#04

 生きている人間に対して興味を失ったのはいつだっただろうか。忘れてしまった。レイプされてからか。あるいは酷い死体を作り出すサイコパスを幾度となく見てきたからか。

 遺体と語らうのは誇りを持って好きだと言える仕事だ。遺体は私が知りたいと願うことをそっと教えてくれる。一本の神経系を手繰り寄せるかのように、蜘蛛の糸が切れないようにと慎重に辿るように、遺体の死因を調べる。私にとってそれは心地よく、例えていうなら何十年も会っていなかった親友に突然出会えたようなサプライズと親しみのある空間だ。解明困難な遺体に出会ったときでさえも、その謎に真摯に向き合えば、必ず死者は答えをくれる。答案用紙にAプラスをつけてくれる。


「俺の名前はマーサ」

「マーサ? マーサ・スチュワートのマーサ?」

「そ。インサイダー取引についてインタビューされたのに、サラダの話にしてと言ったマーサ・スチュワートのマーサ」


 ピンクベージュの美味しそうな唇が弧を描いて笑った。

 私は今なんて思った? 美味しそう? 


「見た目も女っぽいのに名前も女っぽいんだよね、俺。名前が女だと女っぽくなっていくもんなのかな」

「女っぽい格好を選んでいるのは君だろ」

「マーサ。名前で呼んで。おにぃさん」

「……女の格好を選択しているのはマーサ、おまえだ」


 マーサを見つめれば背後にある時計も視線に入ってきた。時間は誰に対しても平等だ。だからこのマーサと会話している時間が惜しい。今からならどこかのダイナーに寄れるだろう。この時間ならオリーブが美味いあのハンバーガー屋だって空いているはずだ。


「この靴は今晩の仕事に必要だっただけ。あの鞄がここにあるってことはもうわかっているんでしょ? 俺が犯罪者だってこと」

「どーでもいいんだって。それを聞きたくはないんだ」

「なぜ?」


 FBIだから。という言葉が口の中を這いずり回り、口から出ずに体に落ちていった。吐瀉物が口から出た途端、吐瀉物になるのと同じだ。飲み込めばゲロにはならない。飲み込めば言葉にならない。


「そっちもワケありか」

「ま。……そんなとこだ」

「俺、ファイトクラブで働いている。かなり強いんだよ。ここ最近勝ちすぎててさ、ハンデで見物客の女物の靴履いて戦えって言われたわけよ。まぁ、それくらいが丁度いいと思ったら、久しぶりに派手にやられちゃってね」


 だから聞きたくないって言ってんだろ。

 にこにこと笑っているマーサを横目に、私はまた酒を注ぐ。ミラー捜査官に一報入れなければならなくなった。……しなくていいか。しなくていいんじゃないか? する必要ないだろ。私の中で悪魔が囁く。


「あれ? 近くに俺のバイク無かった?」


 今夜は長そうだ。



 夜の闇に紛れる。月明かりがまるでさざなみのように揺れる。その水面を縫うように歩く私とマーサ。

 マーサは私の家にあの女物の靴を置いてきた。歩きつらいったらない、と呟いていた。私としては置いていくということはまた取りに来るということなのだろうと、また盛大に溜め息が漏れた。彼は今、裸足で歩いている。靴を貸してやろうしたが、私と彼とでは靴のサイズが違く、歩きつらいと文句を言われた。これじゃぁ、靴を脱ぐ意味がない、と。こいつはこの汚れた足をどうするつもりなのか。

 今の部屋を借りた一番の理由は深夜、騒がしくないという点だった。それが私の優先事項だ。叩き起こされるのは残虐極まりない犯人が起こした遺体が見つかったという電話だけでいい。だからマーサを見つけたゴミ捨て場はこの深夜、静寂に包まれていた。


「やー、やっぱり無いかぁ」

「だから無いって言っただろ」

「……いやでもさ、もしかしたら、ワイアットが見忘れていたって可能性あるでしょ?」


 ない。私は検死官。なにかを観察し記憶し、記録するのが仕事だ。そのほかは苦手だとしても観察や記憶というものには長けていると自負している。だから、だ。バイクなんてものは無かった。さっき部屋を出る前にも言ったが無いんだよ。


「あれだけ金があるならまた買えばいい」

「ま。そーなんだけどさ。ちょっと改造してたりしたから愛着もっててね。どこに置いたんだろ? 全く記憶にないわー」


 月の明かりに照らされて、部屋で見たときよりも色素の薄いマーサが目線に入る。白い肌に白銀の髪の毛。女性的に細い体を捻り、絶対そこには無いだろって場所を探している。閉まっている店の玄関先とか。一目瞭然無いだろ。けたけたと笑いながら探すマーサ。

 空を見上げる。満月が近いらしく、空に浮かぶ月はでっぷりと太っていた。犯罪にも周期があるのはFBIでは有名な話だ。人間の心には規則性がある。女の月のものと同じだ。満月に犯罪が起きることは多い。また、満月を象徴として犯罪が起きる場合もある。どのような理由にせよ、警戒を怠らないようにしたほうがいい。


「あった!」


 煙草を咥えて火を点けようとしたときだった。そんなデカいマーサの声がして、声の主を探す。近所迷惑が嫌でこの近くに越してきたのに、まさか私たちが近所迷惑の元になるとは。声を抑えろ! と注意しようとしたとき、マーサは私の前に姿を現す。


「さっき言ってたやつ!」


 にこにこと嬉しそうに笑うマーサは私が捨てた食料品の紙袋を持っていた。私はここに来るまでにことの経緯を語った。そのとき、ふいに「食料品を捨ててきた」と言葉に出していたらしい。無くなっていなかったなんて、なんてここら辺の治安はいいんだ。マーサに手渡され、袋を開ける。中身は置いてきたときとなんら変わらない。


「でもさっき鞄から金取ってきたからどこか寄ろうよ。奢る」


 確かに私はマーサがあの鞄から百ドル札を何枚か引き抜く姿を見逃さなかった。



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