第3話
それから二日後のことだった。
「ない……」
午前九時、野下は顔を真っ青にしてパソコンの画面を見つめていた。開かれているのは野下の名前の付いたフォルダだったが、中にはデータらしきものは入っておらず、「このフォルダは空です」の文字が寂しく浮かび上がっている。
「どうしてだ? 昨日は確かに入っていた筈なのに……」
昨夜、今日の研究面談の準備の為に、フォルダの中を整理していた。その時、このフォルダ内を何度も何度も確認したのだ。
まさか、間違って削除してしまったのだろうか。
しかしゴミ箱のフォルダを開いても、それらしきデータは見当たらない。
「でも、パソコンが駄目なら実験ノートが……」
混乱する頭で席を立ち、野下は実験室の入り口の横にあるキャビネットの鍵を開けた。
頭が、心臓が、さっと冷たくなる感覚がした。
そこに並べられていたはずの、この一年半分の実験ノートが全て消えてなくなっていたのだ。
「これは、どういうことなんだ……」
野下の研究に関するデータが、全て第二実験室から消えている。この部屋は備え付けの実験器具の種類が少なく、普段から野下以外の院生が使う事は滅多になかった。故に、他の院生達が自分のものと取り違えたり、間違ってデータを消したりした可能性はかなり低い。自分が無意識に何かをしでかした訳ではないのなら、考えられる理由は一つだけだ。
松崎研の面々を思い浮かべ、野下はその考えを振り払った。まだ、そう判断するには早すぎる。
ひとまず心辺りがありそうな相手に聞いてみようと、野下は隣の第一実験室へと向かう。扉を開くと、肩まで伸ばした髪を後ろで結んだ眼鏡の男が、薬品の入った保管庫の前からこちらを振り向いた。
「野下……。珍しいな。向こうの部屋から出てくるなんて」
「黒木、丁度よかった。聞きたい事があるんだ」
この黒木和也は同じ博士二年の院生で、一時期共同研究をした事もある。松崎研で野下の研究内容を本人と教授の次によく知っている彼ならば、消えたデータの行方も分かるかもしれない。そんな期待を込めて、野下はこれまでの状況を一通り説明した。
しかし話が終わると黒木は首を横に振る。
「知らないな。資料を運んでいる奴も、見ていない。そもそもお前、キャビネットに鍵をかけていただろう。あの鍵はお前と教授しか持っていない筈だ」
「そっか……。そうだよな……。しかし黒木も知らないのなら、どうしよう……」
野下は蒼白した顔で肩を落とす。黒木が知らないとなれば、他の院生達に聞いても見つかる望みは薄いだろう。研究結果は実験室内に保管しておかなければならないので、自分でノートのコピーや電子データのバックアップを保管していない。このままでは論文投稿もできず、卒業することもできなくなってしまうのだ。来年卒業予定の野下には、一から研究をやり直せる程多くの時間は残されていない。
憔悴しきった顔でそんなことを考えている野下に、黒木は「まぁ」と声をかけた。
「とりあえず、松崎先生に相談して見れば良いんじゃないか。もともと今日は研究面談なんだろう」
「うん、そうだね……。そうしてみるよ。ありがとう、黒木」
野下は無理にぎこちない笑みを黒木に向けて、そのまま第一実験室を後にした。そして今度はさらに隣の教授室へと足を運ぶ。
「松崎先生、少しいいですか?」
扉を開くと、壁中本棚に囲まれた部屋の奥で、中年の男が椅子に座ってパソコンと向かい合っていた。白髪交じりの灰色の髪に、やや恰幅のいい男が、指導教授である松崎英二である。
「おや、野下くんじゃないか。どうしたんだね。まだ、面談の時間ではないだろう」
彼は椅子から立ち上がり、来客用のソファに腰掛け、野下へ自分の反対側に腰掛けるよう促した。野下は小さく頷いて、松崎の正面の椅子に座る。
「さて、どうしたんだい。どこか顔色が優れないようだけど」
丸いレンズの黒縁眼鏡の向こうで、垂れ気味の目が心配そうにこちらを見つめている。野下はおずおずと口を開き、黒木に話したことと同じ事を松崎に説明した。
「実は、パソコンに保存していた研究結果のデータや実験室のキャビネットに入れていた研究ノートがなくなってしまって……」
松崎は深刻な表情を浮かべて野下の話を聞いていた。瞳を閉じ、額には何本もしわを寄せ、時折唸るような声を出す。
「そうかね……。うちの研究室でそんな事が……」
「どうすれば良いでしょう。僕としては研究ノートだけでも見つけたいのですが、松崎先生は誰か心当たりありませんか?」
松崎は目を閉じたまま静かに首を横に振る。
「全く以て見当も付かん。知っての通り第二実験室は君以外ほとんど使う者もいないし……。キャビネットの鍵を借りに来た院生もいなかったよ」
「そうですか……。でも、それじゃあ僕はどうすれば……。このままだと卒業できなくなる……」
野下は頭を抱え、消え入りそうな声で呟いた。目尻がじんわり熱くなり、瞳から涙がこぼれて落ちた。
松崎は顎に手を当てたまま唸っていたが、やがて目を開いて席を立つ。
「……あまり、これは良い手段ではないのだろうが」
そう呟きながら、松崎はデスクワゴンの三段目の引き出しを開く。そこから使い込まれた大学ノートを二冊取り出し、それらを野下へ差し出した。
ノートの表紙には、油性マジックで「ALK遺伝子変異型肺がんと化合物Xに関する実験記録」と書かれている。ぱらりと表紙をめくってみると、研究の概要が綴られており、それはどこか野下の研究内容と似通っていた。
「これは……?」
「それは私がやっていた研究なんだ。覚えてないかな。一年前、入学したての頃に君にも手伝ってもらっていたんだが」
「ああ、そういえば」
自分の研究テーマが決まらず悩んでいた頃、野下は松崎に誘われて彼の研究をしばらく手伝っていたのだ。自分の研究テーマは松崎の研究内容からヒントを得て、その研究を派生させたものなので、研究内容が似通っているのも当たり前である。
「で、これをどうすれば……」
ノートのページをめくりつつ、野下は困惑した表情を浮かべる。
その目の前で、松崎は信じられないことを口にした。
「その研究を、君の研究として論文投稿すればいい」
「えっ! それは……」
野下は思わず大声を上げた。
相手から許可を得ているとはいえ、他の研究者の研究成果を盗用し丸ごと自分のものにして論文投稿するという行為は不正行為に関わるのではないのだろうか。事が明らかになれば、野下自身も指導教員である松崎もきっと無事では済まないだろう。
「しかし、これ以外他に方法があるのかね。君のノートが見つかる当てがあるのならよいが、今のところないのだろう。このままでは卒業できなくなってしまうよ」
心の中で善悪がせめぎ合う野下へ、追い打ちをかけるように松崎はそう言った。
野下はじっとノートを見つめる。不正と卒業を天秤にかけて考えること数十秒。覚悟を決めた野下は無言でこくりと頷いた。
「そうかね。分かった。ではそのノートは君に預けておこう。それから後で電子データも渡しに行くよ。論文は途中まで書いているものがあるから、それを元に書いていくと良い」
「分かりました……」
葛藤を胸に押し込めて、野下は噛みしめながら呟いた。それと同時に、自分のために罪を背負ってくれる松崎に、心から感謝したのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます