第2話
「野下さん、この前の学会でもまた賞をもらったんですよね!?」
夏の蒸し暑い昼下がり。冷房で冷えきった第二実験室の片隅で野下優一がサンドイッチを頬張っていると、修士二年の後輩が突然部屋に飛び込んできた。
驚いた野下はサンドイッチを喉に詰まらせそうになり、慌ててペットボトルのお茶を飲む。ずり落ちそうになった眼鏡を押し上げて、茶色いくせ毛の頭を掻きながら横目で宮野を見た。
「いや、運がよかっただけだよ。それにあれは、研究を手伝ってくれたみんなのお陰でもあるし」
「またそうやって謙遜する。博士二年の先輩とはいえ、さすがに三回目の受賞だとその才能はごまかせません。野下さんは松崎研のエースですよ!」
彼はそう言って何故か得意げな顔をする。
謙遜している訳ではないのだが、と思いつつ、野下はもう一口サンドイッチを頬張った。
板野大学薬科学系研究科「がん先端ゲノム治療薬学講座」、通称・松崎研には宮野ら修士課程の院生十人と、野下ら博士課程の院生四人、合わせて十四人の院生が在籍している。
しかし、世界中がしのぎを削る分野の中で賞と名の付くものを取る院生は滅多にいないのだ。そんな中、野下は先週末開かれた学会で最優秀発表賞をもらったし、過去にも二回ほど別の学会で似たような賞をもらっている。故に研究者の扉を叩いたばかりの後輩には野下が突出して優秀であるかのように見えているのだろう。
野下の研究はALK遺伝子変異型肺がんに有効な新たな化学物質を見つける事で、三人にひとりはがんで死ぬと言われている現代、確かに注目されやすいテーマではある。
しかし研究は教授からアイデアをもらい、修士の後輩達に実験を手伝ってもらって行ったもので、野下が賞を取ったのは、単に研究主任である自分が、一人で学会発表の場に立ったからだと思っていた。
手に残っていたサンドイッチを全て食べきると、野下はいつの間にか隣の椅子に腰掛けていた後輩に向き直る。
「研究は一人でするものじゃないよ。研究に関わったみんなに対する賞で、発表したのが僕だったから僕が代表してもらっただけだ。少なくとも、僕はそう思ってる」
野下が微笑むと、彼は大きなため息をついた。
「……やっぱ野下さんってすごい人ですよね。なんでも教えてくれるし、優しいし、その上研究の才能もあるし。修士の院生はみんな野下さんを尊敬してますよ。……ああ、野下さんが教授になってくれたらいいのになぁ」
がっくり肩を落とし、再びため息をつく後輩の様子に、野下は首を横に傾げた。
「……どうかしたのか?」
「いえ……。実は、修士論文用の結果を面談で松崎先生に話したら、ぼろぼろに言われまして……」
「ああ……」
野下は苦笑いしながら頷いた。
松崎研では年に四回、教授に研究の進捗報告と今後の相談を行う研究面談があり、夏の面談の時期が丁度今なのだ。野下の面談は二日後だったが、彼は先程面談を終えたらしい。
「修士二年は卒業年度だから他の学年より面談が厳しくなってるのかもしれない。まあ、そう気を落とすな」
「でも松崎先生、冒頭から全否定するんですよ? 元々の研究も実験も全部先生のアドバイス通りにやったのに……。松崎先生、最近業績出なくて教授下ろされる、って噂もあるし、絶対それで苛立ってるんですよ……」
「さすがにそれはないんじゃないかな……」
実験台の上に頭を突っ伏す後輩の横で、野下は曖昧に微笑んだ。
研究室の評価は主に学会雑誌への論文掲載数と外部資金で決まるのだが、ここ数年、院生どころか教授に至るまでそんな話は一つもない。
おそらく卒業の為に論文投稿が必須となる博士の院生達が、毎年一人、二人と中途退学していく事が原因の一つなのだろう。
長年成果を上げられない研究室に対し、ついに今年、大学の運営側は数年以内に一つでも業績を出さなければ教授解任と通告したらしい。
しかし松崎はこの学部の教授陣で一番優しいと言われている程、普段は温厚で思慮深い性格だ。きっと心の中で思う事はあるのだろうが、それを表に出して院生を困らせるような教授ではないと野下は思う。
「大丈夫だよ、今年は僕が論文投稿するし、研究はなくならないよ。僕でよかったら研究、見てやるから」
「うう……。野下さん……。じゃあ早速お願いして良いですか……?」
彼は今にも泣き出しそうな声を上げると、パソコン取ってきます、と言い残して第二実験室を出て行った。
野下はその後ろ姿を、「やれやれ」と呟きながら鼻を鳴らす。それから実験台の上に残ったサンドイッチ二切れを、後輩が帰ってくる前にと口の中に詰め込んだ。
第二実験室で実験をして、時折休憩しつつ彼らの研究に助言をする。
それは野下にとって、松崎研で過ごす普段と変わりない昼下がりだった。
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