嵐の夜の七一四号室
紅林オト
第1話
外の嵐はひどくなるばかりだった。
ごうごうと風が唸り、激しい雨が教授室の窓ガラスを叩いている。夜に入ってバスも電車も運転見合わせとなり、私は家に帰る事かできないでいた。
しかしそんな外の様子に対する不安は、今しがた届いた一通のメールで私の頭の中から消え失せた。
「あなたの論文が本学会雑誌に採択されたことをお知らせ致します」
メール文頭に書かれたその文字を、私は五度読み返した。そして長いため息をつき、椅子の背もたれに身体を預ける。
長かった。
本当に、長かった。
苦労して結果を手に入れてから実に三年。ようやく論文を世に出せた。あの研究成果は世の中の肺がん治療の常識を覆すもの。新薬の開発が一気にと進み、そして私にとってもかなりの業績になるに違いない。教授の立場もこれでしばらくは安泰だ。
安堵の思いで席を立ち、大きくのびをする。そして机の脇に置いたインスタントコーヒーの蓋を開け、スプーン二杯分の粉をマグカップへと入れた。
その時隣の実験室から、ばん、と勢いよく扉の開く音がした。ばたばたといくつかの足音が聞こえてきて、直後に教授室の扉が開かれる。
「先生!」
実験室で実験をしていた三人の院生が、手に試験管やらシャーレやらを持ったまま、真っ青な顔で飛び込んできた。
「あの、実験室の隣の部屋から、物音がするんです!」
「七一四号室は使用禁止で鍵もかかってる筈なのに、ばん、ばん、って窓を叩いているような……」
「僕たちも始めは嵐の所為だと思ってたんですけど、風じゃあんな音にはならないと思うんですよ!」
七一四号室。そこは三年前まで私の第二実験室だったが、今では立ち入り禁止となっている。とある出来事を境に大学の事務員達が鍵をかけ、以来誰ひとりとして入っていないはずだった。
「先生、あの部屋の鍵、持ってますよね? お願いです、様子を見てきてください!」
一人の院生頭を下げると、続けて他の院生も頭を下げた。
確かに、あの部屋の鍵は私の机の中にある。正直、あの七一四号室には近付きたくもないのだが、こうも院生達に頭を下げられては仕方がない。
「分かった。様子を見てくるから、君たちはそこで待っているように」
そしてデスクワゴンの一番上の引き出しの中から七一四号室の鍵を取りだし、院生達の感激の眼差しを受けながら教授室の外へ出た。
ばたん、と背後で扉がしまる。
廊下は、真っ暗だった。
普段なら人が廊下を歩けばセンサーで電気が付くのだが、今はこの嵐の所為か反応しない。私の教授室と、院生達のいた実験室から漏れる明かりが、心許なく廊下の端を照らしているだけだ。
息を呑み、私は一歩を踏み出した。
こつり、こつり、と足音が廊下に響き渡る。額を伝う汗の理由が、蒸し暑さなのかそれ以外なのか分からない。
緊張、恐怖、その他諸々混ざったような感覚を抱きながら、私は七一四号室の前に立つ。そこは七階廊下の端で、横に壁があるせいか他の場所より一層暗く感じた。非常口を示す緑のランプが、頭上でジーという音を立てている。
雷が鳴った。
扉に付いた硝子窓の向こうは暗くて何も見えなかった。部屋のドアノブに手をかけてみたが、勿論鍵は掛かったままだ。私は震える手で鍵を差し込み、右にひねった。
かちり、と。
恐怖にも似た音を立て、部屋の扉の鍵が開く。
きっと、院生達の気のせいだ。この中には何もいない。
そう自分に言い聞かせながら、私は三年前の記憶と共に部屋の扉を開け放った。
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