第7話 カジノと銃 2

 一つ一つを確かめてからジョーイがハンドバッグから五百バーツ札の束を渡した、大体三十万バーツ程度とみられた。日本円で百万くらいだが、当時のバンコクでの大卒初任給が三万円くらいだったので、大金に感じた。


 向こうの主人はそれを部下に数えさえ、拳銃をサブバッグに詰めてよこした。私が受け取るとずっしりとした重みと、金属の触れあう感触がある。


「弾はどうする」


とこれはタイ語。


「いらない」


 ジョーイがこたえる。金額を数え終った部下が耳打ちをする。


 ジョーイが立ち私をうながす。来た時の逆を通り甲板にもどる。海の気配と大気の広大なスペースが私を楽にした。


 ジョーイが酒を取って渡してくれた、彼女もカクテルを飲んでいる。


「君はベトナム人なんだね」


と訊くと、彼女は大きな目を更にむいた。


「よくわかったな」


 私は彼女の稚拙なカンボジア語や灼けていない部分の肌の白さから推察したと自慢げに語った。


「おまえにバレるようじゃだめだな」


 ジョーイは問わずがたりに身の上を話した。彼女が生れたのはタイとカンボジア国境の難民キャンプだという、レヒュジーキャンプと発音したときに侮蔑の表情がみえた。


 両親はカンボジア内戦の影響をもろに受けたベトナム系移民だったそうだ。内戦前はプノンペンで文具の卸商をしていたそうだが、内戦と知識人迫害のなかでタイまで逃げてきた。


 私とジョーイは舷側に立っていた。


「ジョーイは」


と言いかけると、


「ジューンと呼んで」


 横貌が背後からの光線に照らされる、逆に沖は暗く沈んでいた。星の位置からスターボードが南の海がわを向いているのが分った。


「ジューンは子供のころに何があった」


「何もなかったな、配給の食事と劣悪な環境だった」


 彼女は少し暗い目で言う。


「でも夢はあった、タイに行って金を稼ぎたかった」


「トムは君がずいぶん稼いでいるって言っていたけど」


「まだまだ足りないな」


 ジューンはかるく笑った、笑い顔を見たのは初めてだったと思う。


 月明かりに照らされて、ジューンの元もとの色の白さが際だつと、そのショートカットの髪から見える顔立ちは美しかった。前にカンボジアの国立博物館で見たエキゾチックな仏像のようだった。それはタイの温和な顔ではなく、すこし鋭利な印象がした。


「そろそろだ」


 ジューンは私の左腕に右手をからめる姿勢で舷側のライトが届かない場所にうつる。彼女がじっと波頭に目をこらす。


「来たぞ」


と言われるが、私にはなにも見えない。その後二十秒くらいでライトを消したスピードボートが認識できる。


 客船まで二十フィートのところでライトも消し、おそらくエンジンも切ったボートが惰性で進んでくる。


 ジューンに先を促されて舷側の折りたたみ階段をくだると、ちょうどボートが真下に着いた。そのボートは来るときの豪奢なものではなく、タイのハートレックから荒波こえて一緒に来た船だった。船主のいかつい親父が手を差し延べてくれる、不覚にも懐かしく感じた。


 船主のがっしりとした掌に腕をつかまれてボートに乗る、ジューンはドレスアップしたワンピースにもかかわらずかろやかに舷側をまたぐ。


 船倉に私のバックパックが転がっている。


「ひょっとしてこのまま」


と誰にともなく訊くが返事はない、私はあきらめて寝る努力をはじめた。


 たしかにいったん街に戻るのは危険だった。また夜間のほうが国境を海から越えるには好都合だ。


 しかし興奮しているのかあまり眠れず、甲板に出るとまだ盛装のジェーンが船尾に立っていた。


「このままハートレックまで行くのだな」


 気怠そうにジューンがうなづく。その後会話がつながらず、私はタバコを吸う、ジッポの火を掌でかこってくれた。しぐさが女性のそれだった。


 暗い波濤を二人でしばし見つめる。船の下から波紋がながれる。


「お前はどうするんだ」


「どうするって」


「俺たちの仕事を手伝うのか」


 彼女は下品なタイ語の主語で訊いた。


「今回みたいな単発なら十万バーツ、もし一緒にやるなら取り分は出資額で毎回割る」


 一緒にやるというのは一味にはいるということだろう、またカンボジア側へのハッタリ要員だけとむなら邦貨三十万だということだ。


「まあ、やってみてもいいよ」


 私は答えた、


「でも麻薬はごめんだよ」とも付け加えた。


 船倉で着替えをする。ジューンも近くで着替えている、背中の肌は象牙のように白かった。でも短パンとTシャツの姿にもどると、あくまでも少年の出稼ぎ労働者のようになった。


「タイに着いたら俺とお前は知らない同士だぞ」


 彼女はバックパックに小麦粉の袋といっしょに六丁の拳銃をしまった。


 朝まだきのハートレックの波止場に着いた時にはなつかしい気持ちになった。堤防の突端でおろされて、その場でジューンと背中合せにすわりこんだ。


 身体がまだふるえているような気がする。時計をみるとまだ五時まえだ。


 背中にジューンの体温を感じる、私より熱い。呼吸の音がきこえる、浅いねむりのようだ。そのまま暑くて座れなくなる七時過ぎまでシャム双生児のように過ごした。


 カフェですこしずつ食べて、たっぷり水分をとって、バンコク行きのピックアップを待った。


 今まではドライバーだったので乗客として待ち合せの東屋にすわるのは違和感がある。でも昔のジョーイ、今のジューンが疲れはてた様子で車を待っていたわけはよく分った。


 二か月まえの私のようなドライバーが、私が運転していたトヨタのピックアップをちかくに着ける。ジューンは前のほうの女性のとなりにすわり、私は後部に落ちついた。


 オープンスペースに濃い緑の木々が流れる、タイに帰ってきたと湿気がむかえてくれた。


 思えばカンボジアのシアヌークビルのほうが緯度は低いはずだが、乾いた印象があった。彼の国の悲惨な歴史がそう思わせるのかもしれないが。


 タイの湿った空気を吸いこみながらうたた寝していたようだ、短い夢をみた。夢の中で私は詰め襟の学ランで教室に座っていた。首の苦しさ、授業中の教室の圧迫感を思い出していた。私は一年くらい前まで巣鴨にある男子校に通っていたのだ。


 目覚めてみると開襟シャツの首にバックパックのストラップがかかっていた、その圧迫が高校生のころの詰め襟を想起させてなつかしい夢をみたのかもしれなかった。


 ストラップを外して、黒のホーキンスのバックパックに寄りかかる。ジューンが前の方からちらりと私と目を合わせた。カンボジア人達はわりに大人しくしている。


 ちょうど車がパーキングエリアに入った。欧米のカフェチェーンが併設されていてトイレもきれいだった。紙コップに熱いコーヒーを買って、テラスで煙草を吸う。


 


 この時の煙草とコーヒーがうまかった、やはり一昨日以来のドタバタに緊張していたのだなと改めておもう。

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