第5話
暗い雲は雨を呼び、やがて風を伴い嵐となった。第二実験室の窓ガラスががたがたと鳴り、激しい雨音が聞こえてくる。それらすべてをかき消すように、電話の音が鳴り響いていた。
野下は真っ暗な第二実験室の片隅にうずくまり、微動だにしなかった。
一体どれほどの時が経ったのだろう。学会雑誌の編集者から電話が掛かってきたのが、随分前のように感じる。
「もう、終わりだ」
野下はそっと自分の境遇をあざ笑う。
研究不正の記事は、すぐにSNSで広く拡散されるだろう。ここまで話が大きくなれば、研究者としてだけではなく、人間としてこの社会では生きていけないだろう。大学を辞め、仕事につくのも諦めて、影で誰にも関わらず、息を潜めて過ごすしかない。
野下は松崎と黒木の会話を思い出す。
彼は野下を妬み、あざ笑いながら地の底へと蹴落とした。
けれども自分が、一体何をしたというのだろう。
真摯に研究に取り組んで、失敗しながら少しずつでも成果を出した。それは研究者として当たり前の事。当たり前のことを当たり前に取り組んだだけで、誓って松崎を貶めることはしていない。なのに何故、結果はこうなってしまったのか。
頭に思い浮かぶ彼の顔が、ぐにゃりと不気味に歪んでいく。
優しさがあると思っていた。思慮深さがあると思っていた。
けれどもそれは、全てが上辺の嘘だったのだ。
執念深く、狡猾で、自分の為ならばどんな手でも使う、そんな真っ黒でどろどろとした心こそ、彼の本質に違いない。
遠くで地鳴りのように雷が鳴り、雨が一層激しさを増した。
その時、野下の耳に嵐の所為でも電話の所為でもない音が届く。
外から聞こえるその音を確かめようと、野下はのそりと立ち上がる。窓の端から外をのぞき、そして目を見開いた。
人、人、人。
この嵐の中、おびただしい数の人間が、第二実験室のある研究棟の下に集まっていたのだ。
撮影用のライトが光り、カメラのレンズがこちらに向けられる。
マスコミも、それ以外の人間も、皆が責め立てるように第二実験室を一点に見つめ、野下へ外に出てくるよう叫んでいた。
雷光が辺りを一瞬照らし出す。
そして、野下は見つけた。
地上の集団の中の、松崎と黒木の姿を。
彼らは嗤っていた。
野下がいるのは七階だったが、二人のその醜悪な顔だけは、はっきりと見て取れたのだ。
「お前達さえいなければ……!」
野下は窓ガラスに顔を押し当て、地上を凝視する。
彼らさえいなければ、自分が絶望に落とされることはなかった。
博士課程を卒業し、いずれはどこかで研究に携わる人生を歩もうとしていたのに。
「呪って、やる……!」
生きているうちに叶わないなら、死んで亡霊になってでも、必ず彼らに復讐を果たす。
自分と同じ目に。いや、自分よりももっとひどい目に。
深い恐怖と絶望の中、助けを求めることもできずに死ねば良い。
怨念を込めた眼差しで、松崎と黒木を睨みつける。
直後。
空を裂くような激しい音を立て、すぐ近くに雷が落ちた。黄色い閃光がほとばしり、辺りをまばゆく照らし出す。
その光が収まった後、野下は窓ガラスを見て嘲笑した。
「ああ、これは……」
そこには怨念の籠もった表情をした自分の顔が、はっきりと焼き付いていたのだ。
「これは、僕の恨みの証だ。この悔しさとこの激情は、この身が朽ちても彼らに復讐を果たすまで決して消えることはない」
死んでもこの証を頼りに必ずここへ戻ってくる。
心の中へ、刻み込むようにそう誓う。
そして野下は勢いよく目の前の窓を開け放った。途端に身体は雨に濡れ、吹き込む風に髪が乱れる。しかしそれにも構わずに、野下は一歩前に出て静かに窓枠へ足をかけた。
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