#02
パブロフの犬とはこのことだろう、と確信した。地下室に設けられた解剖室からはクラシックが流れてきている。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第七番イ長調、第三章の終盤が大音量で鳴っていた。クラシック曲は仕事にかかせない。解剖室でクラシックが流れていればそれは仕事の合図だ。私の細胞ひとつひとつが、どうにも仕事をしたくないと叫んでいる。が、パブロフの犬ごとく脳は仕事モードに切り替わっていくのだ。
「ザック。まだ金魚を解剖しているのかい?」
「あ! ルート先生、お帰りなさい。よく休めましたか?」
私は肯定を否定もせず、ひらり手を挙げる。ミラー捜査官のおかげで休めなかったよ、と言えば違法ファイトクラブの話もしなければならない。今の無気力さでその話をするのは少々疲れる。私は自分のデスクの引き出しに煙草とスマートフォンを滑り込ませ、アイザックを見つめる。
「いや…これがなかなか小さくて解剖学しにくいんですよ……」
「大きい物だって得意ではないだろう」
「先生、手厳しいなぁ」
はは、と苦笑いをしたザックからはふわりと中華の匂いがしてくる。こいつ歯を磨かなかったなぁ、なんて思考になり、仕事脳になっていた体が緩む。
ザックはまだまだ新人ながら容量よく仕事をこなし、助手として頼りになる存在だった。私がまだここの助手だったときはザックほど的確にサポートはできていなかっただろう。
その優秀なザックは麻薬中毒者の胃袋の中から発見された金魚を解剖している。ルーペで拡大した金魚は腹をこちらに向け、骨を露出させている。
「多分、なにもないと思います」
「多分じゃ駄目なんだ」
「……じゃぁ、確実に」
「ふぅん」
解剖は何体か同時進行で行うことが多い。この数日はギャングの物取りで銃撃されなくなった男性と麻薬中毒で亡くなった男性を扱っていた。どちらもFBIが黒幕、大本を検挙したいとこの地下室に連れてきた。
麻薬中毒者は死ぬまえ、金魚を飲み込んでいた。その数九匹。なにか意味があるのかとザックに解剖を依頼した。意味はないと、今ザックの手により解明した。
「それはそうと、確か明日お休みでしたよね。デートだったりするんですか?」
「……ザックは他人のプライベートに口を挟むのが好きだなぁ」
「そりゃぁ、先生ですもん。先生は死者と話をするとき素晴らしく輝いて見えますからね。生きている者にはどう口説くのか知りたいですよ」
青い手袋を脱ぎながらザックはにしし、と笑った。私は確かに死者に対してはリスペクトを怠らない。だからといって生きている者をそれ以上に敬愛するとは限らないだろう。彼は私が夜ごと女を取っ替え引っ替えしているとは微塵も思わないのだ。うぶだね。
「そりゃぁ、もう、女王様ってほどに口説くさ」
女王様ってほどに口説く……とは言ったもののどうしたものか。
明日の休みのために買い出しに来た帰りのことだ。ゴミ捨て場にぐったりと寝そべる女性を見つけ、思考が停止する。白いシャツにジーンズ、ピンク色のヒールという出立ちの女性は長い髪の毛で顔を隠し、派手に伸びている。
「おねぇさん? 生きてる?」
恐る恐る声を掛ける。正直こういうのは苦手だ。私は検死官。だが、所属するのは一応FBIだ。なにか事件絡みであればミラー捜査官に一報を入れなければならない。入れずに事件となれば後でどれほどどやされるか。
私は必要最低限に買い込んだ紙袋を抱え、ゆっくりと女性に近付く。生ゴミの匂いが鼻につき、思わず顔を顰める。路地裏には月の光が当たらず、街灯もない。彼女がなぜここにいるのかも判断がつかなかった。酒の匂いはしない。
ふと目についた白シャツに飛び散る血。私は思わずスマートフォンを取り出し、ライトを起動させる。そして彼女の胸元を照らした。やはり点々と血が付着している。……事件絡みか。明日来るはずだった女から生理だと言われたときと同じ大きな溜め息が漏れ出た。
というより、明日女が来なくなったから食料品を調達しなければならなくなった。食料品を買いにこなければこの女性を発見しなかった。運の悪さにとことん腹が立つが、まぁ、そんなこと言っていても埒が開かない。
「おねぇさん、911必要?」
だらんと伸びた細い手首に指を当て、脈拍を測る。生きてはいる。血の付着具合を見ても、刺創があったとしても命に関わることではないだろう。
月明かりがビルの谷間から伸びてきた。そこで見つけた大きな鞄。女性が持つにはあまりにも大きなそれに首を傾げる。──……家出か、夜逃げか、誰かから逃げているのか。中を確認したら免許証があるかもしれない。そう思い鞄を開けた。
「……おいおい、ウソだろ」
そこにはベンジャミン・フランクリンの顔が印刷された百ドル紙幣が何枚も何十枚も、いや、何百枚かもしれない。大量に入っている。一体いくらになるんだよ。こんなものを持ってこんな場所に寝てたら間違いなく犯罪に巻き込まるぞ。
「おい! 起きろ!」
叫んだところで女は起きない。月明かりで彼女の全貌が露わになっていく。ピンク色のピンヒールがやけに色っぽく存在を主張していた。私は今日買った食料品を地面に置き、彼女を引き寄せる。やけに細い体はすんなりと抱えられた。自らの肩に彼女の腕を回し、彼女を背負う。
そのときに見えた。手の甲に痣がある。裂傷ほどにはいかないが第二関節と第三関節が赤く腫れ上がっている。
違法ファイトクラブ。ナタリーの言葉が頭に浮かんだ。
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