝きを持つ澄んだ緑の瞳を、真っすぐに見つめ返した。

 しばらくお互いに見つめ合っていたが、やがてアルマ様の方が根負けしたらしい。僅かに頬を染めて目を伏せると、呆れたように一つ大きなため息を零した。


「……いいわ、あんたには教えてあげる。だけど、一つだけ約束して」

「何でしょう?」

「絶対、私を裏切らないで。これであんたにまで裏切られたら、私はもう……二度と誰も信じられなくなるわ……」


 などと今にも泣きそうな顔で、絞り出すように口にしてくる。

 まだ過去の事は分からないが、それでも手酷い裏切りや他人に失望する何かがあったのは容易に察する事が出来る。だからこその人間不信。今この場で、僕がこうして過去の話をして貰えるほどの信頼を得ているのも奇跡のようなものだ。

 アルマ様はもう一度人を――いや、僕という個人を信じようとしている。それなのにまたしても裏切りにあえば、今度こそアルマ様はもう誰も信じなくなるだろう。自分でもそれが分かっていながら、僕を信じようとしてくれているのだ。

 ならばもちろん、返すべき言葉は決まっている。


「約束します。この僕、ネロ・アグノスは、生涯あなたを裏切らず誠実である事を、ここに誓います」

「相変わらず無駄に大仰な奴ね、全く……」


 呆れたような物言いだが、他ならぬアルマ様だからこそこれが真実の言葉だと分かっているはず。その証拠にどこか嬉しそうに微笑んでいるように見えた。


「分かったわ。じゃあここに座って」

「僕がですか? そこはお師匠様がお使いになった方が良いのでは?」

「それじゃ駄目なのよ。良いから座んなさい」

「はあ、分かりました……」


 命じられ、僕はソファーに腰を下ろした。

 リビングにあるソファーはこの一つのみな上、一人用のものだ。これからアルマ様が過去について語ってくださるのなら、アルマ様こそがこれに腰掛けるべきだと思うのだが――って!?


「お、お師匠様!? 一体何を!?」


 驚くべき事に、何とアルマ様が僕の膝に乗ってきた。アルマ様の前という事でぴっちり揃えていた両足に腰掛け、横座りになる形で。しかもその状態でぎゅっと抱き着いてきたのだ。

 膝に感じる重さはびっくりするくらいに軽く、抱き着かれている事によってその骨ばった身体を改めて思い知ってしまう。しかし感じる温もりは紛れも無く生命の暖かさであり、鼻先に漂う甘い香りは間違いなく女の子の匂い。愛するアルマ様が膝に乗って抱き着いてくるという謎の事態に、馬鹿正直な僕の心臓は興奮によって一瞬で鼓動を加速させた。

 何よりもすぐ目の前に愛らしい猫耳があるのが耐え難い。パンの耳を思わせる柔らかそうなそのフワフワ加減に、思わず齧り付きたくなる欲求を抑えるのが大変だった。


「……私の過去を教えるとは言ったけど、口に出せるほどの勇気が無いのよ。だから私なりのやり方で、直接私の過去を見せる。途中で止める事は……たぶん、無理。それでも、知りたい?」


 そしてアルマ様は特に恥ずかしがることも無く、淡々とそう問いかけてくる。

 いや、淡々とではない。抱き着かれているから分かる。アルマ様の身体が寒さに耐えるように震えている。恐らくは、恐怖から。直接過去を見せるというのも、本来なら語る事すらしたくない域の過去だからこそなのだろう。それこそ僕に抱き着き温もりを感じながらでなければ耐えられないほどに。


「はい、お願いします。貴女の全てを、僕は知りたい」


 故に、僕は抱き返した。一切合切の下心を捨て、ただ震えるアルマ様の心を温めてあげるために。

 その気持ちは精神魔法使いであるアルマ様だからこそ、はっきりと伝わったのだろう。ほんの僅かに、身体の震えが収まっていた。


「……分かった。それじゃあ、覚悟は良いわね?」

「はい。いつでもどうぞ」


 僕の胸に顔を埋めたアルマ様が、腕の中で最後の確認をしてくる。

 アルマ様が恐怖に耐えながら、自らの過去を教えようとしてくれているのだ。不安はあるが、その覚悟と信頼に応えないなどあり得ない。もちろん僕は躊躇いなく頷いた。


「――<過ぎ去りメモリア・し思い出ムンドゥス


 そうして、アルマ様は魔法の名前と思しき言葉を呟く。

 直後、僕の意識は急速に薄れていき、闇の中へと落ちて行った――



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 2章終了。3章では遂にアルマ様の過去が明かされる……!

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