第4話

結局研究ノートは見つからなかった。


そしてその冬の始め、松崎から渡されたデータで書いた論文を、野下は雑誌に投稿した。その丁度三ヶ月後、論文が採択されたというメールが届いたのである。通常は査読審査で何度か修正を求められた上、一年近くやりとりして採択という論文がほとんどの中、異例のスピードと言えるだろう。


公表とともに多くのメディアがその研究成果を取り上げ、取材の為に野下の元へと訪れた。野下は罪悪感で胸を痛めながらも、それを隠して全ての取材に応じていた。


そして論文の採択連絡から数ヶ月、野下の研究ノートが消えてから丁度一年。再び訪れた暑い夏のある日に、第二実験室の入り口にある固定電話が鳴り響く。


「ん、誰だろう……」


外を照らす太陽の熱など知りもせず、冷房の効いた第二実験室の奥で博士論文の準備をしていた野下は、小走りで電話を取りに向かう。


「はい板野大学、松崎研です」

『野下優一さんはいますか?』


電話の相手は名乗る事なく突然野下を指名してきた。相手は女性に間違いないが、その声色は低く冷たく、明らかに怒っているようだった。


もしかして、自分の不正がばれたのか。


さっと体中の血が引いていくのを感じながら、野下は震える声で「私です」と答える。


すると電話の主は、野下が投稿した学会雑誌の編集だと名乗り、それに続けて信じがたいことを口にした。


『数ヶ月前に採択されたあなたの論文のデータに、改竄――盗用の疑いが報告されています。ご説明いただけますでしょうか』


改竄。盗用。


身に覚えのない言葉で、野下の思考が停止する。冷たい汗が頬を滑り、ぽたりと床に落ちていった。


「そんな……。何かの間違いじゃ……」

『いいえ。確かに数人の研究者から同様の報告を受けているのです』


電話先の声は、まるで氷の槍のように胸を次々貫いていく。


野下は電話を耳に当てたまま、よろよろと自分が座っていた場所まで歩く。そして実験台の上に置かれたノートのページを次へ次へとめくっていった。


そして、見つけてしまった。


表に、図に。


意識して見なければ分からない、けれども専門に研究していれば分かるはずの詐称の証が、いくつもいくつも見つかった。


「嘘だ……」


目の前の事実を、野下は受け入れることができなかった。


研究不正は、確かに行った。それは責められるべき事で、もし明らかになったなら、謝罪すべきと思っていた。


けれどもデータの改竄などは、全く見に覚えがない。

 

野下は研究ノートをじっと見つめた。電話の向こうの女性の話がうまく頭に入ってこない。

 

脳内ではこの一年の出来事が、走馬灯のように流れていく。そして最後にある人物の顔が浮かんだとき、野下ははっと目を見開いた。

 

がしゃん、と。

 

掌から滑り落ちた電話機が、床に当たって音を立てた。衝撃で電話は途中で途切れ、ツー、という音がむなしく部屋に響いている。


しかし野下はそれに構わず、ノートを掴んで第二実験室を飛び出した。早足で蓋部屋分の廊下を歩き、そしてその勢いのまま教授室の扉に手をかけようとしたその時、部屋の中からくつくつと笑う声が聞こえた。


「どうやらうまくいったみたいですね、松崎先生」

「ああ。これも全て君のお陰だよ。本当によくやってくれた」


それは松崎と、同期の黒木の声だった。野下は扉から手を離し、息を殺してその会話に耳を潜める。


外に人がいることにも気づかず、松崎は意気揚々と話し続けた。


「野崎君の研究データを奪った上で、代わりに失敗した私の研究のデータをすこしいじって彼に渡し、そのデータで論文を書かせる。我ながら、なかなかうまい手を思いついたものだ」


「あの細工の仕方ではすぐには気づかれないでしょうしね。成果が成果ですし、論文が出た直後のあのマスコミの騒ぎようから考えれば、野下はもうこの業界では生きていけないでしょう。ね、先生。成功しましたし、これで企業への推薦は決まりですよね?」


「ああ。野下君の研究成果を使って私が正確な論証を書けば良いだけだ。私は用心の為に数値を変えたデータを保存しておいたのだよ。それをどう扱うかは彼自身だ。すべては良心の問題だよ」


「なるほど、さすがですね」


「とにかく君には学費免除の申請も用意したのだ。何もかも、これで丸くおさまるだろう」


「ありがとうございます。……ところで、何故こんな手を使ったんです? そのまま野下が自分の研究成果で論文を書いていても、先生は指導教員という事で業績になりますよね? 逆にこんな手を使えば、論文の不備に気付かなかった事を糾弾されるのでは……」


「野下君でなければ、私も何もしなかったよ。大学の運営がね、野下君を留学させて、助教に指名しようとしているんだ。いずれ教授の席が空くといってね。私も、やはり立場というものは気になるのだよ。それに、私が不正をさせたという形にならなければ、私の負う傷も軽いだろう」


野下は絶望した。


二人はまるで楽しい食事の話でもしているかのように、笑いながら恐ろしい言葉を吐いている。


ああ、そういうことだったのか。


野下は俯きながらその場を離れ、第二実験室の中に戻る。そして扉を閉めた瞬間床にすとんと崩れ落ちた。


目を閉じたまま天上を仰ぐと、はらりと一粒涙がこぼれた。


それから堰を切ったように、涙が次々とあふれ出す。


気づけた筈だ。


同じ分野の研究をしていた自分であれば。


いや、そもそも何故はじめから周りを疑わなかった。業績に伸び悩み、後がなかった教授が自ら不正を促したことを、何故不信に思わなかったのだ。


涙がこぼれ落ちるごとに、心の中が黒いもので埋められていく。


その時、床に落とした電話が再び大きな音を立てた。


野下はおもむろに立ち上がり、よろよろと電話の側まで歩み寄る。電話を耳にあて、通話ボタンを押した瞬間、激しい女性の声が電話の向こうから響いてきた。


「野下さんですよね!? 不正をしていたというのは本当ですか! どういう考えで不正を行ったのですか!? 野下さん! 答えてください!」


電話先の女性は、その話しぶりからマスコミ関係であることは予想が付いた。


おそらく、学会雑誌に関わる誰かが不正のことを公表したのだろう。論文には査読があった。彼らもそこでミスを犯した事を深く追求されたくなかったのかもしれない。


こういう不祥事ほど、彼らはすぐに嗅ぎつけてしまうのだ。


「違うんです。僕は嵌められたんです。データの詐称や盗用なんて、僕はしていない……」

「していないんですか? どこに証拠があるんです? 明らかに、あなたの名前で書かれた論文のデータが別の論文のデータと一致している証拠もあるのですよ? あなたがやったんですよね? やったんですよね、野下さん?」


わかっている。


彼らは、弁明なんて聞き入れる気がないことを。ただ真実を知ろうとする振りをして、標的をつるし上げようとしているだけだという事を。野下が何を語ろうと、彼らは決して耳を傾けなどしないのだ。


通話を切ると、またすぐに電話が鳴った。しかし今度は応じることなく実験台の上に放置する。


いつの間にか、窓の外は灰色に染まっていた。照りつける太陽も、爽やかなほどの青い空も、全てが雲に覆われている。


野下は電気を消して窓際の隅にうずくまった。そして全ての音を拒否するように両耳を塞ぐ。


薄暗い部屋の中、電話だけが延々と鳴り続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る