第5話 美少年 2

 夕景のクルンテープ、天使の都と言われるバンコクに着いたときには私の体はがちがちだった。


 中華街に着いて、トムに車を返し、「ボーナス」を受けとった。これであとひと月くらいは楽に暮らせるとほくそ笑んだ。


「自分、もっと稼がへんか」


 トムはさらっとたずねた。


「いや、もうしばらくいいですよ」


「さっきのトラートからのガキがおったろ?」


 中華街に着くなり下りた少年らしかった。


「あいつは稼いでるで、もっと金が欲しかったら聞いてみ」


 しかし今は一刻も早く寝たかった、カオサンに戻りシングルベットで、これまでにない深い眠りにつけた。


 お金があるのはありがたい。


 朝は西瓜のフレッシュジュースと、ベーコンエッグにトースト二枚、食後のコーヒーも頼んだ。


 移動にタクシーが増え、夜遊びをする日があり、朝の四時に起きられないことがあった。それで朝にノックと話す機会がすこし減った。


 トムの仕事はときどきやった。もともと一回でひと月二月過ごせる金になるから、明らかに出る金より入る金が多い。だんだん生活がぜいたくになる。


 季節は暑季から雨季にかわっていた。


 私のパスポートのカンボジア出入国スタンプが十をこえて、出入国管理官が不審な顔をしたり、要求が多額になったりしてきた頃。


「パスポート貸し」


と言われ渡すとトムはいきなり汚い運河にトゥクトゥクという三輪バイクから投げすてた。


「あしたでも再発行しておきや」


 トムは目のしたが隈になっている。ジョーイという私のツアーに二回に一回くらいで乗る、トラートまでの往復の少年もこの間にやつれてきていた。


「大丈夫ですか、疲れているみたいですけど」


 シーロム通りの日系レストランで名物のハンバーグを食べながら訊いた。トムはまぶしい平日のオフィス街を窓ごしに見ながら、それには応えなかった。


「自分、人生になにをもとめてるんや」


と逆にたずねられ、虚を突かれて黙ったあと、


「しあわせですかね」


 トムはわざとらしい溜め息をひとつして、


「ほなら自分は今しあわせなんか」ときく。


「まあ、そこそこ」


「なんでや」


「おかげさまで食ってけてますし、おもしろい毎日なんで」


 トムは「まぁ、それはええ」と急に興味をなくしたように言うと、


「ジョーイが人が足りひんゆうことや」


 真顔で向き合った。


「今までのかせぎが欲しかったら、協力してやれ」


 私はそれが今日めずらしくトムが昼飯をおごると言いだした理由だとわかった。


 帰りは別々にかえった、私はカオサンへ、トムは中華街へ。


 今までの経験からおそらく、麻薬か銃火器の密輸の話だということは知っていた。トムがもっとリスクを取ってリターンを大きくしろと言っていたのも理解できる。


 カオサンにもどると裏の市場でかばん屋から、そのかばん屋がつかっていた使い古しの麻のズタ袋を買った。


 次のツアーに私は客として乗った。


 灼けたTシャツにジーパン、サンダル、ズタ袋で早朝の通りにたつ。


 何か月かまえの自身のような日本人の若者が点呼にくるが、カンボジア人のふりをする。


 私は二重まぶたで鼻がたかく、若いころは痩せていたので、不自然ではなかったと思う。ジョーイが三列まえにすわっていた。


 ヘッドホンステレオで音楽を聴いていたし、とにかく国境を出るまではカンボジア人たちは静かなので、トラートまで気づかれずに着けた。


 トラートでジョーイが降りるときに一緒におりて、しかし声はかけずにうしろをついてゆく。港にでた。


 港まわりに突堤のさきまで歩くと、ドサッとバックを置いてそれによりかかる。私も真似をする。


「おまえは子供のころになにがあった?」


 ジョーイに訊かれて、なんでもあったよと答えると、


「日本に生まれることは幸運だな」


と言いながら目を閉じて眠ってしまった。私もヘッドホンをはずして仮眠をとった。


 肩をきつくつっ突かれてて起きたのは、夕景だった。


 沖のほうからクルーザー型のスピードボートと言われる船が近づいてくる、船首にこわい顔の朝黒でいかつい四十がらみの男。


 男とジョーイが早口のクメール語で話す、痩せぎすの小男がもやいをかける。私はバカのようにその光景をながめていた。船主がきて、


「トイレに行っておけ」


と言う、行きたくないと返事したが、とにかく行けとのとこで岬の公衆便所へ入った。


 舟は五人定員で一見高級に見えるが、外洋では役に立たない貧弱なエンジンだった。


 その船でタイ湾へ出た、湾とはいえトラート沖合いのチャン島を越えると波が高く力強くなった。


 私はてっきりチャン島で降りると思ったのでジョーイに、


「どこに行くのだ」


とスピードボートの手すりを掴んで訊いたが、彼はおなじく波しぶきを浴びながら首を振るだけだった、ちょっと意地のわるそうな笑みをうかべる。


 舟はどんどん沖合いに出ていく、視界の二百七十度は海原だ。


 後ろにタイの国土がかすむ。いやな予感がしたが、私をどうにかしてもそんなに利益はないはずだと思いなおす。


 風の向きがかわる、トラートから南に向いていた舟が、東に針路をかえたようだ。


 左舷の、いわゆるポート側にはタイの陸地がつづく。右舷のスターボードは海がひろがる。揺れが激しく、掴まっているだけでどんどん体力がうしなわれる。


 左舷をポート、港というのは昔から船乗りが港のルールで左舷を接岸するからだ。右舷をスターボードと呼ぶところに、英語のセンスを感じる。


 日が落ちて陸地が見えなくなり、ジョーイが強力なライトを発電機から点ける。前方の視野は確保されるが、十ノットにちかいペースでは直前に障害物があってもさけられない。


 そんな状況でも慣れてくるもので、うとうとした気もする。


 池袋の東急ハンズで買った懐中時計によると午前三時くらいに、アンカーを打つ気配があった。


 朝まだきの海上で私は起きあがった、腕と脚がひどい筋肉痛だった。


 船首の右舷に大きな島があり、左舷にはそれより小さい島、前にはおそらくカンボジアの国土がのびている。


 尿意をおぼえて船尾から用をたす。


 船主と小づかいは操縦席で、ジョーイは甲板で寝ている。


 ジーパンのポケットから煙草を出すと思ったより湿っていなかった、しかしライターが湿っていた。なかなか点かないライターに苦戦していると、寝起きのジョーイが後ろから近づいてきて、ジッポの火を貸してくれた。


「見せて」


と言うとおとなしく手わたす、ベトナム戦争時の米軍ライターだった。


 当時、まだカンボジアは内戦の悪夢から覚めてはいなかった。


 十代だった私と同年代のジョーイはその記憶を父母から聞いているだろう、父母がいればだが。


 しかしそのジッポのことはそれ以上訊かず、


「ここはどこだ」


と私にとって重要なことを尋ねた。ジョーイはまた意地わるく頬笑み、


「前の陸地がシアヌークビルだ」と答えた。


 内心で私はおどろきつつ考えた。今までの国境越えでは内陸の町を指定されていた、それは乗客のその後の移動に楽だからだ。シアヌークビルまで来たのはなにかこちらではなくてはいけない用事があるからだ。


「今日中には帰れなさそうだね」


 それにジョーイは応えなかった。

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