第49話

階段を下りきった瞬間、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。湿り気を帯びた独特の香りが漂い、どこからともなく小さな囁き声のような音が聞こえる。


「ここが五階層か……」


 目の前には、密集した木々が生い茂る暗い森が広がっている。天井のように葉が覆い尽くし、ほとんど光が届いていない。その代わり、苔やキノコが淡い光を放ち、足元をぼんやりと照らしている。


「随分と不気味な場所ね……」リリスが眉をひそめながら呟いた。


「どこもかしこも見渡しが悪い。奇襲には気をつけないと」


 ノエルが鋭い視線を巡らせながら応じる。


 俺たちは互いに頷き合い、慎重に一歩ずつ前進を始めた。


 最初の数十メートルは静寂そのものだった。ただ、木々の間から不気味な音が微かに聞こえている。それが風の音なのか、何かの生物が動く音なのかはわからない。


「ゼラン、足元を注意して。ここ、何か仕掛けがありそうよ」


「森でも罠はあるみたいだな、それにこの静けさが逆に気味が悪い」


 次の瞬間、俺の言葉を遮るように、木々がかすかに揺れた。


「気をつけろ!」


 俺が叫ぶと同時に、足元から根が伸び上がり、俺たちを絡め取ろうとした。


「これって……森が動いてるの?」リリスが驚きの声を上げる。


「そうみたいね……全員、散開して!」


 ノエルが冷静に指示を出し、弓を構える。


 俺は素早く剣を振り、絡みつこうとする根を断ち切った。だが、切った根はすぐに再生し、別の方向から再び襲いかかってくる。


「くそ、これはキリがないぞ!」


 リリスが火の魔法を放ち、周囲の根を一気に焼き払った。だが、魔法を使った瞬間、森全体が低く唸るような音を立てた。


「……なんだ、この音?」


 俺たちは一瞬動きを止め、耳を澄ませる。


「来るわ……敵よ!」


 ノエルが森の奥を指さすと、暗闇の中から緑色に輝く目が現れた。


 現れたのは、群れを成したフェイングリム――苔に覆われた狼型の魔物だった。その鋭い牙を剥き出しにし、低く唸りながらじりじりと距離を詰めてくる。


「数が多い……全員、気を抜くな!」俺は剣を構え、最初の一匹に向き合った。


「来るわよ!」


 ノエルが矢を放ち、先頭の狼の肩を射抜いた。だが、傷ついたフェイングリムはひるむどころか、さらに凶暴さを増して突進してきた。


 俺は剣を振り下ろし、狼の爪を受け止める。衝撃で腕が痺れるほどの重さだ。


「……こいつ、見た目以上に重いぞ!」


「リリス、後方を頼む!」俺が叫ぶと、リリスは素早く魔法陣を展開した。


 突風が吹き荒れ、突進してきた別の狼を吹き飛ばす。しかし、その瞬間、左右からさらに二匹が現れた。


「囲まれてる! ノエル、援護を!」


 リリスが振り向きながら叫ぶ。


「わかってる! でも、数が多すぎる……!」


 ノエルは矢を次々と放つが、狼たちの動きは速く、全てを止めるには至らない。


 さらに悪いことに、地面が突然沈み込み、俺たちの足元が不安定になった。これは明らかに森そのものが仕掛けた罠だ。


「くそっ! こんな足場じゃ満足に戦えない!」


 俺は跳び退りながら狼の攻撃をかわす。


「ゼラン、あそこ!」


 リリスが指さした先には、少し開けた地形があった。


「全員、そこに集まれ! ここじゃ不利だ!」


 俺は仲間たちに声をかけ、狼の群れを振り切るように駆け出した。


 俺たちは開けた地形へと駆け込んだ。そこはほんのわずかに陽光が差し込む場所で、先ほどよりも戦いやすいように見えた。しかし、足元には細かな根が絡まりついており、完全に自由な移動はできない。


「ここなら少しは戦える!」


 ノエルが矢を番えながら後方に目を向けた。


「でも、追ってきてるわ。まだ気を抜けない!」


 緑色の目が暗闇の中から次々と浮かび上がり、フェイングリムの群れが現れた。すでに十匹を超えている。


「リリス、広範囲の魔法を頼む!ノエルと俺で周囲を抑える!」


 リリスは頷き、魔法陣を展開し始めた。


 まばゆい光がフィールドを照らし、数匹の狼が目を覆うようにひるむ。しかし、群れの全てを止めるには至らない。


「もっと広範囲で仕留めるわ!」


 リリスが再び詠唱を始める。しかし、その隙を突いて、一匹のフェイングリムがリリスに向かって突進してきた。


「リリス、下がれ!」


 俺は咄嗟に横から飛び込み、突進してきた狼を弾き返した。


「ありがとう……!」


「油断するな! こいつら、一匹でも隙を見せたら終わりだ!」


 フェイングリムの群れは動きが素早く、攻撃の隙をついて挑発するかのように後退する。そして、別の方向から新たな個体が飛び出してくる。


「厄介すぎる……!」


  ノエルが矢を放つたびに、的確に一匹ずつ仕留めていくが、その数は減らない。さらに矢筒を探りながら苦々しく呟く。


「弓矢の残りがあと少ししかないわ……」


 俺は歯を食いしばりながら、目の前の狼を剣で切り裂く。だが、その体力と集中力も徐々に削られていくのがわかる。


 次の瞬間、群れを統率するかのような大きな影が現れた。通常のフェイングリムよりも一回り大きく、体毛には黒い蔦が絡みついている。


「なんだあれ……フェイングリムのリーダーか?」


「あれは……ブラッドリーパー!」


 リリスが驚愕の声を上げた。


「ブラッドリーパー?」


  俺が問い返す間にも、その巨体の狼は低い咆哮を上げた。すると、周囲のフェイングリムたちがさらに動きを活性化させ、執拗な連携攻撃を仕掛けてきた。


「くそっ……数とリーダーの同時攻撃か!」


 俺は振るい続けるが、まるで底のない泥沼にいるような感覚が続く。


「ゼラン、あのブラッドリーパーを倒せば群れは崩れるはずよ!」


「わかってる!でもどうやって接近する!?こんな数じゃ防御を崩せない!」


「ノエル!」


  リリスが矢筒を持つ彼女に振り向く。


「矢を使ってリーダーを牽制して!その隙にゼランが突っ込む!」


「いいわ、やるしかない!」


 ノエルは眉をひそめながら矢を番え、リーダーの額を狙った。


「……ここで決める!」


 ノエルの矢が放たれ、ブラッドリーパーの額をかすめる。リーダーが咆哮し、一瞬怯んだ隙に俺は全力で距離を詰めた。


「今だ!」


 リリスの叫びに応じて、俺はスキル発動し刃を高く振り上げ、リーダーの首筋に一撃を放った。


 ブラッドリーパーは最後の咆哮を上げ、その巨体を崩れさせる。それと同時に、残っていたフェイングリムたちも動きを止め、霧のように消えていった。


「終わった……のか?」


「でも……この消耗じゃ、次に進むのは無理よ」とリリスが疲れた声で言う。


「一旦、休むしかないな……入口まで戻ろう」

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