第10話 美少女と難民キャンプ 1

 はじめの徴候はカジノ船で酒を口にするようになった点で、つぎに私の中国人が経営する常宿に旅装を解くことがあった、別の部屋ではあるが。私は女性関係には奥手であった。


 その日の夜、運転はジューンとの交替だったので、それほど疲れていなかった。


 近くの市場でパックブンという朝顔の茎のような炒め物と、トムカーカイという鶏のココナッツ鍋をたべて、二人でビールをのんだ。


 三つ目の決定的なライン越えは、ジューンが米酒を注文したときだったと思う。お互いの色々な警戒ラインがさがっていたのだ。


 翌朝、のんだ量にしては軽い宿酔で目ざめると、ジューンはすでに帰盤の準備をしていた。盤谷はバンコクの中華読みである。


 バンコクという呼び名は、インドのカルカッタやボンベイが、コルカタやムンバイにもどったように、もともと英語圏の名称だ。


 もともとはバーンという家や村落を示すタイ語に、マーンコックというオリーブの樹が多かったという程度の意味だ。正式名は天使の都という意味のクルンテープからはじまる長いなまえがある。


 我々の帰盤の準備は調達した銃器の保護からはじまる。


 ルガーやスミスアンドウェッソンの美品を綿のわたにくるみ、プチプチしている英語ではショックアブソーバーという緩衝材をいれ、スターチと呼んでいた小麦粉状のもので隙間をうめる。スターチはまたタイへの視覚的また法的な目くらましだった。


 視覚的には不測の事態で官憲へ荷物の中身をみせるように言われたときに、カンボジア国境からのでんぷん粉の行商人と主張するためで、法的にはトムがおそらく架空の会社をつくってカンボジアからやたらと高いスターチを買ったことにしているのだろう。


 バックパックを背負ってすこし笑いあった。


 彼女との関係はそのとき一度だけだった。気まぐれだったのか、保険の一種だったのかはわからない。


 私はまた新しいユージをスカウトし、ホテル暮らしにもどった。トムは忙しそうで、理由なく私に当たることがふえた。


 トムのイライラはこの頃、陸軍が彼のビジネスをそっくり取ろうとしているのが原因のようだった。


 陸軍といっても左官級や尉官級ではなく、国境警備の部隊の下士官が目をつけた。国境とは、日本のように海に囲まれた島国以外では、陸続きでかなり長い。警備の手薄なところはたくさんある、というより警備がちゃんとしている場所のほうがすくない。そして国境警備兵はどこが手薄かは自分の匙かげんできまる。


「どうもカンボジアからの荷物がすくない」


 トムは行きつけの日本食レストランで刺身定食のあとでつぶやいた。


「アランヤプラテートがあやしい気がする」


 私たちは国境警備を避けるためにわざわざ南のハートレックで海からカンボジアに入っているが、バンコクから最短のカンボジア国境のアランヤプラテートで商品が手に入ればいうことはない。


 アランヤプラテートは「国土の果て」といったひどい意味の郡部で、カンボジア側の町はポイペットだ。ハートレックとちがい、内陸の国ざかいだ。


「おぬし、ジューンとノックと見にいってくれんか」


「ノックもですか」


「ジューンはベトナム人やからな」


「ノックもそうでしょう」


「パスポートのことや、あほ」


 ノックは日本人とも結婚しているが、タイ国籍も取得しているのだ。おなじカンボジア内戦のベトナム難民の子として育ったが、ノックはカオサン通りで住民登録もしているくらいタイになじんでいた。


 私もノックはずっとタイ人だと思っていた、訛りも私の耳にはわからなかった。


 出発は二日後だそうだ。私は急速に面倒なことに巻きこまれていると自覚した。


 一年まえにはじめてカンボジア人の入国を違法と知って手助けしたときや、ハートレックでジョーイとよんでいた少女と国境越えをしたときは、まだどこか自分を俯瞰でみているようなひとごとの気分があった。


 それは人間関係の面倒くささだとおもう。日本の高校生だったころは男子校ということもあって、濃密なけだるさが友人とのあいだにあった。海外に出て、すっきりリセットしたつもりが、どうやら人間との関係がふかまると、なんにせよ面倒なことになる。


 カオサンから出発することになった。私とジューンは前日からノックのゲストハウスに泊った。部屋はユージが責められていた南の角部屋だった。ツインのベッドの窓側に私は荷物をといた。なんだか気恥ずかしく私たちは早めの夕食にでた。


 一年ぶりのカオサンはよくもわるくも同じだった。物売りの声は大きく、我が物顔の白人、するどい目をした一部の人たちが一帯を占拠していた。


 物売りや白人はいつも通り私たちのほうががよけたが、一部の人たちには目礼をもらうようになった。私が知っている、または私を知っている人より、ジューンの交際のほうが広かった。明らかな私服警官と、制服の警官にも顔がつないであった。またマフィアの手先にもアイコンタクトをしていた。


 食事はタイスキにした、観光客が好むメニューであるが、それまであまりちゃんと食べたことがなかった。ジューンもこ洒落た店は慣れていなかったが、写真で取りあえずひと通り注文し、氷を入れたジョッキのビールで乾杯した。


 目で労いあってひと息にのむ、ジューンは半分までいった。


 すこしロリータ趣味の制服の女店員が唐辛子ほかのセットをもってくる。鍋に火が点けられて、出汁がわりとたっぷり入れられる。そこからが忙しい。野菜がくる、キノコがくる、魚と豚と牛肉、鶏のつくねが同時にくる。イカがあったりもする。


 それらをはじめはキノコからなどとやっているが、途中からどうでもよくなりごった煮になる。このスープがうまい。スープで酒をのむという不思議なことになる。唐辛子や生姜もどんどん入れていく。


 顔を汗が滝のようにという使い古された表現がおもわずでてしまうほどに流れる。


 しかし私もジューンもカオサンの貧乏旅行者のような、古びたTシャツに短パン、サンダルだったので、ドレスコードのあるホテルで会うときとちがい、シャツの肩で汗をふき、二の腕で口をぬぐった。


 ジューンは襟足を刈りあげるくらいの短髪で、男からみて色気のある男娼のような雰囲気だった。おそらく店員にはゲイのカップルとみられていたろう。私も当時は今より十キロやせていて、みためもましだったかと。


 女店員が残った鍋の汁に溶き卵とごはんをまぜて雑炊をつくっているときにジューンが、


「お前はいつまでタイにいるつもりなのか」


と訊いた。タイ語だったが、非難のかんじのある言葉づかいだった。


「いや、とうぶんいるつもりだけど」


と返すと、彼女は大げさな溜め息をついてみせた。


「お前はここにいる人間じゃない」


 ジューンは言った。自分は小学校しか出ていない、タイ語でセンという上流とのコネクションもない。しかしお前は日本に生まれて、ただのモラトリアムでタイにいる。


「それは無駄なことだ」


 英語に切り替えて断言した。私はうろたえた、そんなことを言われたのにおどろいた。


「しかしトムもここで成功しているし」


 私が言うとジューンは話にならないといった体で首をふった。声を抑えて、


「いいか、お前はいつでも切られるしっぽの先なんだよ」


 トムはいつでもお前を切れる、何だったら今回の交渉がうまくいかなかったら責任をとらされる。そこでジューンは私の手をとり、


「やめるなら今だ、日本に帰れ」


と言った。これで話はおわりとちょうどできていた雑炊に手をのばした。女店員は英語の会話はわからなかったろう。雑炊の味は絶品だった。

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