第2話 国境 2

 郵便局からの帰りに中華街に寄った。ここにはカオサンとはまた違う長期滞在者がいる。七月旅社、ジュライホテルの上階にトムさんを訪ねる、トムと言っても日本人、しかも関西のひとだ。


「おお、どうした」


と無精ひげとぼさぼさ髪であきらかに寝起きのトムがドアを開ける。当時で三十歳くらい、ずいぶん大人に見えたものだ。


「自分、もっと来ないとさみしいな」


 相手のことを自分と呼ぶのも珍しかった。


「ところで考えてくれたんか」


と前に来た時の話題をふる。私は少し考えるふりをしたが心は決まっていた。


「まあ、ほんとうにトムさんの言うとおりにいくならやりますよ」


 トムは唇の端でわらい、


「いやあ、見込んだったとおりや」と掌をたたいた。


 トムの仕事というのは、密入国のカンボジア人を国境まで送っていくというものだった。一日で二千バーツ、七千円くらいだが当時の私には一週間はすごせる大金だった。


「免許は持ってないねんな」


「ないです」


「でもクルマは運転できるな」


「できます」


「マニュアルの古いクルマでオフロードやで」


 ちょっと躊躇したが引けなかった、「やります」と答えると、枕頭台から鍵の束を取りだしガチャガチャしてから、


「これや」


とT社のバンの鍵を渡した。


「裏の青のピックアップや、わかっとるな」


 無言でうなづいた。


 その日はピックアップトラックの荷台を改造した青いバンでカオサンに帰り、駐禁が取られない路地にとめて早く寝た。トムの仕事は人手不足で、翌朝五時には車を警察署の裏にまわした。逆に人目につきにくいし、また警察からここのところははまあ、という感じで釈放されるクライアントもいるのでこの場所で集合することになったのだろう。


 四十代から未成年までの男女が六人集まった。最年長ふう男性はキャリーバッグ、若い男の子は布のかばんだった。皆なにも言わないし、こちらも事務的に料金を預かる。一人五百バーツ、六人で三千バーツ、ガソリン代を入れたらトムは赤字ではないかと余計な心配をする。


 一組、三十代の年増おんなと小学生くらいのむすめが、十バーツ硬貨も入れた細かい金で二人ぶんの千バーツを払ったのを覚えている。


「では行きます」と端的に言って、クラッチを入れた。車は意外にスムースに動いた、バンコクの朝の光景がリアウィンドウに流れる。


 いつもバーミーという汁そばをたべる屋台の女将が小僧に指示している、パートンコーと呼ぶ小麦のお菓子とコーヒーの店も過ぎる。


 私は空いている助手席に投げた路線図をみる、高速に入ったほうが早いかイチ赤信号ぶん考えてやめる。下の道をだらだらと行くと幹線道路に入った。6車線の立派な道である、しかしそれはすぐに消えた。つぎは片側2車線の舗装された道で、一方にはパイナップルの屋台、逆は民家が続く。民家はむき出しの木で出来ており、一軒の敷地は東京では考えられない広さだ。


 牛が鳴く。


 黒い大きな鳥がとぶ。


 すこし睡くなってきたので、トムに言われたあたりで休憩をとる。


「三十分の休みです、お手洗いや飲食物などの購入をすませてください」


と伝えてから私はトイレの横でタバコを吸った。見ているが、誰もバンから出ない。


結局、十分程度で車を出した。「パタヤー」の表示に注意してくだっていく。


 パタヤ市内へはバンコクから三時間かかった、白人の多いビーチリゾートで「ここでブランチをとれ」とトムに言われていた。英語表記の多い、つまり最低ラインの保証されているドライブインに駐めた。今度はバンの皆がそれぞれ用を足しにでた。


 私はハムエッグに薄切りのトーストをたべた。皆もそれぞれなにか買ったり食べたりしている。地図を見るとここまでで一時間おくれている。


 午前中のあかるい光に目を細めながら、ラヨーン県をめざす。運転に慣れてきて八十から百キロ前後で進み、遅れを取りもどして次の休憩所に着けた。縁石にすわって一服していると、布のかばんを大事にかかえた若い男が近づいてきて、すこしクメール語の訛りのあるタイ語で尋ねてきた。


「いつごろ着くのか」と訊くので、「午後遅く、でもイミグレーションが閉まるまえには着くよ」と答えると、顔をしかめた。


「トラート県に二時に着きたいのだが」


 私は懐中時計をジーンズのポケットから出してみたが、無理そうなのはわかっていた。


「早くて三時だな」


と応えると、布のかばんをゴソゴソして千バーツ札を寄こした。


「二時に着いてほしい、頼む」


 彼を見つめなおす。浅ぐろい肌だが貌だちは整っている、細身で手足がながい。


 取りあえず千バーツはいただいて、


「まあ、がんばってみますよ」とやる気のない返事をした。


千バーツが効いたか渋滞もなくトラート県にはいったのは午後一時過ぎだった。


 くだんの男は途中でおりたいと言った。それは私の責任外だと思ったのでそのまま降ろした。


 トラートの中心街で一回トムに連絡する約束をしていた。当時は携帯電話などこの国に普及してなくて、休憩したホテルの受け付けで電話をかりた。


「どないや」が第一声。トラートに着いたことと、一人下車したことをつたえた。


「ほうか、自分、もうちょっと稼げへんか」


「稼ぐってなんですか」


「そいつら連れてカンボジアまで行けたら料金倍にしたるわ」


「えっ、今日帰らなくていいんですか」


「向こうで一泊してゆっくり帰ってこいや、車は明日でええ」


 国境のハートレックでカンボジア側から迎えが来ていると思ったのでちょっと意外だったが、四千バーツの報酬は魅力的だった。


「まあそれくらいならいいですよ」


「よっしゃ決まりや、向こうではここのゲストハウスに泊まれ」


と住所と電話番号をおしえる。

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