第3話

いのししか? それか、鹿……」


 そこまで考えて、いや違う、と秀麗は振り向きながら腰の剣を引き抜いた。

 この山には今、いわゆる普通の獣は存在しない。それが、この山に人足が絶えた原因だった。

 がさり、がさりと、周囲の草木の揺れは大きくなっていく。秀麗は前方と左右に視線を巡らせながら、剣を引き抜いた。剣身に刻まれた龍の紋様がきらりと光る。

 再び背後で茂みが揺れた。同時に、辺りに殺気が迸る。


「来た――!!」


 飛ぶように振り向いた先で、黒い塊が跳躍する。間もなく頭上から五つの鉤爪が振り下ろされた。


「くっ」


 頭を貫かれる寸前で、爪を剣で払いのける。秀麗を仕留め損ねた相手も、ひらりと地面に降り立った。

 外見は、豹に似ている。

 生えそろった鋭い牙に巨大な爪を持つ四足獣。秀麗の倍はあろうかという体躯は、闇の如く黒い毛に覆われている。だがその背には鳥のような翼が生えており、豹とは異なる生き物である事を示していた。


精魅せいみ……」


 秀麗は剣を構えて唸る生き物と睨み合う。

 精魅とは、蘇越国に存在する人間や動物とは異なる生き物だ。人智を超越した力を持ち、中には術を使えるものも存在する。彼らは二十年ほど前に突如姿を現して、世の情勢で混乱していた人々を更に動揺させた。この山に人が立ち入らなくなった理由も、彼ら精魅がこの山に住み着くようになったからである。

 精魅の中には人を助けてくれるものもいるが、人を襲うものもいる。今秀麗の目の前にいるのは、紛れもなく後者の方だ。


「ぐるるるる……」


 口から涎を垂らしながら、精魅は一歩ずつ近づいて来る。

 秀麗は後ずさりながら目だけで周囲の様子を確認した。以前山から出てきた精魅を追い払った事もあり、太刀打ちできる自信はある。しかしこの山道では、圧倒的に秀麗が不利だ。少しでも開けた平坦な場所に出なければ、戦いづらい上にやり合っている最中足を滑らせ転落してしまうかもしれない。


「があああっ!」


 黒い翼を広げた精魅が、牙を剥いて飛びかかってくる。秀麗は剣身けんしんで顔面を叩くと、悲鳴を上げた相手を置いて山頂の方へと走った。起き上がった精魅は鋭い眼光で秀麗を貫く。逃げる頭と背中を狙い、鉤爪を一気に振り下ろした。気配に気付いた秀麗は寸でのところで身体を逸らし、斬撃を避けてまた走る。使用人の仕事の空いた時間に自己鍛錬しているのみの身体では、山を走って登りながら精魅の攻撃を避けるのは容易ではなかった。

 息が切れかけ、肺に痛みを感じるようになってきた頃、ようやく開けた場所に出た。辺りは岩や木々で囲まれ、地面はそれまでの道と同じく落ち葉で埋もれている。南端には巨大な木が倒れており、その前に石でできたほこらがあった。きっとここは以前、何かを奉る場所だったのだろう。


「があっ!」

「くっ!」


 秀麗は飛びかかってきた精魅の身体をかわした後、祠を背にして改めて相手と向かい合う。額に浮かび上がった冷たい汗が、頬を伝って地面に落ちた。

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