1章

1.深淵の神

第2話

陽光もない暗い山の中、秀麗しゅうれいは一人ぼやきながら歩んでいた。


「何でいつも俺ばかりこんなことをしなければならないんだ……」


 草木をかき分け、腰の剣に手をあてがいながら、どこかに生えているはずの薬草を探して慎重に歩く。進むにつれ、草に切り裂かれてできた赤い切り傷が腕の青や黄色の打撲痕の上に徐々に徐々にと増えていった。


「あの横暴野郎、使用人扱いがひどすぎるんだ。あいつの事を良い奴だとか言ってる山河さんがの民たちに本性を教えてやりたい……」


 秀麗は蘇越国の東端に位置するこの地、山河を治める地方官吏、禄月ろくげつの使用人である。この禄月という男、外では善良な人間を装っているが家の中では横暴で、使用人が少し失敗したくらいで怒鳴り散らす、無理難題を押しつけて、できなかったら殴る蹴るの暴行を加える、などやりたい放題の有様だった。

 特に秀麗に対しては、どこが気に入らないのか他の使用人よりも当たりが激しく、今朝も作った粥の水の量が少ないと散々殴られた後、誰も近づかないこの山へ、薬草を採りに行けと命じたのだ。禄月の妻に使うものだが、彼女が煩っているのは難しい名前の稀少な病で、その治療に使う薬草も勿論稀少。故にそう簡単に見つかるものではないというのに、禄月は夕方になるまでに取ってこいと秀麗に言いつけた。だが、出る前にこっそり薬棚を確認すると予備分がたっぷり入っており、どう考えても今朝の腹いせの続きとしか思えなかった。


「山の中に一本か二本生えていれば良い方の薬草なんて、見つかるはずないだろう。山のどの辺りに生えているかの情報もないのに」


 秀麗はため息をつきながら、先の道をけだるげに眺めた。辺りは鳥の声も虫の音も聞こえなかった。時折何の生物ともつかない奇妙な声が遠くの方から聞こえてくる。

 今いるのは恐らく山の中腹辺り。途中まではかつて使われていたらしき道に沿って歩いてきたが、いつの間にかそれもなくなってしまった。昔はこの山も登山者の絶えない明るく綺麗で安全な場所だったようだが、ある時からがらりと姿を変えてしまい、陰鬱で暗い危険な山になったという。

 今では武器なしで生きて出ることはできないとまで言われるこの山に、ほとんど武芸の経験もない人間を立ち入らせる禄月。そんな主の使用人なんて一刻も早く辞めてやりたいと思っていたが、あいにく秀麗には行くところがない。八年前、十歳の時に育て親の老婆を亡くし、一人彷徨っていた自分を拾ったのが禄月だった事が、秀麗の人生の中で最大の不運だった。

 もう一度大きなため息をつき、できるだけ安全な道を選ぼうと周囲を見回す。平坦な方へと足を一歩踏み出した時、がさり、と背後の茂みが揺れた。

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