第9話 ホテルと焼き鳥屋 2
今はもうユージが国境越えをやっていた。私はバンコクのエアコンの訊いたプールつきのホテルで管理をすればよかった。時間があまるのではじめはプールサイドで、それも面倒になり自室で本ばかり読んでいた。
本はタニヤ通りのDDブックや、スクンビット通りのサバイブックスで買った。どちらも日本語の古書店で、週に一度くらい出かけて、七、八冊買うとちょうどよかった。
このころは本当にたくさんの本を読んだ。日本で高校生をしていたころは、ゲームやテレビ、漫画に映画と娯楽が多すぎた。バブルの終わりの時代だったから企業のメセナの絵画展などもレベルが高かった。
しかしタイに来ると、日本語の娯楽は本しかない。
少なくともネット回線がおそいバンコクでは日本語のコンテンツは楽しめなかった。DDブックは漫画の貸本もしていて、はじめはハマったが、重さに音をあげて文庫本と単行本が主流になった。
ジェフリーアーチャー、フォーサイス、椎名誠、東海林さだお、高島俊男の本があればすぐに買った。
それまで日本で数ある趣味という時間つぶしのなかの一つの積極的でもない選択肢だった読書が非常に快楽になっていた。
生徒のころは克己のための読書だったが、読んで楽しいという娯楽としての読書をこのときに覚えられたのはよかった。
一年まえに私がトムにしていたように、ユージが週に一度は報告にくる。
私がトムへの勘定でちょっとずるしていた所を、ユージも同じようにごまかそうとしていたが、先達に習って見ないふりをした。
ユージはもともとキツネ顔で顎が鋭かったが、このところ目がぎらぎらしてすこし怖い顔つきになっていた。
その日はめずらしくジューンがホテルに電話してきた、昼すぎだった、夜に会いたいという。
最近行きつけのホテルのレストランが数件頭にうかんだが、あえて焼き鳥屋でいいかと訊いた。
「それは良いな」
とジューンは言って、時間を決めてエカマエ通りの鳥屋で会うことにした。
そこの店はよくバンコクにある焼き鳥屋で、しかし日本とちがうのは一羽丸焼きだったり、プラスチックのテーブルが車道ちかくまで張りだしていたりするところだ。
先についた私は取りあえずシンハビールに氷を入れて飲んで、通りをみつめた。東京より景色がやわらかい。ネオンの明かりもやさしい気がする。
通る車の八割は日本車だ、残りの二割が欧州の高級車。そこにバイクタクシーやトゥクトゥクという三輪車がはしる。
二杯めのまえにジューンが来た、色あせているが趣味のいいTシャツにデニムのハーフパンツ、まえよりさらに短くした髪で美男子になっていた。
私たちは鶏を一羽とソムタムというパパイヤサラダをたのんだ。料理が来るまでは黙ってビールをのんだ。
シアヌークビルのカジノ船ではきれいにナイフとフォークをあやつっていたジューンだったが、ここでは手づかみだ。ローストされた一羽がくると、
「さてと」
獲物をみつめる猛禽類のように目を輝かせて取りかかった。尻を向けて大腿部が二本でているチキンを手先だけでバラバラにしていく。
「お前も食え」
と私の皿にも肉片を入れてくれるが、サーブするというより放り投げるかんじだ。
私はビールのつまみにそれをフォークで口に入れる。ジューンはあくまで食事がメインでビールは口を湿らすていどだ。するすると肉片がジューンの口のなかにはいっていく。
本来はカオニャオというもち米も蒸したものを、竹筒に入れたものといっしょにたべるのがタイ式なのだが、私はビールがあるし、ジューンはそれほど米をたべなかった。
カジノ船でも肉類ばかりでパンや麺をたべないので一度きいてみたら、
「そんな柔らかいものじゃ元気がでないからな」
と言っていた。たしかにジューンの体は男で通用するくらい筋肉が発達していて、ムエタイ選手のように引き締まっていた。
三十分も経たぬうちに鶏は骨だけになった。しかし彼女の手は指の先だけがよごれているだけだった。私は四、五杯めのビールをのんでいた。彼女はようやくビールに手をつけはじめた。私は顔をしかめた。食事のあとにビールをのむのは理解しがたかった。残った骨をパキパキ割っている、骨髄をすうつもりだ。私も髄はうまいと思う。
「話ってなんだ」
ジューンは割った骨をちゅうちゅうと吸いながら雑踏をみている。
「まあ、場所を変えよう」
彼女のおごりで支払いをして、トゥクトゥクに乗った。この頃タクシーばかりだったので、このバイクの駆動機でうごく三輪は久しぶりだった。
「カオサン通り」
彼女が言った地名も久しぶりにきいた。
トゥクトゥクは屋根はあるが横がひらいたオープンカーなので、あまりしゃべるのには適さない。大声で聞きかえすのもはしたないのでカオサンまで黙って行った。
フアランポーンというバンコク中央駅をとおる、夜のほうがにぎやかだ。道路の段差をひろってトゥクトゥクが跳ねる、外殻の鉄のバーをつかみ頭を天井のバーにぶつけないようにする。となりのジューンは長い足を組んで、手も胸のまえで組んでいる。よくバランスが取れるものだ。
王宮まえをぬける、ドライバーがハンドルから手をはなして合掌する。ジューンは腕をくんで虚空をみたまま、私は形ばかり頭をさげる。
民主記念塔が見えたら、カオサンはその裏だ。
大通りでおりて歩いていった。行き先は私が昔泊まっていたゲストハウスだった。ジューンはゲストハウスに入るときに番台のノックに目くばせをした。私の知らないところでなにかがおこったいやな予感がした。
しきたり通りに靴をぬぐと私のブランド物の靴下が目についた。ジューンは行き先の分っている確かな足取りで急な木製の階段を二階にあがった。案内されたのは南側の一番広いツインの部屋だった。
ジューンに続いて部屋にはいると、ユージが裸で床にすわらされていた。
「ヒロさん、助けてください」
ユージは明らかに暴行をうけたなさけない顔でたのんだ。私のうしろを猫のようについてきていたノックがドアをしめる。
ツインのベッドの両方にジューンとノックがすわり、ユージはその中間の床、私は立っていた。
「どういうことかな」
誰にともなく訊くと、ユージがなにか支離滅裂なことをあわててしゃべった。
それをジューンが説明してノックが補足する。二人の雰囲気が似ているとおもった。
それを感じたのか、ジューンがノックもおなじ難民キャンプの出身だと説明した。
ノックもそういえば肉が好きだ、そして二人ともクメール系の肉の付きかたをしている、すなわちしなやかで力強い躰だ。
ユージは情けない顔で訴えている。
どうやらカンボジア側から麻薬をもってきて、カオサンで安価に捌いたらしい。それで地元の顔役に目をつけられてこのありさまのようだ。
この場合、ノックとジューンは仁義を切りにきただけで、私になにかできることはもうほとんどなかった。
私のやることは責任をとることだけだった。顔役にそれ相応の詫び金を払う、これはノックがやってくれた。
またトムには私のミスとして報告した。トムには代役を探すまでが私の責任の範疇だとはっきり指摘された。
ユージの処遇は私とジューン、ノックで相談した。彼はあまり豊かな家の出身ではなかった。親に言って私が立替えた詫び金とジューンとノックへの迷惑料は払ってもらえそうもなかった。
私は散々ユージには儲けさせてもらっていたので、詫び金くらいは手切れ金として払ってもよかったが、それでは周りに示しがつかないのであった。
結局、彼には保険金詐欺の片棒をかつぐという安い仕事があたえられた。今はもう各保険会社や国どうしのルール作りのなかでこのようなことはできないだろうが、当時は海外旅行保険の損害補填がとてもザルだった。
アメリカのAIUなどはすぐに加入できて補償もあつかった。そのような保険会社の保険でノートパソコンやカメラをタイで購入してすぐに紛失、盗難や故障でも保険金がおりた。故障が一番いい。
盗難は警察の調書が必要で、紛失はおなじくホテル経由の届けがいる。故障は日本製の製品を「まちがって」電圧の高いタイのコンセントに直刺ししてしまったというのが通りやすかった。
当然ユージの保険金の掛け高はどんどん上がるので、いつかはパンクする。つまりクレジットヒストリーを散々落としたあげくに、無一文で放りだされる可能性が高い。日本人という属性によって、いきなりピラミッドの真ん中からスタートした彼は、今や下にいたはずのジューンやノックの手下に成りさがった。
ユージが抜けた穴は自分で埋めた。
この数か月、はしっこいユージに実務をまかせて、スクンビットのプールつきのホテルに泊まり、相手はエスタブリッシュメントばかりの商売に怠けていた自分にツケがまわったと覚悟した。
久しぶりの船での国境越えはきつかった、でもこれもながく見ていなかったジューンの笑顔で相殺された。再開後の一週間は筋肉痛になやまされた。
筋肉痛がおさまるころ、ジューンは段々と友人のラインを越えそうになってきた。
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